第39話 サマーレクリエーション

 緩く波立つ海面の下に広がる空間は自由が満ちていた。

 水流に乗ってゆらゆらと漂う海藻。岩塊とサンゴの山からひょこっと顔を出す小さなカニ。その上をスイスイと軽やかに泳ぎ回る魚たち。


 動いて食って寝て、動いて食って寝て。どいつもこいつも気ままなもんだ。規則や習慣に縛られた人間社会の重圧なんて、こいつらには理解すらできないだろう。

 逆に今はその環境が羨ましかった。


「いいよなお前らは。こんな理不尽な目に遭うことなんてないんだからさ」


「おい。ボサッとしてないで仕事しろや」


「……はい」


 真夏の炎天下、僕はクラスメイト達とボートで大海原に漕ぎ出していた。


◆◆◆◆◆


 事の発端はホテル前に着いた生徒たちを前に教師陣はこう切り出したことだ。


「これからサマーレクリエーションを開催するにあたり、勉強疲れの諸君の親睦を深めるためにボートレースを行ってもらう。各クラス5人で指定されたコースを回り、ブイを回収してゴールに費やした時間を競う勝負だ」


 急な展開に少なからず戸惑う生徒たち。面倒な勉強会の後に控えていたはずのバカンスを中断させられれば、不満が出るのは当然だった。

 だが教師もそれは心得たもの。次の宣言はそんな連中を黙らせるのに十分な威力を発揮した。


「ちなみに上位のチームには今夜のBBQバーベキューに用意した食材の追加を認めよう。順位が良いほど肉の量が増えるぞ」


 おのれ高校生の食欲を逆手に取るとは何と卑劣な……!

 今夜のメインイベントだから配給されるのは恐らく牛肉だ。それに野郎共の胃袋を満足させるからには決して1、2kgなんてケチな量じゃない。

 上司の杜撰な金銭管理のせいで、日頃は精々チキン程度しかありつけない身としては絶対に譲れない大一番だ。

 他の連中も滅多にない好機と分かり、瞳を爛々と燃やしていた。


「このゲームはつまるところ体力勝負だ。だがそれではクラスごとに偏りが出て勝負にハンデが生じてしまう。結束を図る意味でもメンバーの選定は公平性を期してくじ引きで決める。選出された者はコースの説明を受けてからスタートする。以上だ」


◆◆◆◆◆


 なのにどうしてこうなった……!?


「あーもう無理。腕上がんない」


「何言ってんだ。交代してまだ10分も経ってないぞ」


「だって神威君みたいな体育会系と違って、ウチら普通の女子だし」


「じゃあ他に何するんだよ」


「え? それはほら、ブイの回収とか……あーメンドくさ! パッチあんた十分休んだでしょ。交代!」


「いや僕さっき漕いだばかり……」


「女子に力仕事押し付けるんだ。サイテー、不適合者」


「……承りました」


 くっ、ここぞとばかりに女子の特権をフル活用しやがって。こうも言われたら男は黙って肩代わりするしかなくなってしまう。


 そもそもメンバーがおかしいんだ。くじ引きで選ぶって話だったのに、どうしてE組トップカーストで固めたところに、僕が紛れ込んでるんだ。

 奇跡的確率にも程度ってものがあるだろうに。初っ端から心折れそうな布陣に早くも肉を諦めかけている自分がいる。


「つーか、さっきから全然進まないんだけど。この方向で合ってんの?」


「知るかよ。ペン太に聞け」


 ボートで遠泳なんて一般人にはハードルの高いイベントにおいて、コースのガイドを務めるのはボートにハーネスで繋がれながら先頭を泳ぐペン太(水中仕様)だ。

 漕ぎ出してしばらく経つが、ブイの発見どころか風景の変化がないから、進んだ気がしない。

 潮や風の動きも気になるところだ。このまま無闇にオールを動かしていても、体力の消耗を招くだけだ。


「……やべ、俺ちょっと気持ち悪くなってきた」


「……実は私も」


「おいマジか。くそ、ここで吐くんじゃねえぞ」


 そして長時間波に揺られていれば船酔いも続出する。先程まで威勢よく僕にオールを渡した子も蒼白になり、悪態をついた十文字君も焦り始めた。

 メンバー5人のうち2人が使い物にならなくなったら、勝負にならない。ここはメンバーの体調回復を優先すべきだろう。


「あの十文字君、提案があるんだけど……」


「パッチ? 何だお前まで気分悪いとか言うんじゃねえだろうな」


 ギロリと睨まれるが負けない!


「いや僕はまだ平気だけど、他の人たちがね……。このまま海の上に居ても船酔いが治るわけじゃないから、どこかで休んだ方が良いと思うんだ。どのみち潮の流れが激しい今は船を漕いでも進まないし」


「レースから降りろってことか? それも船酔いで?」


 リタイアの理由としては十分だと思うけど、彼にとっては納得いかないらしい。まあこの中じゃ一番頑張ってるし、肉への渇望も人一倍強いだろう。僕だって出来るならそうしたい。


「具合が悪い人を乗せたまま無理矢理レースを続けても状況は好転しないよ。もし嘔吐したら脱水症状にもつながるし、この日差しじゃ余計に悪化しかねない。先生に連絡を取る意味でも陸に上がるのが合理的だよ」


 オールを漕いで腕がパンパンな僕も休ませろ、という願望を呑み込み、なるべく客観的な意見を伝える。

 仮にこれで十文字君がレースを続行したなら、クラスメイトを危険な目に遭わせたとして評価が下がってしまう。流石に一時の食欲に任せて取るような選択肢じゃない。

 何だかんだ言って級友が心配なのか十文字君もしんどそうな彼らを一瞥し


「……ちっ、しゃーねぇ。パッチお前も手伝え。取りあえず近場で停めやすいところを探す」


 周辺の海図がインプットしてあるペン太のお陰で、上陸地の選定にはさほど時間を取られなかった。

 小高い丘の麓に広がる小さな浜辺。ビーチと呼ぶには狭いがボートを引き上げられる程度の広さなら十分にある。

 

 淡く透き通った水面を見てもサンゴや岩礁といった障害物はなく、潮の流れからしても接近する絶好のタイミングだ。

 生い茂った草木もあることから臨時の休憩場には申し分ない。


「ねえ、あれってウチの学校のボートっぽくない?」


 風向きと波の動くタイミングを計りながら慎重にボートを漕いでいると、オールを握っていた女子の1人が浜辺を指差した。

 その先には確かに僕らが乗っているボートと寸分違わぬものが横たわっていた。しかもすぐ後ろには数人の男女が固まっている。

 向こうも僕らの存在に気付いたようで、立ち上がって手を振っているのが分かった。


 徐々に接近すると見覚えのある色黒の男子――諸星君が大きな声で叫ぶ。


「ボートの積み荷に予備のロープがあるはずだ! 引っ張るからこっちに投げてくれ!」


 ボートの縁に設置された防水バッグから船を繋ぎ留めるためのロープを取り出し、諸星君に向かって投げる。

 ボート+2人分の重量を引っ張るのは男3人でも出来なくはないけど、人手はなるべく多い方が良い。

 

 股下まで浸かった海水をかき分けて諸星君の手を借りながら揚陸し、具合の悪い2人を降ろしてからボートを手近な木に巻き付けて固定した。


「サンキューなリュウ。お陰で助かった」


「大したことじゃないさ。しかし災難だったな。まあ俺たちも似たようなもんだが」


「っつーことは、お前らも誰か気持ち悪くなって小休止か?」


「ああ。今は木陰で休んでいるから大分回復してきた」


 木立の下では1人の女子生徒が頭や脇、股に濡れたタオルを挟んで横たわり、その傍でまた別の女子が面倒を見ていた。

 起き上がった彼女にポカリスエットを渡したのは、ついさっきまで華麗にナンパを追い払っていたレシュリスカヤさんだ。

 

 腐れ縁というか何というか、彼女とはどうしても鉢合わせする運命らしい。矢吹さんとの仲が一向に進まないのに、特にフラグもない女子との絡みだけが積み重なり、ラブコメの神様を呪いたくなる。


 というか、横たわっている方も見覚えがあると思ったら、先月の職場見学で御子柴さんにシメられていた仙崎千春さんだ。

 まだダルそうだけど顔色は正常。もう少し休めば歩くのにも支障が無くなるだろう。ただ纏っている空気はどこか重くギスギスしている。その原因は歩み寄ってきたもう1人の女子だとすぐに分かった。


「仙崎さんまだ立てないの?」


 労わりよりも苛立ちが先行した言い方をするのは、黒髪の三つ編みにワンピースタイプの水着を着た少女だ。

 小柄で童顔だが姿勢の良さと気難しい表情のせいか、幼さと硬さが混在したちぐはぐな印象を受けた。


「ご、ごめんなさい。もう少しだけ休んだら立てるから……」


「ふん、開始早々からこんな目に遭うなんて、不適合者といるとこっちの運まで吸い取られちゃう。こうしてる間にも他クラスとの差は広がるばかりよ。そこんとこ分かってるの?」


「分かってないのはお前だろ。病人相手に説教してどうすんだ」


 遠慮のない物言いに弱り切った仙崎さんに代わって、レシュリスカヤさんが仁王立ちで相対する。身長差と高校生とは思えない威圧感に、女子の方もたじたじだった。


「別にレシュリスカヤさんに言ってるわけじゃないし……」


「私も不適合者だけどこっちに来ていいのか? 運が無くなるかもしれないぞ」


「……何よ。ちょっと勉強できるからって偉そうにして。不適合者のくせに」


 悔しそうに口元を歪め何事か吐き捨てると、三つ編みの女子は足早に木陰を立ち去った。一部始終を見た十文字君が呟く。


「何だあいつ?」


「うちのクラスの豊島とよしま麻紀まきさん。凄く真面目な子だよ。1年生なのにもう生徒会に入ってるらしい」


「真面目っつーか堅物だろ。絶対ぇ時間に細かいタイプだぜあれ。1分でも遅れたらネチネチ絡んでくる感じの」


「そうか? 時間にルーズなのよりマシだろ。それにこの暑さだ。気が立っても仕方ないさ」


 批評とフォローの応酬を重ねる諸星君たちに、噂をすれば影が差すという諺そのままに豊島さんが話しかけてきた。


「諸星君、そろそろ仙崎さんも持ち直しそうだし、ボートの準備をしない? これ以上時間を浪費したら順位も巻き返せないわ。他クラスに後れを取ってしまったら特進科の面子にも関わるもの」


「はっ、エリートだから何でも1位じゃなきゃ気が済まないってか? たかが食材の分け前を増やすだけだってのに、大袈裟だな」


 ちら、と一瞥しただけで挨拶もしない態度が気に食わなかったのか。十文字君が攻撃色剥き出しで挑発する。

 無視すればいいのにかっ、と顔を赤くした豊島さんが十文字君を睨み付けるが、如何せん幼いルックスで迫力がない。


「あなたはE組の十文字神威君ね。バスケ部に推薦で入ったって聞いたけど、理解できないわ。私たちが羽ばたく社会は学力や学歴が幅を利かせている世界よ。あんな網に球を入れるだけの遊びの何が面白いの? そんなものに熱中したって何の意味もないのに」


「んだとコラ……!」


 ピリ辛どころか口から火を吹くレベルの辛口に、十文字君が額に青筋を浮かべる。すぐにでも飛び掛かりそうな勢いに、豊島さんがビクッと小動物みたいになり、諸星君の背中に隠れた。

 防壁に指名された本人の困惑を差し置いて、両者の会話の全力投球はさらに加速していく。


「そ、そうやって凄んでも無駄よ。脅しでイニシアチブを取ろうなんて、貧しい知性の表れね。まったくあなたみたいな人に使われるマーシトロンが不憫だわ」


「だったら隠れてねえで出てこいや。生徒会って奴は口だけ達者なのかよ? おいリュウ、そこどけ。この女にバスケを侮辱した落とし前つけさせてやる」


「落ち着けよ2人とも。ここで喧嘩したら後でマーシトロンがストレスケアにドリームセラピーを勧めてくるぞ。そんなことで貴重な夏休みを削りたいか?」


 マーシトロンの査定が人生設計に関わるという意味では、勧めるという表現は義務付けにほぼ等しい。

 人によっては数回分の時間を設けることもあるセラピーなんて、学生にとっては苦痛そのものだ。そのことを理解している2人も現状の無益さを悟り、渋々ながら矛を収める。


 ピュウ、と一陣の冷たい風が浜辺を駆け抜ける。


 真夏の熱気を忘れ鳥肌が立つほどに寒々とした風は、明らかに潮風とは異なる。嫌な予感がして頭上を仰げば、黒ずんだ薄膜状の雲がすぐ近くまで迫っていた。


「こりゃまずいな……」


 。だがこれからすぐに訪れる厄介事を思うと、もう陽気なバカンス気分は消え去っていた。

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