第32話 日奈がやって来る



 五月も終わりに近づいた土曜日。


 空は渋めの曇り空。


 私は一人、自宅マンションの最寄り駅にいた。駅の出入り口近くにある壁にもたれて妹を待っている。


 妹の日奈ひながどうしても冴子さんに会ってみたいからと、今日家に泊まりに来ることになった。


 冴子さえこさんも日奈には興味があって、遊びに来ることを快く了承してくれた。


 私としては二人が仲良くなったら嬉しいけれど、どんな化学反応が起こるのか気が気ではない。


 約束の時間を少し過ぎたところで、エレベーターに目をやると、見慣れた顔がこちらを見ている。


 黒い膝丈のスカートを揺らしながら、私の方へと駆け寄って来た。


「お姉ちゃん!!」


 真っ直ぐに私に飛びつく。私は以前より背が伸びた妹を抱きとめた。


「日奈、久しぶり」


「会うの去年のお正月以来だよね。あれ、お姉ちゃんちっさくなった?」


「なってないから」


 体を離して改めて日奈を見ると、やはり目線の高さが前に会った時と変わっている。


「日奈、背伸びたよね?」


「そうかも」


「まさか日奈に越されるとは思ってなかったなぁ」


「成長期だからね、まだまだ伸びるよ。もっとお姉ちゃんを越すんだから」


「そっか。月日が経つのは早いなぁ」 


 ついこの間までまだほんの小さな子供だったというのに。


「お姉ちゃん、おばあちゃんみたいなこと言って。それより早くお姉ちゃんの彼女に会いたい! どこ?」


 日奈は辺りをキョロキョロしている。


「冴子さんは家にいるから一緒じゃないよ」


「えー、すぐ見たかったのにー」


「もうじき会えるから。会っても変なこと言ったりしたら駄目だからね」


「変なことってー?」


「変なことは変なことだよ」


「うーん、よく分かんないけど分かったー」


 本当に分かっているのか不安になる返答だったが、これ以上言っても無駄そうなので諦める。日奈ももう十七歳なのだから、姉を困らせるようなことはしないだろう。


 私たちは駅から離れて自宅の方へと足を進めた。


「あー、やっとお姉ちゃんの彼女に会えるの楽しみだなー。お姉ちゃんの初カノには会えなかったから余計に楽しみ〜」


「初めて彼女ができた時、日奈まだ小学生だったからね」 


 私が自分のことを打ち明けたのは、日奈が高校生になった時だ。


 姉が同性を好きだなんて話はある程度大きくなってからでないと話せない。


 本当は二十歳になってからと思っていたのだが、日奈があまりに恋愛の話を振って来るので予定より早く打ち明けることになってしまった。


 だけど日奈は私を否定するでもなく、受け入れてくれ、応援してくれている。


 身内贔屓と言われたとしても、よくできた妹だと思う。


「私はいつだってお姉ちゃんの一番の味方だからね。冴子さんがちょっとでもお姉ちゃんにひどいことしたら戦ってやるんだから!」


「そんなこと気にしなくても大丈夫だよ。冴子さんはお姉ちゃんなんかよりずっと優しくて素敵な人なんだから。いつも言ってるでしょ」


「やーだー、お姉ちゃんに惚気られた〜。これで何回目!?」


「のっ、惚気てなんかいないから!!」


「いやいや、十分惚気だから。そんなにお姉ちゃんが彼女の自慢したいならしていいよ」 


「もうしないから」


「とか言ってしばらくしたら惚気るくせに」 

 

 日奈にからかわれているうちに目的地が見えてきた。


 鍵でマンションのオートロックを解除して中に入る。


「ここが魔王城か⋯⋯」


 日奈が真剣に訳の分からないことを呟く。


「どういうこと。また変なこと言って」


「お姉ちゃんの話聞いてると冴子さんって魔王っぽくない? 前に送ってくれた写真も魔王な感じがした」


 私の脳裏に玉座に座りこちらを見下ろす冴子さんが浮かぶ。意外と違和感がない。


 とか考えてる場合ではない。


「魔王じゃないから!!」


 しっかり否定してからエレベーターに乗り込む。         

 家に着くと冴子さんが出迎えてくれた。


奈津なつ、おかえり」


「ただいまです、冴子さん。妹連れて来ました。はい、日奈挨拶して」


 普段はあっけらかんとしてマイペースな日奈だが、いざとなると私の彼女に会うのは緊張するのか、いつの間にやら背後でもじもじしている。さっきまで魔王なんて言っていたのに。


「⋯⋯こんにちは。始めまして。いつも姉がお世話になっております。藍田あいだ奈津の妹の藍田日奈です」 


「こんにちは、日奈さん。奈津さんとお付き合いさせていただいてます、高野冴子です。今日は遠いところまで足を運んでくれてありがとう」


 冴子さんが包み込むような柔らかな笑顔を日奈に向ける。


(私がこの笑顔を見られるまでにどれだけかかったか!)


 うっかり妹に焼きもちめいた感情を持ってしまった。


「入って」


「おじゃまします」


 日奈がおずおずと上がり、私はそんな妹の背中をリビングまで押して行った。


「日奈、お昼まだでしょ」


「うん、食べてないけど」


「冴子さんが腕によりをかけてご飯作ってくれたから、それを食べよう。美味しいんだから!」


「そう言えばお姉ちゃんに冴子さんの料理いっつも自慢されてたな〜。『冴子さんの手料理が美味しすぎて食べ過ぎちゃう』って」


「そうなの、奈津?」


 冴子さんが興味深そうに私を見つめる。急に恥ずかしくなってきてしまった。


「え〜っと、まぁ⋯⋯。たまに、ですよ」


「お姉ちゃん、嘘ついて。『冴子さんの料理は世界一』とか昨日もメールで言ってたじゃん」


「日奈っ!!」


「ふふふ、ありがとう奈津」


 おかしそうに冴子さんは口元を手で押さえて笑っている。


「⋯⋯⋯⋯っ」


 だから変なことは言うなと釘を刺したのに。


「あっ、そうだお土産。冴子さん、お口に合うか分かりませんが」


 日奈は持っていた紙袋を渡した。


「わざわざお気遣いいただき、ありがとうございます」 


 冴子さんもうやうやしく受け取る。


「日奈、何買ってきたの?」


「普通に地元の銘菓だよ。お姉ちゃんも好きなやつにしておいたから、二人で食べてね」 


「ありがとうね、日奈」


 私たちは軽く雑談した後、昼食をとるためにダイニングの席に着いた。 

  

「大したものではありませんが、よろしければ日奈さんも召し上がってください」


 冴子さんがテキパキと料理をテーブルに用意した。


「わぁ! ありがとうございます、冴子さん」


 二人の間にいい感じの空気が流れている。私の不安は杞憂に終わったようだ。


 冴子さんに促されて私たちは箸を手に取った。


 今日は妹のために冴子さんが腕をふるって日奈が好きなハンバーグを作ってくれた。


「いただきます」三人の声がそろう。


「すごーい、私の好きなものづくしだ」


 日奈は感嘆の声を上げる。喜んでくれたようで何よりだ。さっそくハンバーグに手を付けた。


「⋯⋯⋯これ、めっちゃ美味しい!! お姉ちゃんのより美味しいかも」


「そうでしょう、そうでしょう」


 自分が作ったわけではないが、大好きな冴子さんが作ったものを褒めてもらえるのは誇りだ。

    

「本当にお世辞抜きで美味しい! 冴子さんはお姉ちゃんのために毎日ご飯を作ってるんですよね?」


「ええ」


「面倒くさくないですか? 私だったら毎日なんて嫌ですけど」


「私は料理はわりと好きなので、負担に感じたことはないですよ。奈津さんはいつも他の家事をやってくれてますから」


「本当ですか? お姉ちゃん掃除好きじゃないのに。家にいた時も部屋があんま片付いてなくて⋯⋯」


「もう、日奈! いちいち余計なこと言わないで!」


「奈津は掃除好きじゃなかったの?」


「冴子さん、そんなことはないですよ。子供の頃はあんまり好きじゃなかっただけで」


 油断をしたら日奈が変なことを言い出すので困ってしまう。少しでも冴子さんにはいいところを見せていたいのに。


「日奈、口を動かすならご飯に集中しなさい」


「はーい。お姉ちゃんは相変わらずお母さんよりお母さんみたいなこと言うんだから」 


「無駄口は叩かないの」


「はいはい、分かりました」


 そんな私たちのやり取りを冴子さんが目を細めて見ている。もしかしたら、冴子さんも薫子さんとこんな会話をしていたことがあるのだろうか。


 お昼後はリビングに移動しておやつタイムだ。昨日、仕事帰りに冴子さんと一緒に買ったケーキを食べる。


 私と冴子さんが並んで座り、日奈が向かいに陣取る。


「冴子さんに質問あるんですけど、聞いてもいいですか?」


 日奈はテーブルに身を乗り出す勢いで手を上げた。


「聞きたいことがあれば何でも」


「日奈、失礼なことは聞いたら駄目だからね」


「はいはい、分かってまーす。私ずっと気になってたんですけど、冴子さんはどうしてお姉ちゃんを選んだんですか? ぶっちゃけお姉ちゃんって普通すぎてつまらなくないですか?」


「日奈、お姉ちゃんには失礼してもいいと思ってるでしょ」


「えー、でも冴子さんってお姉ちゃんが言ってた通り、美人だし料理も上手だし、何か気品? そういうのがあるよね。男の人も女の人もよりどりみどりって感じなのに、何でお姉ちゃんなんだろーって不思議なんだよ、私は」 


 確かに私は何か他の人より秀でているものはない。事実でも妹に言われるとぐさっと来る。こういうところは可愛げがない。


「何て言えばいいのかな」


 冴子さんは顎に手を添えながら考えている。


「いいんですよ、冴子さん。無理して理由探さなくても」


 すぐに理由が浮かばなくても仕方ない。


 ちょっと悲しいけれども。


「探してるわけじゃなくて、どう表現すればいいかと思って。そうね、奈津さんはいつも楽しそうにしてるの。買い物の時も、旅行の時も。一緒にテレビを見たり、飲みに行ったり。だからね、私も一緒にいると楽しい気持ちが伝播してきて、心が明るくなる。奈津は何よりいつも一生懸命で、見ていて応援したくなるというか、構いたくなるというか。そういうところがある。かと思えばちょっとしたことで焼きもち焼いたり。それもまた可愛いのだけど。ずっと見ていたくなるというか⋯⋯」


 冴子さんが私と一緒にいてくれる理由。


 それをはっきり聞いたことはないかもししれない。 


 優しい声音でゆっくりと語られて、私は照れくささも越えて、身体中にじんわりと喜びが広がっていく。


(そんな風に思っててくれたんだ) 


「奈津さんはね、もう傍にいるのが当たり前なの。私にとっては」


「それは私もですよ、冴子さん!」


 付き合い始めてそろそろ一年が経つけれど、まだ一年だけれど、私にとっても冴子さんがいない生活がすでに想像できない。


 この人が隣りにいない日常なんて、考えられない。


 気づけばそれくらい同じ時を過ごしてきたのだ。


 日奈は感心したのか、目をキラキラさせている。


「冴子さん、お姉ちゃんのこと大事にしてくれてるんですね。こんなに想われてるなんて羨ましいな〜。良かったね、お姉ちゃん」


「うん」


 私は素直に頷いた。


 冴子さんが私を大事にしてくれていることは日頃の言動からちゃんと感じている。


 だけどこうして改めて言葉になると、私は自分が大事にされてるのだと実感できて、幸せな気持ちで満たされてゆく。


「お姉ちゃんは前に『冴子さんがいない世界ではもう生きていけない』なんて言ってたけど、本当にそんな感じだよね」


「日奈っ!」


 恥ずかしさに思わず私は日奈の手をぴしゃりとはたいた。


「お姉ちゃん痛い〜。嘘は言ってないじゃん。実際この間もメールに書いてたし」


「だからって何でも話さないで!」


「奈津は私がいないと生きていけないんだ」


「そ、それはその⋯⋯。間違いじゃないですけど」


「私も奈津とは同じ考えだから奇遇だね」


「冴子さん⋯⋯」


「お姉ちゃんたちいい雰囲気。私帰った方がいいかな〜」


「日奈はいちいちうるさい!」


 妹に振り回されている。でも照れくさいけど、ほんの少しこれも悪くないかなって思っている私がいた。

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