第26話 誕生日
私はそんな奈津に気づかない振りをして過ごすことにした。
「
昼になり奈津は急いで私のデスクにやって来た。誰も近寄られせないと言わんばかりの圧を発している。
「外で食べる?」
「冴子さんは何が食べたいですか?」
「今はお蕎麦の気分」
「蕎麦⋯⋯」
ちょっと困ったような顔の奈津が私を見つめる。きっと予想していた食べ物と違ったのだろう。
「奈津は何が食べたいの?」
「私は何でもいいですよ。お蕎麦にしましょう」
私たちは会社を出て、徒歩十分ほどの場所にあるお蕎麦屋さんへと出向いた。
二月とは言え、そろそろ冬も終りに近づいているだけあり、外の空気は暖かい。
通り過ぎた公園には濃い桃色の梅が花をたくさん咲かせていた。
目的のお店は盛況だったが、幸い空いている席があったので、店員に案内されるままそこに落ち着く。
「冴子さん、何にしますか?」
「うーん、海老天蕎麦にしようかな」
「海老天。なるほど。私もそれにします」
「山菜じゃなくていいの?」
奈津はこのお店に来るとだいたい山菜蕎麦かとろろ蕎麦を頼む。海老天を頼むのは初めてだ。
「今日は海老天の気分です」
メニューを閉じると奈津が店員を呼んで、海老天蕎麦を二つ頼んだ。
しばらくして、注文した海老天蕎麦がやって来る。目の前に湯気を立てた熱々の海老天蕎麦が二つ並んだ。
大きな海老天が二本入っていて、それを引き立てるように脇には青葱とかまぼこが添えられている。
「美味しそうですね!」
奈津は笑顔になっている。
「ところで冴子さん、海老天もう一本いりませんか?」
「くれるの?」
「今日は冴子さんのお誕生日ですから」
奈津はこれがしたくていつもと違う海老天蕎麦を選んだらしい。そんな気遣いが可愛らしい。
「お言葉に甘えて」
せっかく私の誕生日だからと海老天を増やそうとしてくれているのだから、ここで断るのは無粋な気がした。
「海老天どうぞ」
奈津は箸とれんげを使って、私の器に海老天を追加した。
「まだもう一本ありますけど」
「全部もらったら奈津の蕎麦がただのかけ蕎麦になっちゃうじゃない」
「かけ蕎麦も美味しいですよ」
「さすがに四本もあったらお腹いっぱいになるから、それは奈津が食べて」
「分かりました」
全部くれるつもりだったのかと思うと、健気さに胸がしめつけられる。抱き寄せて頭を撫でるぐらいはさせて欲しいが、外なので我慢する。
仕事帰りに奈津と一緒にケーキ屋に行くことになった。私への誕生日ケーキを買うのだと張り切っている。
私は初めて行くお店なので、黙って奈津の後を付いて行った。
そのお店は見るからに新しく、最近できたばかりのように見える。小さな白いレンガ作りの店構えで、そのまま童話の中に出てきそうな可愛い建物だった。
「冴子さん、ここのパティシエさん何でもガトーショコラがすごく美味しくて評判らしいですよ。去年まで本場のフランスのパティスリーで働いていたそうです」
私がチョコレート好きなので、ガトーショコラで有名な人を探したのかもしれない。奈津はともかく私に美味しいチョコレート製品を食べさせることに割と心血を注ぐのだ。
そこがまた愛らしい。
「冴子さんは外で待っててください。私は取りに行って来るので」
「取りに?」
こちらの返事も待たずに奈津はドアベルの小気味よい音を立てながら、店内に消えてしまった。
外から中を覗くと、ガラスのショーケースに目を奪われる。絵に描いたようなキラキラとしたケーキがたくさん鎮座している。
声はここまで届かないが、奈津と店員がやり取りしている姿が見える。
(わざわざ頼んでくれてたんだ)
私も奈津の誕生日にケーキを買って帰ったことがあったけど、あの時は直前にお店に電話をして、奈津が食べたがっていたケーキを急遽確保した。
奈津が朝からそわそわしながら、私を祝うためにあれやこれやと奔走してくれていることを考えるだけで、嬉しくなる。
ケーキを受け取った奈津が喜々として戻って来た。
「冴子さん、お待たせしました!」
「どんなケーキを選んでくれたのか楽しみね」
「絶対美味しいはずですから、冴子さんの期待は裏切らないですよ」
大事にケーキの入った箱を抱える奈津と共に家へと帰った。
「冴子さんは先にお風呂にどうぞ」
エプロンをして夕飯の支度に取り掛かった奈津にお風呂へと追いやられた。普段は私が夕飯を作っているので、いつもと少し違う日常が新鮮に感じる。
「ゆっくり浸かって今日の疲れを癒やしてくださいね」
と水色のハート型の入浴剤を手渡された。あまり早く出て来てほしくなさそうなので、奈津の言うとおり長めにお風呂で過ごしてから出た。
リビングに行くと、いつの間に準備していたのか壁はモールと花で飾り付けされている。
「冴子さん、もう少し待っててくださいね」
「慌てなくても大丈夫よ」
見るからにあたふたしている背中に声をかける。
おとなしく待っていると、テーブルの上に次々と料理が運ばれてくる。特別なものはないけれど、どれも私が好きなものなので奈津が私のことを考えて選んだのだとよく分かる。
すべて用意が終わったところで、私の向かいに奈津が座る。
「美味しくできてるといいんですけど⋯⋯」
「奈津の料理だってちゃんと美味しんだから、もっと自信持ちなさい」
けして料理下手ではない奈津だが、得意というわけではないようで自分の腕を信じてないところがある。
「ありがとう、私の好物作ってくれて。食べていい?」
「はい、もちろん」
「いただきます」
どきどきしている様子の奈津を片目に私は料理を口に運ぶ。
「ん〜、美味しい」
「本当ですか? 良かった。料理上手な冴子さんが美味しいなら一安心ですね。私もいただきます!」
久しぶりの彼女の手作り料理を食べられて私も満足だった。
自分で料理をするのは好きだし楽しいけれど、人に作ってもらうというのも別の楽しみがある。その相手が大切な彼女なら尚更に。
夕飯の後はケーキの時間だ。
奈津が冷蔵庫から箱を持って来た。
「可愛い作りになってますから、冴子さんも驚きますよ」
奈津は私の前に箱を置き、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
そこには誕生日仕様のガトーショコラがあった。上にはラズベリーと苺でハートが作られ、周りを丸いクリームで囲んでいる。板状のホワイトチョコレートが乗っており、そこには『HAPPYBIRTHDAY さえこさん』と綴られている。
「お誕生日おめでとうございます、冴子さん」
「ありがとう、奈津」
「あの、プレゼントも渡していいですか? ケーキ食べてからにします?」
「今、受け取ってもいい?」
「はい。おめでとうございます」
私は可愛くラッピングされた箱を二つ渡された。
「開けてもいい?」
「もちろん。喜んでもらえるといいんですけど」
私は大きい方の箱を開ける。ずしりと重みがあった。リボンと包装紙を解くと、中からマグカップが現れた。黒い猫が描かれている。私が猫を好きなのを分かっている。
「可愛いね、これ」
「実は、自分のも買っちゃいました。お揃いにしたくて。あとですね、このマグカップすごいんですよ。仕掛けがあるんです。ちょっと待っててください」
奈津は立ち上がると台所に向かった。火にやかんをかけて沸騰させると、私がもらったのと同じマグカップを手に戻って来る。
「見ててくださいね」
テーブルに置かれたマグカップに奈津はお湯を注ぐ。すると黒猫がゆっくりと白い猫へと変化していく。
「お湯を入れると色が変わるのね」
「そうなんです! 可愛いですよね!」
奈津はその仕掛けをえらく気に入っているようで、楽しげにカップを見つめている。
「もう一つのプレゼントも開けていい?」
「どうぞ」
私は今度は手の平サイズの小さい箱を開いた。中には紫色のピアスが収まっていた。私の誕生石であるアメジストが使われている。柔らかな紫色がとても可愛い。デザインもシンプルで普段使いしやすい。
「冴子さん、よくピアスしているのでどうしてもプレゼントしたくて。クリスマスプレゼントの候補だったんですけど、誕生日プレゼントにしました。冬以外にも使えるものがいいなって」
クリスマスは私が欲しかった手袋に、同じ色のマフラーをもらった。この二つだと冬しか使えないが、ピアスなら季節は問わない。
「今、付けてみてもいい?」
「はい。私も見たいです」
私は付けていたピアスを外すと、奈津が鏡を持って来て見せてくれる。プレゼントされたアメジストのピアスを付けた。
「冴子さん、似合ってますよ」
「いい感じね」
新しいアクセサリーというのは、胸が躍る。奈津が選んでくれたものなので、余計にわくわくする。
「最高のプレゼントね。奈津、ありがとう」
私は目の前の彼女の頬に手を伸ばした。温かな感触が手に心地よい。奈津は私の手に自身の手をそっと重ねた。
「去年、私の誕生日を冴子さんにお祝いしてもらえたの、すごく嬉しかったんです。冴子さんは私の誕生日なんて知らないって思ってましたし、ちゃんと知っててくれてプレゼントもケーキも用意してくれて、どれだけ嬉しかったか。今回それがちょっとでもお返しできたらいいなって思って」
「奈津が私のために考えて頑張ってくれたこと、きっとずっと憶えてる。こんなに嬉しいことないもの」
「冴子さんの笑顔が見られて良かったです」
私は自分でも愛想のない女だと思っているが、奈津といると自然と笑顔になることが増えた。奈津が楽しそうだと私も楽しくなる。奈津が嬉しそうだと私も嬉しくなる。気持ちというのは伝播していく。
「ケーキ食べましょうか」
「そうね」
私は幸せな誕生日を迎えることができた。大切な人が心を込めて祝ってくれる何にも変え難い誕生日を。
叶うなら来年も、再来年も奈津と過ごしていたい。
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