第29話 秘密の時間



 私がリビングのソファの上で漫画を読んでいると、お風呂上がりの冴子さえこさんが傍にやって来た。


 私の手元を覗き込んでいる。


「これ、気になりますか?」


「帰ってからずっと読んでるから。面白いの?」


「面白いですよ。オフィスを舞台にした百合なんです。会社の先輩と後輩の百合なんです!」


「私たちみたいな関係ってこと?」


「まぁ、そうですね。冴子さんも読みますか?」


 私はすでに読み終えた一巻と二巻を渡す。冴子さんは漫画を開くと、私の隣りに腰を下ろして読み始めたので、私はドライヤーを取りに行く。


 そのまま彼女の後ろに回って、髪を乾かす。


 お風呂上がりはお互いに相手の髪を乾かすのが、何となく私たちの習慣になっている。


 冴子さんは興味を持ったのか、次々とページをめくっていく。かなりはまっている漫画なので、冴子さんも楽しんでくれているなら嬉しい。


 よく考えてみると、冴子さんが漫画を読んでいるのをあまり見ない。私が読んでても、興味を示すことも少なかった。元々漫画にはあまり関心がないのかもしれない。


 そんな冴子さんが漫画、それも百合漫画に夢中になっているなら、よほど面白く感じたのだろう。


 冴子さんの髪が乾いたので、私はお風呂に向う。


 ゆっくり漫画を楽しめるように、私は少し長めに入ってこよう。


 私が今はまっている百合漫画は、さっき冴子さんにも説明した通り、同じ会社の先輩と後輩の恋愛漫画だ。


 最初は性格がキツくて当たりも強くて苦手だった先輩と、いつの間にか距離を縮めて仲良くなる主人公。


 恋人同士になると、その先輩が会社でも家でも甘えてきて、今までの厳しい姿とのギャップが可愛くて楽しい話だ。


 冴子さんも一見すると近寄りがたさがあるけれど、とても優しい。あまり甘えられることはないけど、冴子さんが自分にデレデレになったら、それはそれでたまらなく可愛いくなるに違いない。


 たまにでも甘えられると、その姿にキュンとなる。


 だから私はその漫画には特に感情移入しやすいのかもしれない。


 長風呂をしてリビングに戻ると、冴子さんはまだ漫画を読んでいた。私がまだ読み終えてない三巻を手にしている。よほど、冴子さんもはまってしまったらしい。近づいても気づかないので、冷蔵庫から持って来たミネラルウォーターのペットボトルを冴子さんの首元に当てたら、こちらに振り向いた。


「⋯⋯びっくりした。何かと思ったじゃない」


「最新刊、私もまだ読み終わってないのにずるいですよー」


「ごめん。続きが気になって」


「いいですよ。そのまま読んでてください」


「その前に髪乾かすから、奈津なつこっち来て」


「読んでてもいいのに」


 私は呼ばれるまま、冴子さんの前に座る。髪を乾かしてもらいながら、取り留めもなく漫画の話で盛り上がった。好きなことを一緒に話せるのは楽しい。

 

 



 翌日のお昼のことだった。


 私と冴子さんは社員食堂でお昼を食べていた。同じ広報部のたちばな先輩と小塚こづか先輩も一緒だった。


「そういえば、事業部の斎藤さいとう部長と秘書課の五十嵐いがらしさんって付き合ってるらしいよ」


 小塚先輩が急に声をひそめたかと思ったら、そんな話を始めた。


 事業部の斎藤部長と言えば、社内でもイケオジとして、なかなかに有名な人である。がっちりした筋肉質のワイルド系な見た目が、女性たちを虜にしている。男性に基本的に興味がない私も、俳優さんみたいな雰囲気の人だなと思うし、人気があるのも分かる。秘書課の五十嵐さんもアラフォーとは思えないスタイルの良さと溌剌とした若さがある人で、冴子さんにも劣らぬ長身の持ち主だ。


「美男美女でいいじゃない。はぁ、私も男ほしい。彼氏ほしい⋯⋯」


 向かいで橘先輩がため息をついた。


「橘先輩モテそうなのにモテませんよね」


 小塚先輩は笑っている。


「社内ではモテないんだよねー。まぁオフィスラブは遠慮したいから別にいいけど」


「社外でもモテないから一人なんでしょ?」


 冴子さんがいじわるく笑う。


「自分が幸せだからって、偉そうだねぇ冴子」


 橘先輩も応じる。端から見たら険悪な二人に映るかもしれないが、冴子さんと橘先輩なりのコミュニケーションなので、気にする必要はない。


 私も小塚先輩も慣れているので、二人がバチバチ火花を散らしてそうでも、気にせず箸を進める。


「冴子は可愛い、可愛い恋人がいるから余裕よねぇ。オフィスラブはさぞかし楽しいでしょうねぇ」


「へぇ、高野先輩の彼氏さん、社内の人なんですか?」


 小塚先輩のその一言で私たち三人は固まった。


 冴子さんと私が付き合っていることは当然秘密であり、社内でその事を知っているのは橘先輩のみである。


「橘はすぐ口からでまかせ言うんだから」


 冴子さんは何でもないかのようにしれっと返した。


「よく考えたら冴子にオフィスラブなんて無理よねー。絶対我慢できなくて仕事中に恋人に手出しそうだしね」


 橘先輩はしまった、という顔をしたものの何とか誤魔化す。ひどい方向への誤魔化し方だけれど。


「人を理性のない人間みたいに言わないで」


 冴子さんがわざとらしくぶんむくれてるのを見ながら、以前社内でキスされたことを思い出す

 わざわざ私が挑発しなくても、今の冴子さんは私に構ってくれる。


 付き合い始めてから気づけば一年弱が過ぎている。


 あの頃から日々を重ねて、冴子さんとの時間を重ねてきた。


 今ではもうなくてはならない人。大事な人になっている。


 ただ好きで憧れていただけの季節は終わって、冴子さんは私にとってかけがえのない家族同然に大切な存在だ。


 横を見れば、冴子さんと目が合う。


 昔ならきっとすごくドキドキしていた。


 でも今はすごく安心感がある。 

        

(もうあの漫画の二人みたいに社内で見つからないように触れ合うなんてないんだろうな)


 それは少しだけ寂しくもあるけど、そもそも会社で仲良くしすぎるのも問題だ。


 今は家で存分に甘えられるのだからそれでいい。


「ところで高野先輩、実際付き合ってる方いるんですか? 先輩の彼氏さんって何か想像つかないんですよね。どんな人なのか気になります」


 小塚先輩は瞳を爛々と輝かせて冴子さんを見つめている。斜向かいに座る私が相手とは思いもよらぬだろう。


 冴子さんがどう答えるのか、私も横顔を注視する。


「私も気になる〜」 


 ニヤニヤしながら橘先輩も乗っかる。


「⋯⋯秘密」


 そっけなく返事した冴子さんは味噌汁を口に運ぶ。これ以上は言う気がないのだろう。


 ありのままを答えるわけにはいかない。


「えー、何で秘密なのー? 奈津ちゃんも知りたいよね!?」


 急に橘先輩に振られて、私はあたふたしながらも取り敢えず頷く。


「宝物は隠しておくものじゃない? だから秘密」

 

 私の方を見ながら言われて、どきりとする。あんまりに優しい、包み込むような眼差しで。


「誰にも興味持たれたくないの。私の恋人に。この話はこれでおしまい!」 


「本当に冴子は相変わらず独占欲の塊なんだから」


「好きなように言って」


 後は意に介さないとばかりに、冴子さんはサラダを食べ始めた。


 そこからは橘先輩が別の話を振ったため、冴子さんの恋人についての話は流れていく。


 宝物。その場でとっさに出ただけだとしても、冴子さんは私を大事に思ってくれているのだと改めて知って嬉しくなる。



 

 


 午後から他部署との会議があった。


 今回の会議で使う資料は私がまとめたもので、何度も冴子さんにチェックしてもらいながら作り上げたものだ。


 おかげで課長たちからは分かりやすかったと褒めてもらえた。


 会議が終わり、室内にいた人たちがパラパラと出て行く。


「今日の会議、上手く行ったのは奈津のおかげね」


 資料をファイルにしまいながら、冴子さんが笑顔をくれた。 


「ありがとうございます。冴子さんの的確なアドバイスがあったから、ですよ」 


「家に帰ってからも、資料に頭悩ませてたもんね」


「そうですね。冴子さんが最後まで付き合ってくれましたから、悩みも途中でなくなりました」


 気づくと会議室には私たち二人しかいない。


 ふと、以前ここに引っ張って来られて冴子さんにキスされたことを思い出す。


 椅子から立ち上がった冴子さんは、穏やか表情だけど、とても会社でキスしてくるようには見えない。


 いかにも仕事ができそうなキャリアウーマン然としていて、不謹慎なことなど微塵もしなさそうだ。


「帰りにフルーツタルトでも買おうか。奈津のお気に入りのお店で。最近甘いもの食べてないでしょ。今日上手くいったお祝いに」


「ご褒美ってことですか?」


「そう。パフェでもいいよ。どっちがいい?」


 私が資料作りに多少なりとも難儀していたことを知っているから、資料の評判が良かったことを喜んでくれているのが伝わって、私の気持ちもふわふわと舞い上がる。


 冴子さんの見守るような瞳に見下ろされ、私の気持ちは先走ってゆく。


 出入口に対して背を向けて立つ冴子さんを見て、私の中の小悪魔が手招きする。


 私たちは身長差があるので、出入口から見たら私の姿は見えにくいはずだ。


「フルーツタルトもパフェもいいですけど、もっといいご褒美がほしいです」


「もっといいもの? 何?」


 きょとんとして考え込む冴子さんの首元に私は手をかけて、引き寄せた。


 唇が重なる。


 場所が場所だけに、すぐに体を離したから触れたのはほんの一瞬。


 でも私は満足だ。


「冴子さん、ご褒美いただきました! ありがとうございます!」


「なっ、奈津!」


 珍しく慌てている冴子さんが可愛くて、自然と笑みがこぼれてしまう。


「久しぶりにこういうのもいいですよね」


 私は先に会議室の出口へと向った。 

 

 

 


 私と冴子さんは階段を降りていた。


 クリーム色の汚れなどほとんどないような、人気のない階段を降りていく。


 普段、仕事を終えたらエレベーターで一階まで向かうのだが、最近ダイエット中の私は移動に階段を使っている。


 冴子さんの作るご飯が美味しすぎて、ずっとキープしていた体重に変化をきたしてしまった。


 美味しいご飯はあまり減らさずに、運動で体重を減らす作戦だ。


 冴子さんはダイエットしているわけではないので、一人でエレベーターで先に行っててもらっても構わない。だけど、私に付き合って一緒に階段で移動してくれている。


「奈津、ご褒美のデザートどうする?」


「ダイエット中なのでパス、したいですけど、甘いものが恋しくなってきたので迷っているところです。さっきもらったご褒美でも十分ですけどね」


「あれだけでいいの? もっとあげてもいいけど?」


 階段を先に降りていた冴子さんは立ち止まると、意味ありげな目線をよこす。


「くれるものならもらっておきたいですね」


 再び静かな階段を、足音を響かせながら下へと向かっていく。


 踊り場に降りたところで、冴子さんに抱き寄せられて、そのまま壁まで押しやられた。


 壁に手をついて私の視線を奪うように見つめられ、私は身じろぎもせずただ見上げていた。


 芯が強そうな中にも根の優しさが垣間見えるような、整った相貌は獲物を狙う獣のごとき鋭さを見せている。


(これっていわゆる壁ドンってやつなんじゃ⋯⋯)


 漫画やドラマで見たシチュエーションだと気づいて、心臓が速くなる。


 あの百合漫画にもオフィスの片隅で壁ドンされるシーンがあったことが蘇る。


 近づいてくる顔に、私はそっと目を閉じた。


 自分の唇のすぐ前に冴子さんの気配を感じで、誰かに見つかるかもしれない焦りと、キスの甘やかさへの期待が入り交じる。


 しかし、遠くから聞こえてくる話声に冴子さんは私から離れた。


 目を開ければ、キスをしようとしていたとはとうてい思えない、さばさばとした表情の冴子さんがいた。


「帰ろうか」


 と言われて私は頷く。


「奈津、不満そうね」


 興味深そうに冴子さんは忍び笑いを浮かべている。


「昔の冴子さんはもっと情熱的だったなぁと思って」


「今も昔も私は同じままだけど」 


 話しながら私たちの意識は声がした上階に向けられている。声はだんだんと遠ざかっていった。


 それを合図と言わんばかりに、冴子さんは私の頭を抱き寄せると、しびれるようなキスで私の口を塞いだ。


 何かも捨ててただ二人でしか味わえない享楽に身を投じたくなる。


 どれくらいの時間、そうしていたかは分からない。きっとそんなに長くはない時間だったと思うけれど、濃密な二人だけの一時ひとときだった。

 

「こんなところで本気になってもしょうがないから、続きはあとでね」


 冴子さんに爽やかに微笑まれて、ここは会社の踊り場なのだと思い出す。


 何だかまだ唇が熱い。


「で、タルトとパフェどっちにするんだっけ?」


「家で食べたいので、タルトがいいです」


「それじゃあスーパー行って、その帰りにケーキ屋に寄ろうか」


「はい」


 私たちは誰に見られたわけでもないのに、先程までのキスなどなかったように会話をしている。


 やはり社内で親密なことをするのは控えよう。


 内に芽生えた熱を冷ましながら、私は冴子さんと共に会社を出た。

 

 

 


 家で夕飯を終えると、冴子さんが冷蔵庫からケーキを出して、私の前にフルーツタルトとコーヒーを並べてくれた。


「奈津が頑張ったご褒美」


「ありがとうございます。でもこんなことでご褒美が出るって贅沢かもしれませんね」


「いいじゃない。奈津は実際、頑張ってたんだし。ダイエットだって頑張ってるんだから、たまには息抜きやご褒美があってもいいでしょ」


「そうですね」


 私はありがたく好物のフルーツタルトをいただくことにする。


 ちなみにチョコレート好きの冴子さんは、ザッハトルテを食べている。


 二人で美味しい甘味に舌を鳴らす。


 ケーキが皿からなくなったところで、私はお昼の会話が脳裏に再現された。


 ふと、冴子さんが自分の恋人については『秘密』だと言ったことが気にかかる。 


「冴子さん、橘先輩たちと話したこと覚えてます?」


「今日のお昼の? エビフライが名物のお店のあれ?」


「それじゃなくてですね⋯⋯。ほら、冴子さんの恋人はどんな人か聞かれたじゃないですか」


「あぁ、そっちね。秘密って答えたの嫌だった?」


「本当のことを言うわけにはいかないですから、怒ってなんていないですよ。色々誤魔化しようはあったのに、何で秘密って言ったのかなって」


 ポーカーフェイスが得意な冴子さんなら、どうとでもそれらしく答えるのは何でもなかっただろう。


 だけど冴子さんは具体的には話さず、秘密だと言って話を終えた。


「私の相手がいかにも男みたいに言うのはさすがに抵抗があったのよ。後で蒸し返されても面倒だし。そもそも奈津は男じゃないしね。だから嘘でもあたかも私の恋人が男みたいな素振りはしたくなかったの。それだけよ」


「確かに、冴子さんに彼氏がいるってはっきりしたら、周りの人はどんな人か知りたくなる人も出ますよね」


「私の恋人は奈津なんだから、奈津以外の人間と付き合ってるのを装うなんてしたくないじゃない。奈津もそれは嫌でしょう?」


「やむを得ない嘘なら仕方ないかなって思います。会社で本当のことは言えないので」


「絶対に嘘で通さなきゃいけないわけでもないし、私は言ってもいいなら全然構わないと思ってる。⋯⋯でも世間はそうじゃないから。せめてそんな嘘だけはつかないようにしたいってだけ。私の恋人は奈津だけだから」 


 冴子さんはテーブルの向こうから手を伸ばして、私の頬を優しく撫でた。


「私の宝物は奈津だけ」


「宝物って思ってくれてるんですね」


「奈津にとって私はそうじゃない?」


 少し寂しそうに、冴子さんは憂いの色を滲ませた。


「私にとっても冴子さんは宝物ですよ。ずっと大事にしたい、私の宝物です」


 私たちはしばし見つめ合い、自然と顔が近づく。


 しかしテーブルに阻まれてバランスを崩した私たちは、思いっきり互いの鼻をぶつけてしまった。


 どちらともなく笑い出す。


「仲良くするのは片付けて、お風呂に入ってからにしようか」


「それもそうですね」


 ゆっくり夜が更けてゆく。


 大切な人との二度とない時間をきちんと重ねていこう。これからも、この先も。 

  

              

       

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