第14話 馴れ初め
寒さで目が覚めた私はサイドテーブルに置いてある時計を確認した。午前五時にそろそろなろうかという時刻。起きるにはまだ早い。
部屋の中に控えめな雨音が落ちて来る。
昨日の天気予報で、今日は丸一日雨になると見たことを思い出す。
十月にしては寒すぎる冷たい空気から逃れるために、私は隣りですやすやと寝息を立てる
パジャマ越しに伝わるぬくもりにほっとする。
しばらくすると冴子さんがもぞもぞと動き出したので、私は腰に回した腕を離した。起こしてしまっただろうか。
「⋯⋯
気怠そうに開かれた目が私を見つめる。
「ごめん、起こした?」
「いえ、私の方こそ起こしちゃいましたか? 私はさっき目が覚めて」
「私もさっき起きたところ」
眠そうにあくびをした冴子さんは時計を確認する。
「まだこんな時間か。揃って変な時間に目が覚めるなんて。奈津、寒くない?」
「ちょっと寒いですね」
冴子さんはベッドから出るとクローゼットから毛布を引っ張り出して来て、上にかけた。
「少しマシになった?」
「毛布より私は冴子さんで暖を取りたいです」
と言ったら早朝からするとは思えないキスをされて唇を塞がれた。今日がお休みならそれもいいけれど、あいにく数時間後には仕事に行かなければならない。このままでは眠気が吹っ飛んでしまう。
「冴子さん、そういうことじゃなくて」
「違うの?」
「嫌じゃないけど違います」
私は冴子さんに抱きついた。
毛布より布団より大好きな彼女の体温に触れたい。
「ああ、そういうこと」
納得した冴子さんに抱きしめられて、私は彼女の体に顔を埋める。
安らぎを得た私は雨音を聞きながら、冴子さんのことを好きになった時のことを思い出しつつ再び眠りに落ちた。
あれは私が入社した年の六月のことだった。梅雨真っ只中で、昨晩から雨が降り続けていた。その割には蒸し蒸しと暑くて鬱陶しい。
電車を降りて、駅から出た私は会社へと続く道を進む。ちょうど、高架の下を抜けようとしていた時だった。私は大型車のタイヤが跳ね上げた水たまりの飛沫を、盛大に被ってしまった。傘で防ぐ間もなくあっという間の出来事だった。
左半身が見事に濡れていた。
着替えはないし、家に戻る時間もない。
「大丈夫ですか? そこ、雨が多い日は気をつけた方がいいですよ」
後から来た年配の男性がそう言って去って行く。
今日は運が悪い。
私は服をハンドタオルで拭きながら会社へ向かう。こんな格好で行かなくてはならいのが、恥ずかしくて泣きたくなった。みっともなくて、周りの過ぎ去る人たちに奇異な目で見られているのではないかと、不安になる。会社に行きたくなくて、自然と足が止まってしまう。
「
名前を呼ばれ振り返るとそこには私が入社以来、密かに憧れていた冴子さんがいた。
「⋯
「おはよう。これ持っててくれる」
突然、冴子さんに傘とカバンを押し付けられる。
何だろうと思って見ていると、冴子さんは来ていた黒いカーディガンを脱ぎだした。今日は雨が降るわりに蒸して暑いから、脱ぎたくなったのかもしれない。露わになった白くすらりとした腕に釘付けになる。
「取り敢えずこれ着ておいて」
冴子さんは私の肩に脱いだカーディガンをかけた。
「さ、寒くないので大丈夫です!!」
私が慌てて返そうとしたら耳元で
「シャツ透けてるから。黙ってこれ着てなさい」
有無を言わさぬ口調で強引に羽織らされた。
「そんな泣きそうな顔しなくても大丈夫だから」
そっと肩を叩かれ、別の意味で涙が出そうになる。
冴子さんの何事にも動じないような佇まいに憧れていたけれど、何となく怖そうでもあり近寄りがたさも感じていた。だから、気にかけてくれたことが無性に嬉しくなる。
(先輩、優しい人なんだ)
「ありがとうございます!!」
私は土下座でもするかの勢いで頭を下げた。
「ところで藍田は着替え持ってる?」
「持っていません⋯」
「会社のロッカーに着替えあるから、後で貸す」
「あの、でも⋯⋯」
「貸すって言ってるんだから素直に借りなさい。濡れた服吊るしておけば家に帰る頃には乾くでしょ」
「はい」
と返事をする他なかった。口調は優しくないのに、やっていることが優しい冴子さんに、私はさっきまでのやるせない気持ちがどこかへ消えてしまった。
私は颯爽と会社へと向かう冴子さんの後を付いて行った。
「サイズ合わないかもしれないけど、着れなくはないでしょ」
会社のロッカールームで、冴子さんからシャツとチャコールグレーのスカートを渡された。
「ありがとうございます。後できちんとクリーニングに出して返します」
「そこまでする服じゃないから」
私は少しどきどきしながら、冴子さんの服に腕を通す。自分の服ではないので緊張する。服からは微かに洗剤のさわやかな香りがした。
「高野先輩はいつも着替え常備されてるんですか」
「こういう時のために。初めて役に立った。備えって大事ね」
そう言うと冴子さんはさっさと去ってしまった。
(後できちんとお礼をしよう)
これが私が冴子さんと仕事以外のことで最初に話した出来事だった。
翌日、私は同じ部署の先輩であり、冴子さんと親しい
橘先輩は明るくて誰にでも気さくに話しかけてくれる人だった。ランチも何回か声をかけてもらって一緒に食べたことがある。
「冴子が好きなもの?」
「はい。昨日服を貸してもらったお礼をしたくて。どうせなら高野先輩が好きなものでお礼できたらなって」
直接、冴子さんに何が好きなのか聞く勇気は私にはまだなかった。橘先輩なら話しかけやすいし、冴子さんについてもよく知っているだろうと思い聞いてみた。
「冴子はああ見えて甘いもの好きなのよね。特にチョコレート」
「チョコレートですか」
それなら私でもすぐに手に入れられるし、お礼として大げさになりすぎない。これはいいかもしれない。
私は特に冴子さんが好きだというチョコレートのブランドのお店を調べた。会社からもそう遠くない場所にあると分かり、私は帰りにそこに寄ることにした。
私はギフトボックスに入ったチョコレートを選ぶ。一粒一粒がキラキラした包み紙に覆われて宝石みたいだ。スーパーなんかで売ってるものと比べたら多少値は張る。でも冴子さんが喜んでくれるなら、高くはない。
『冴子はあそこのチョコレート、自分のご褒美に買ってるの』
橘先輩の言葉を思い出す。
(喜んでくれるといいな)
私はまだ見たことがない冴子さんの笑顔を想像しながら、店を後にした。
「高野先輩、この間はお洋服ありがとうございました」
私はロッカールームで、クリーニングから戻って来た服を返した。
「どういたしまして。クリーニングに出したの? そこまでする服じゃないって言ったのに」
冴子さんに呆れられてしまった。
「私が洗濯するよりきちんと仕上がるので。あと、これお礼なんですけど良ければ召し上がってください」
私は紙袋に入ったチョコレートを渡す。どんな反応をするのだろうか。
「これ⋯⋯。高かったでしょ。服くらいでそこまでしなくていいのに」
芳しくない反応に私は焦った。
「ご迷惑でしたか? 橘先輩が高野先輩はチョコレートがお好きだと伺ったので」
「好きだけど⋯。まぁいいか。わざわざありがと藍田」
冴子さんが控えめな、でも柔らかくて優しい笑顔になる。
(あ、可愛い⋯⋯)
初めて見た笑顔は、普段のクールな雰囲気とはまるで逆で、私の心はそれで一気に鷲掴みにされた。
(どうしよう。こんな笑顔が見られるなら毎日でもチョコレートを贈りたい!)
それからと言うもの、私の頭は冴子さんの笑顔ばかりをリピートするようになってしまった。またあの笑顔を何としても獲得したい。冴子さんのことをもっと知りたい欲望が大きくなる。
私が冴子さんを好きになったのは、あの笑顔を見た瞬間だった。
目が覚めると、すでに私の隣りはもぬけの殻だった。冴子さんは平日でも休日でも私より早く起きる人だ。
ダイニングを覗くと朝食を作っている冴子さんがいた。黒いエプロンを身に着けた後ろ姿が様になっている。
「冴子さんおはようございます」
「おはよう。奈津が好きな玉子スープ作ったから、早く顔洗って着替えて来なさい」
「はーい」
私は一転してベッドで眠りを貪りたい気持ちからうきうきした気持ちに切り替わる。寒いから体が温まるものを作ってくれたのだろう。しかも私が好きなものを。そんな気遣いをしてくれるところが愛おしくてたまらない。
洗面台に立つとパジャマ姿の私が映る。淡いミントグリーンのパジャマは冴子さんのものだ。触り心地が良くて気に入ってしまい、しょっちゅう無断で借りている。
あの梅雨の日は冴子さんの服というだけで緊張したのに、今は当たり前に彼女のパジャマを着ているのだから人生は分からない。
再びダイニングに戻ると、テーブルの上には朝食がきれいに並んでいた。
「冴子さん、今日帰りにチョコレート買って帰りませんか?」
「いいけど。どうしたの急に」
「冴子さんに服を借りた時のこと、覚えてますか? あの時のこと思い出して食べたくなったんです」
「そう言えばそんなこともあったね」
「冴子さんにはいつも美味しいご飯作ってもらってますからご褒美に買います!」
「プレゼントしてくれるんだ?」
「はいっ」
「楽しみにしておく」
冴子さんが嬉しそうにしてくれたので、私も頬が緩む。最近では冴子さんの笑顔を以前よりもずっと見られるようになったので、過去の私に自慢したくなる。
できるならいつまでも冴子さんの幸せそうな笑顔と共にありたい。
私はチョコレートを楽しそうに選ぶ冴子さんのことを考えながら、朝食を口に運んだ。
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