第28話 桜の季節



 春のまだ少し冷たい風が、干したばかりのシーツをはためかせる。暖かな陽光が洗いたての洗濯物を照らしていた。


 ベランダから表を見渡せば、少し離れた場所にある小さな公園の桜が満開になっているのが見えた。ほんのり薄紅色の花をたわわにつけた木々は、まるで光っているかのように辺りを明るくしている。


 洗濯日和でお花見日和の土曜日。


 私の心の中にも春の浮足立った気分が駆け込んで来る。


 空になった洗濯かごを持ってリビングに戻る。ソファでは冴子さんがタブレット片手に何か見ていた。


「洗濯終わっちゃいましたー」


「ありがとう。ご苦労様。前から思ってたんだけど、奈津なつって洗濯終わると残念そうにするよね」


「えー、そうですかね。顔に出てました?洗濯好きなのでちょっと終わると寂しいんですよね」 


「私とは真逆ね。洗濯嫌いだから奈津がやってくれるようになってすごく助かってる」


「私はご飯を冴子さえこさんに任せっぱなしですから。ちょうどいいかもしれませんね。今更ですけど。⋯⋯ところで何見てたんですか?」


「⋯⋯たいしたものじゃないよ。⋯⋯猫見てただけ」


 というわりには何だか歯切れが悪い気がするけれど、冴子さんだって何でも私に話したいわけではないだろうし、これ以上は踏み込まないでおこう。


「本当に猫大好きですよね、冴子さん」 

     

 私は横を通り過ぎてかごを戻しに行き、寝室に向かう。毛布を剥ぎ取って再びベランダに出て干す。


 足元を見ると、どこから来たのか、あの公園から舞い飛んで来たのか桜の花びらが落ちていた。見に来てと桜が言っているような気になる。


 私はリビングのソファに腰を下ろして、隣りの冴子さんに聞いた。


「桜見に行きませんか? 天気もいいですし、一緒に桜見に行きたいなぁと思って」


「桜ね。もう満開になってるものね。散歩にでも行く?」


「行きたいです!」 


 私たちは桜を見に散歩へ出かけることになった。


 マンションを出ると春の柔らかな日差しに迎えられる。エントランス脇の花壇には、色とりどりのパンジーが花開いている。あちらこちらに春が形となっていた。


 私たちはベランダから見えた公園の方へと足を進めた。


 民家の庭に植えられた名も知らぬ花たちの共演が目に嬉しい。


 寒かった冬はずっと遠くまで去ってしまったのだと実感する。


 ふと隣りの冴子の横顔を見上げる。


 休日に冴子さんの横を歩いてるなんて、一年前の私に話したらびっくりするだろう。あの頃の私は、ずっと憧れていた人とまさか恋人になれるなんて想像もしていなかった。


 到着した公園はあまり大きくはないものの、立派な桜の木が植えられており、春風によって桜吹雪を起こしている。


 はらはら、ひらひらと小さな花びらが私たちの前を舞ってゆく。


「きれいですね」


「うん」


 二人して入口の側に立つ桜を見上げる。


 青空に薄紅の桜がよく映えた。


 私たちは桜の下にあるベンチへ腰掛ける。舞ってくる花びらを掴もうとするが、なかなか上手くいかない。


「奈津、下手ね」


「冴子さんはちゃんとキャッチできるんですか?」


「そんなに難しいことでもないでしょ」


 冴子さんはいつものクールな面持ちを崩すことなく、すっと目の前に落ちてきた花びらへと手を伸ばす。


 しかし花びらは避けるようにひらりとかわして地面へ落ちた。


「できませんでしたよねー?」


「⋯⋯今のは失敗」


 再び冴子さんが落ちて来る花びらを、今度は見事に掴んでみせた。


 ぐーにした手をぱっと広げると、一枚の花びら。

「ほら、できた」


「二回はずるいですよ。私だって」


 冴子さんに負けじと私は舞い散る花びらを掴もうと白い軌道を追う。しかし何回やってもあと少しのところで花びらは指先から離れる。


「もう、いいです。冴子さんの勝ちで」


「拗ねないで、奈津」


 私を慰めるように、冴子さんは私の頭をポンポンする。ちょっと悔しい。


「奈津って負けず嫌いよね」


「そうですか? そんなことないですよ」


「そのわりにはご機嫌ななめだね」


 冴子さんにほっぺたをむにむにされる。


「私で楽しまないでください」


「そんなこと言われても、可愛いから」


 春の光に負けないくらい優しい笑みを私に見せる。こんな冴子さんの表情、付き合っていなかったら一生知らないままだったかもしれない。


 付き合い始めた頃はもっと素っ気なかったのに、今では色んな顔を私は見ることができる。


「どうかした、奈津?」


「いえ。何か不思議だなーって」


「?」


「一年前は冴子さんとはただの先輩と後輩だったんですよ。去年の春と今年では全然違う関係になってるなんて、一年前には思ってもみませんでした。改めて考えると、不思議な気分になるんです。私、冴子さんの彼女になれたんだなぁって」


「確かに一年後なんて何も変わってないようで、意外と変わってるものね。私も奈津と付き合ってるんなんて想像してなかったし」


「来年はどうなってるんでしょうね」


「さぁ、それは分からない。分からないけど、奈津といたらきっとこの先も楽しいと私は思ってる」


「冴子さん⋯⋯。私もです。私も冴子さんがいたらどんな春も、夏も、秋も冬だって楽しくて幸せです」


 私たちはしばらく桜を見つめていた。


 この公園がなくならない限り、この桜も来年、再来年とずっと咲いているだろう。


 私たちも桜のように変わらずに季節を過ごしていたい。


 突然、強い風が吹いて花びらが雪のごとく私たちの上に降り注いだ。


 私はすかさず手を伸ばして花びらを掴む。


「見てください、冴子さん! たくさん、取れました!」


「その花びらの分だけいいことがあるかもね」


 冴子さんが微笑む。


 大好きな人のこの笑顔を永遠に私は忘れない気がする。

 

 

 


 私たちは公園を後にして、川を目指して歩いていた。近くに流れる小さな川には桜が何本も植えられて、春の名所となっていた。


「そう言えば冴子さん、付き合い始めた頃、あんまりかまってくれませんでしたよね」


 今は口に出さなくても出してもかまってくれる冴子さんだが、最初の頃はかなり素っ気なかった。素っ気なさ過ぎて、付き合ってるのは私の一方的な思い込みなんじゃないかと思ったことがあるくらいだ。


「あー⋯⋯。うん。まぁね。正直、勢いで付き合ったようなものだったし。年下と付き合うのが初めてだったから、どうしていいのかよく分かんなかったのよ。別に奈津がどうでもよかったとかじゃないからね」


「何だか意外です。冴子さん、恋愛経験豊富そうなのに」


「そこは人並みだと思うけどね。奈津の方こそ随分小悪魔な振る舞いしちゃって。普段のほほんとしてるくせに、他の女に慣れてるような態度で。あれは何だったの?」


「あ、あれは冴子さんがかまってくれなかったからで⋯⋯」


「結果的に上手くいったから、あれは私の勝ちね」


「どうでしょう? 冴子さんがかまってくれるようになったので私の勝ちな気がします」


「言われたらそうかも。やっぱり負けず嫌いだよね、奈津」


「そんなことないですってば!!」


 しょうもないことを言い合っていたら、目的地が見えて来た。桜並木が見える。


「冴子さん、すごい。ここも満開になってますね」


 川の近くまで来ると、これでもかと咲き誇る桜が並び、圧巻の一言だった。


 春が鎮座している。


 他にも桜を見に来たであろう人たちが目に止まった。これだけ素敵な桜並木なら、誰だって見に来たくなる。


 川面は花筏であふれ、薄紅色の川が流れていた。


「桜の季節にここに来るの初めてなんですよね」


 一年前は別の場所に住んでいたから。


「私もちゃんと見るのは初めてかもしれない」


 上を見上げると提灯がぶら下がっていた。夜桜も楽しめるのかもしれない。


「いいですね、風情があって」


 私たちは気が赴くままに川沿いを歩く。


「あと一週間くらいで散るなんて残念ですよね。もう少し花の期間が長かったらいいのに」 


「そうだね。奈津、来年も見に来よう」


「はい! 再来年もその先も」


 私たちがお互いが望めば何度でも、何度だってこうして桜を見ることができる。


 冴子さんと春を迎えられてよかった。


 次の年も彼女の隣りを歩いていられますように。


 私はそう願いながら桜を楽しんだ。

           

  

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