特別編3 冴子さんと私と満月の夜
目が覚めて、時計を見るとまだ深夜二時過ぎだった。部屋は薄暗く、カーテンの隙間からは何かの光が忍び込んでいた。外の街灯にしては、いつもより明るい気がする。月明かりだろうか。
私は横で眠っている
カーテンを少し開けて、外を覗く。空の上にはまんまる満月が輝いていた。まるで夜空に穴が空いて、向こうの世界が見えてるみたい。
私はしばらく満月を眺めていた。こんな風にゆっくり月を眺めたのは、いつ以来だろう。思い出せないくらい前だ。
眠る街にあまねく降り注ぐ月明かり。みんな眠っていて空の上で、あんなにも綺麗に光る月の存在を忘れているなんて、もったいなく感じる。
「
突然声をかけられて私はびくりとして肩を揺らす。
「冴子さん、起こしちゃいましたか。ごめんなさい」
「何してるの? 眠れないの?」
「目が覚めてしまって⋯。何か外が明るいなと思って確認したら、満月が出てて。綺麗だったので、眺めてました」
「今日は満月なのね」
冴子さんもベッドから抜け出して、こちらにやって来た。私越しにカーテンを開ける。いっぱいの月明かりが部屋に差し込む。
「本当、綺麗ね」
「はい。ずっと見てても不思議と飽きないんですよね。こんな月夜に散歩したら、楽しそうじゃないですか?」
「月明かりを浴びながら散歩ね。なかなか風情があっていいかもね。出かけてみる?」
「え、いいんですか?」
半分冗談で言ったようなものだったのだけど、誘われたら、断るなんてもったいない。
「どうせ明日は土曜日だし。明日っていうか、もう今日だけど。少しだけ歩いてみるのも悪くないかと思って」
ということで、私と冴子さんは深夜二時に散歩に出ることになった。
春になったばかりで暖かい日も増えてきたとはいえ、深夜ともなればまだ肌寒い。
私たちは温かい格好をして外に出た。
こんな時間に住宅街を歩いている人など、当然いない。たまに遠くで新聞配達のバイクの音がするくらいだ。
「この辺にどこかいいお月見スポットってありましたっけ?」
「うーん、公園くらいしかないかもね」
「ですよね」
話しつつ歩く。私たちの小さな足音だけが響く。
「取り敢えずすぐそこの公園まで行ってみようか」
冴子さんに言われて二人でマンションからほど近い公園へと向かう。
深夜の公園はもちろん誰もいない。人っ子一人いない。街灯に照らされた遊具は化石みたいにじっと佇んでいた。
「奈津、桜の蕾ふくらんでる」
冴子さんは公園の隅にいくつも植えられた桜を指す。よく見ると蕾がいくつもついていた。
「桜が咲くまであと三〜四週間くらいでしょうか」
「今年も桜の季節が来るのね」
「桜が満開になった時にも満月が出てたら、また夜に見に来ませんか?」
「散ってないといいけど」
私は満月の下で薄紅色の花をたわわにつけた桜を想像する。きっと、今日とはまた違った美しさがあるのだろう。月よりも桜の方に見とれてしまうかもしれない。
「ねぇ、奈津」
「なんですか?」
「今、あそこ、黒い影がよぎらなかった? あのカバの遊具のところ」
「ちょっ⋯、冴子さん!!」
私はもう二十六だというのに、未だに、おばけとか幽霊とか、そのたぐいが苦手だった。ホラーとかオカルトとか、子供の頃から好きじゃない。冴子さんも当然それを知っている。
「意地悪なこと言わないでください!」
「でも、そこに小さい影が⋯⋯。今度はそっちに行った!」
冴子さんはすべり台のある方を指した。
「もう、何もいませんよ。いないです!」
変なことを言うから何だか怖くなってきた。綺麗だと思ってた満月もほんのり不気味に見えてくる。
「絶対いる」
冴子さんは駆けてすべり台の方へと行ってしまった。
「待ってください!!」
私も後を追い、冴子さんが立ち止まってるところまで行った。
「ほら、やっぱりいた。奈津、見て。黒猫」
言われて見るとすべり台の真下に黒い小さな塊があって、目を凝らすと猫だった。私はてっきり怪しい得体の知れない影だと思い込んでいたけれど、猫だったようだ。さすが猫好きの冴子さん。夜に紛れる猫にも敏感だ。
「にゃぁぁん」
冴子さんがしゃがんで猫と目線を合わせると、猫が可愛い声で鳴いた。
「どうしたの、こんな夜中に。お腹でも空いてるのかな?」
普段の冴子さんを知っている人が見たらびっくりするような甘い声で、冴子さんは猫に話しかける。
「にゃあ、にゃあ」
猫はすっくと立ち上がると、歩いて行ってしまう。
「猫ちゃん、帰っちゃう」
実に残念そうな顔を私に向ける冴子さんと、それを察したのか立ち止まり振り返る猫。
「にゃぁん」
猫は一鳴きすると、また公園の出口に向かって進んでいく。
「ばいばい、猫ちゃん」
冴子さんは名残惜しそうに手を振る。
「にゃぁん、にゃぁん」
猫はまた立ち止まりこちらをじっと見ている。
「奈津、付いて来いって言ってるみたいじゃない?」
「そんな感じもしなくもないですけど」
立ち上がった冴子さんが猫のところまで行くので、私も後に続く。
猫はゆっくりと歩き出した。
「本当に付いて行くんですか、冴子さん」
「行けるところまで行ったらだめ?」
「冴子さんが行きたいなら」
私たちは猫の後を付いて行ってみることになった。
猫は人間よりずっと柔軟で身体能力も高い。人間がよじ登るのも大変な壁をひょいと登ったり。はたまた狭い隙間を物ともせずに進んだり。そうなっては人間では付いて行くのは不可能だ。
けれど、今のところ黒猫は住宅街の道をゆったり歩いている。
私たちが試しに立ち止まると、猫もそれを察して立ち止まり、振り返って「おいで」とでも言いたそうに鳴いたりする。
これは最後まで付き合わないと気になって寝つけないかもしれない。
「冴子さん、私たち猫の集会にでも招待されてるんでしょうか」
「猫の集会ね。一度くらい参加してみたい」
猫は道を左に右にと迷うことなく進む。
「変な所にたどり着いたらどうしましょう」
「幽霊が出そうな廃屋とか?」
「また冴子さん、そんなこと言って!」
どれくらい歩いただろうか。もうあの公園を出て十分は過ぎている。
猫は人が一人かろうじて通れる道に入ってしまった。街灯も差し込まない暗い道だ。
「冴子さん、行きますか?」
「ここまで来たなら最後まで」
というので私たちは細い路地に進む。
「こんな道、近所にあったんですね」
「私も初めて見た」
「にゃぁぁん」
猫は鳴くと走り出した。
私たちも顔を見合わせ、後を追う。
路地の先が月明かりで照らされてるのが見えた。道を抜けると、開けた空き地のような場所に出る。
地面も土がむき出して、小さな雑草がぽつぽつと生えていた。
「すごい⋯⋯」
冴子さんの感嘆に私も目の前の光景に息を飲む。
そこには高く聳える白木蓮の木があった。白い花が羽を休める鳥のように、たくさん咲いている。満月の下で白い花はまるで輝いて見えた。
「冴子さん、きれいですね」
「そうね。こんな所にこんな立派な木蓮の木があったなんて、今まで知らなかった⋯⋯。猫がいない」
私たちは辺りを見回す。
「あそこにいますよ」
木の裏手にあるブロック塀の上に黒猫を発見する。
「ねぇ、黒猫ちゃん、
「にゃぁん」
猫は返事のように鳴くと、ブロック塀の向こう側へと跳び去ってしまった。私たちはさすがに高い塀を乗り越えて追うことはできない。
「本当にあの黒猫は木蓮を見せたかったのかもしれませんね。だってこんなに綺麗なんですよ。猫だって同じように綺麗だと思って誰かに見せたくなったのかもしれない。もし私がここを知ってたら、冴子さんに教えたいですもん」
「そうかもしれないね。私も同じ気持ちだから」
私たちは自然と手を繋いでいた。
満月が照らしている。私たちを。木蓮を。
きっと私も冴子さんも、この光景をずっと忘れない気がした。
猫との小さな冒険を終えた私たちは家へと戻った。その日は二人して昼過ぎまで眠ってしまった。
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