第3話 喧嘩してみたい
仕事が終わり、いつものように
駅の構内を歩いていると、大学生くらいのカップルが目に入った。
拗ねている彼女となだめる彼氏。
そんな二人を見てふと、私は冴子さんと喧嘩したことがあっただろうかと振り返る。
まず喧嘩したくなるほど冴子さんに不満を持つこともないし、私では口でも手でも敵いそうもない。
以前は他の女性の先輩社員とわざとらしく仲良くして冴子さんを怒らせていたことがあったけど、最近の冴子さんは大分私に甘いのでそんなこともしなくなってしまった。
相変わらず言葉では素っ気ないけれど、冴子さんは基本的には優しい人だし、家では甘えさせくれるので喧嘩が発生することもない。
でも少しだけ喧嘩することに憧れたりもする。
喧嘩と言っても、一つしかないプリンをどっちが食べるか、そんなことがいい。
さすがに本気の喧嘩なんてしたら心が折れそうだ。
しょうもないことを考えていたら
「何か悩みでもあるの? 」と訝しまれた。
「な、何でもないです!」
適当に誤魔化してホームにやって来た電車に乗り込んだ。
お風呂から上がり、冷蔵庫から麦茶を持って居間に座ると、冴子さんがドライヤーで私の髪を乾かしてくれる。
特にお願いしたわけでもないのにいつの間にかそれが習慣になっていた。
冴子さんは態度はそっけないし愛想も振り撒かないけれど面倒見がいい。
仕事で私や他の人がミスしても何も言わずにカバーしてくれるし、誰かが困ってれば黙って手助けしてくれる。そういう人だ。
(人の面倒を見るのが好きなのかも)
最近甘やかされすぎて、いつか駄目人間になりそうで怖い。
こんな人と何がどうなれば喧嘩が発生するのかますます分からなくなった。
「終わったよ」
私の髪を乾かし終えた冴子さんに頭を撫でられる。
「ありがとうごさいます」
「ねぇ、さっきから何考えてるの?」
「何って何も……」
ちょっとだけ喧嘩してみたい、などとは言いにくい。
「じゃあ何で上の空なわけ?」
「それは……」
「ふーん、私に隠し事するんだ」
「か、隠し事とかそういうのじゃなくて……」
根負けして私は今日考えていたことを素直に話してみた。
「喧嘩ねぇ……。したいならしてみる?」
「しようと思ってすることじゃないと思いますけど」
「でも
冴子さんは実に楽しそうな顔をしている。
絶対怒る気がない顔だ。
「ほら、奈津、早く」
腕を掴まれて抱き寄せながら言われてもどうしていいか分からない。
「え〜私には無理です。あっ、冴子さんが私を怒らせてみせてください!」
「まぁいいけど…」
冴子さんからスッと表情が消える。
何を言われるのかと緊張してきた。
「奈津とはもういたくない。今日から寝るのは別々ね」
刺々しさを纏った声色と感情のない瞳で、私を乱暴に突き放した。
「じゃ、おやすみ」
冴子さんは私をちらりとも見ずに寝室に行ってしまった。
バタンと閉じられたドアの音だけが虚しく響く。
(……あれ?……私を怒らせるんじゃなかったの?)
怒りなんて微塵も沸かない上に、不安と切なさで胸がぎゅっと締め付けられる。
(冴子さん、本気で怒ったの?)
(冗談だよね? 遊びだよね?)
私は冴子さんの寝室の前に来た。
ドアノブをひねるけど、鍵がかけられていて開かない。
「冴子さん、冴子さん」
呼ぶけど何の返事もない。
どうしていいか分からず、私は自分の部屋へ引きこもりベッドの上でうずくまった。
冴子さんと暮らすようになって、自分の部屋はあるものの、寝る時はいつも冴子さんと一緒だった。
隣にはいつも冴子さんがいて、彼女のぬくもりを感じながら眠りに落ちる。
(一人で寝るって寂しいんだ…)
泣きそうになるのを堪えながら枕を抱きしめる。
(喧嘩なのかなこれ)
(私はただちょっと仲がいいカップルがくだらないことで喧嘩することに憧れただけなのに)
腕を伸ばしてもその先には何もない、何も届かない。
本当に私はいつも側に冴子さんがいるのに慣れきってしまった。
コンコン、とドアをノックする音がした。
「奈津…」
さっきとは別人のように優しい声で呼ばれる。
ベッドのところまで来た冴子さんに顔を覗き込まれる。
「もう、何泣いてるの?」
怒ってないことにほっとして涙が溢れてくる。
涙を拭ってくれる手を握りしめた。
「冴子…さん……」
「どう? 奈津のお望み通り喧嘩した感想は?」
「……これが喧嘩なら……もうしたくない……です」
「必要がないことはしなくていいし、する必要もないって思わない?」
「……はい」
「私は奈津とは喧嘩したくないからね」
冴子さんから優しいキスを落とされる。
私も冴子さんと喧嘩するなんて嫌だと心底思った。
やっぱり好きな人とは仲良くしているのが一番だ。
「私の部屋に来なさい」
ベッドから引っ張り出された私はいつものように冴子さんの寝室で寝ることになった。
大好きな人の腕の中で眠れるというのは何と幸せなんだろう。
(喧嘩したいなんてもう思わない)
私は冴子さんのぬくもりを感じながら目をつぶった。
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