第2話 戦場と午睡(2)

 砂は嫌いだ。

 戸を閉じても鍵をかけても、服を何重に着込んだって入り込んでくる。

 これまで何度も払い落としてきた小粒の難敵に意識を向けられる分、余裕はあった。もう何年も前に住民がいなくなり度重なる黄砂の風に吹きっさらしにされた廃屋の壁で、降りかかる銃撃を凌げるくらいには。


「くそっ、政府軍の豚どもが。遠慮なしに撃ち込みやがって」


 隣で片腕を庇って悪態をつく男は、目をギラつかせて今にも飛び出してしまいそうだ。

 特に面識もなくそうする義理もないが、無闇に蜂の巣にさせることもないだろうと思いAKの応射を中断。7.62mm弾の強烈な反動で痺れる手で制し、引き止める。


「行くな。あの辺りは格好のキルゾーンになる。援護もなしに突破するのは無理だ」


「けどよ、こうしている間にもこの壁はどんどん削られてるぜ。ロケット弾を食らえば1発でお釈迦だ。それまでに味方が来る保証もないだろ」


「でもそれで当たって砕けろっていうのは話が違う。せめて発煙筒で目晦ましすべきだ。給料未払いのままであの世行きは惨め過ぎる」


「生憎とそんなもん持ってきてねえよ。ったく、これだから傭兵ってのは――」


 刹那、肌が粟立ち脊髄を冷たい何かが走った。壁越しに小さく分散していた殺気が一点に凝縮してこちらに向く。

 来る、と感じた直後に花火の打ち上げに似た間抜けな音が迫った。その意味を理解すると同時に習慣付いた動きで男をうつ伏せに引き寄せて、その上に覆い被さる。


 響き渡る轟音と熱波。顔に巻いた頭巾シュマグなんて吹き飛びそうなほどの衝撃をジッと堪えてやり過ごし、未だに気を飛ばしている男を引きずって車体の残骸やコンクリを盾に這い戻る。


 チュイン!


 すぐ真上で金属質な音がしたかと思えば、間断なく同じ質音が波状となって押し寄せ、穿たれた壁の破片が潰れた弾と一緒に落ちてくる。

 反射的に飛び上がる愚は犯さず、なおもばら撒かれる弾丸の下を慎重に這ってレンガ造りのブロックに退避した。


 引きずった拍子か男は目を覚まし軽くかぶりを振る。目立った外傷はないし、動きに問題もない。あのまま壁に張り付いたままだったら、どうなっていたか。男も状況を理解したのかバツが悪そうに呟く。


「すまねえ。助かっ――」


 礼は銃声にかき消された。男の体が大きく揺らぎ、腹部からピンクの細長い束のような何かと溶けかかった消化物が床一面にぶちまけられる。

 何が起きたか理解できないまま意識を手放した身体は、壊れたブリキ人形のように細かく四肢を震わせた。


 飛び退ったのは経験則だった。遺体の回収など論外。あのまま留まれば今度は自分の番だ。死者を弔うはずが死者に引きずられる。

 今日の戦闘だけでも飽きるほど焼き付いている光景を追いやり、服に飛び散った生温かい血糊の感触だけを残してに意識を移す。


 ただそれは彼らのように律儀に銃口を向け合って、戦火に突っ込むのではない。と言うよりもその仕事はこの紛争の勝敗とは全く関係のないものだ。


 その言葉通りに選び取ったルートは進軍するというのには少し複雑過ぎた。まずは発煙筒――実は持っていた――のピンを抜いて投げ込み煙のヴェールを作り出す。

 しかしその先を潜って出たのは砂塵渦巻き幾重にも火線が重なるキルゾーンの端にある低層住宅群の中だった。


 着弾はなし。気付かれてない。上手く誤魔化せたなら移動だ。AKを背負い、柱や壁、物置の裏など僅かな影と死角に身を滑り込ませ、石灰色の瓦礫が積み重なり絶叫と火に炙られ肉の臭いが漂う景色の中を疾駆する。


 不揃いな壁石の隙間を縫った先にあるハシゴに跳躍し、半端に切断された箇所からすぐ上の窓枠に飛び移る。

 そこから壁面の突起を頼りによじ登り屋上に着くと、平らに整地されているはずの床面は途中から崩壊し、ぽつねんと支柱だけが残っていた。


 次のアパートの屋上まで地続きになっていることを期待していたけど、落胆はしない。普通にジャンプすれば落下するに違いない空白に迷いなく走り出す。

 脚のバネを全開にして跳ぶ先は――支柱。


 足先がその側面に触れると同時に今度は本来の着地点である次の屋上に方向転換し、支柱を蹴りつけて勢いを乗せる。ゲームでよく見る壁キックと同じだ。

 前転で衝撃を分散しながら着地し、続いて屋上に設置してある給水タンクに飛び乗ってそのまた次のアパートに移ると先客が陣取っていた。


 眼下のゲリラに応戦していたのは政府軍の装備に身を包んだ2人の兵士。幸いにもこちらには気付いてないようだが、居座られたまま動けるほど楽観的な状況でもない。


 拙速は巧遅に勝る。考えるより早く気配を殺して接近し、片方の口を塞ぐと同時に片方の頸動脈をナイフで掻き切り、引き切った刃を口を塞いだ方の心臓に突き立てた。

 声を上げることもなく血溜まりに横たわったのを見届けることなく、移動を再開する。


 姿勢を低くしながら屋根伝いに建物から建物へ。途中で敵がいるなら物陰に引きずり込む、軒先にぶら下がってやり過ごす、大人しく死んでもらう。


 最短で目標を目指しながら頭の片隅では戦場の「気」の流れに注意するのを怠らない。大丈夫だ。敵は各々の状況に手一杯で圧力が感じられない。

 獲物の大半が地上からの正面突破を敢行している以上、政府軍は地表にばかり注意が傾き自分たちの上を敵が飛び越えていることは知る由もない。


 市街地戦は遮蔽物が多く身を隠すのにうってつけの反面、進行ルートが限定される。だがそれは身体の使い方一つでどうとでもなる。壁があるなら登ればいい。障害物があるなら飛び越えればいい。足場はなければ見つけ出せ。


 もしこれがパフォーマンスならパルクールと呼ばれていたかもしれない動きは、本来よりもずっと洗練され地味なスタイルだが、潜入というカテゴリの作戦では随分役に立つ。地形と自身の身体能力さえ把握すれば、ロープの上だって通行路だ。


 地上では予想より激しいゲリラの抵抗に戦車が呼び出されていた。陸戦の王者に相応しい傲慢にさえ感じるキャタピラの駆動音。

 耳をつんざく音量を伴って吐き出される大質量の鉄塊が新たに黒煙を生み出す。


 塗装が剥げて煤けた廃墟の山々からいくつも立ち昇るそれは、舞い上がった砂塵と混在して先程から悪意ある射光を浴びせる太陽の下に黄土色のカーテンを帯びる。

 それはたなびく度に殺意と恐怖の区別もつかない混沌をまき散らすのを知覚させる。


 まるで天が蓋をしているようだ。黒煙を柱に荒涼とした戦場を隈なく包み込んだ世界は、遥か遠くの地平線まで続いていた。


◆◆◆◆◆


 隠れて、飛び越えて、排除して。道なき道を踏破した先にあったのは、戦闘区域からやや離れた古ぼけたホテルだった。


 周囲の家屋より間取りと高さを持ちイスラーム建築特有のカリグラフィーで彩られた目的地は、ゲリラの襲来に人員を割かれいつもより警備が手薄になり、侵入するのは難しくなかった。


 ホテルの前にはトラックが並び、すぐ傍で手を縛られ跪く男女の一団があった。捕虜だ。軍服を着ていないことから近隣の村から連行したのだろう。


 指揮官の手が下がり、撃発音が木霊した。頭蓋が割れゲル状になった脳味噌を零し、捕虜は一様に地に伏せる。動かなくなった死体をゴミみたいにトラックの荷台に放り、満載になれば入れ替わりで新しい車両が停まる。


 別段珍しい光景ではなかった。こんなことは戦争では日常茶飯事で、吐き気を催さないほどには見慣れている。

 ここで道徳と正義の御名の下に兵士を皆殺しにするのは出来ないことではないが、今更人道主義者を気取れるほど潔白な生き方を送ってはいない。

 過程が違うだけで命を奪っている事実は、自分も同じなのだから。


 ホテルの前の広場は少ない見張りの目を盗むだけの物陰がなく、正面切っての侵入は難しい。どこか他に……と屋根の上から勘案していると、頭上に伸びる太いケーブルがホテルの屋上に直結していた。

 振り返った先に佇む塔の先端にケーブルが繋がれていると分かり、そこに至るまでの足場やルートに不備がないことを見定め、実行に移す。


 道向かいに並ぶ建物の上を対角線上に飛び、パイプが無尽に這う床を配管の上を蹴り、地面との隙間にスライディングして潜り抜け、勢い着いたまま屋上を囲うフェンスに乗り上げる。

 そして思い切り屈伸して前のめりに身を躍らせれば、塔の壁面にある突起に引っ掛かることが出来た。


 出っ張りが少なくやや迂回したが、無事にてっぺんに着きケーブルを引っ張り強度を確かめる。それが十分と伝わりシュマグを外しケーブルに引っ掛け、跳躍。


 束の間の浮遊感、布とビニール管の擦れる音を纏い屋上に滑空する。監視は1人。こちらに背を向けてあくびしている。

 その無防備な背中に遠慮なくダイナミックエントリーし、押し倒してからもがく隙も与えずにチョークで絞め落とした。


 ……気付かれた様子はない。追っ手の気配に警戒しながら素早く階下をクリアリングしていく。


 目指すは中央階の応接室。その手前に立つ警衛が視線を外す一瞬を利用し、荒廃した廊下の角から無造作に置かれた木箱、木箱から花壇の陰に滑り込む。


 コツ、コツと規則正しい軍靴の音から彼我の距離を予測し、最も大きくなったと同時に視界に現れた自動小銃を掴んで引き寄せた。

 手刀を喉仏に叩き込み、マガジンを抜いて銃身のコッキングレバーを押し、初弾を強制排莢して無力化。


 突然陰から飛び出た侵入者に反応できず喉も潰された警衛は、つんのめってる間にライフルを梃子にバランスを崩されて物陰に引き倒され、首筋に衝撃を受けると動かなくなった。


 銃床で気絶させた警衛の懐から無線機を物色し、目的の部屋の前で送信ボタンを押し「窓を見ろ」と告げる。いきなりの通信に扉越しで人が動く気配。

 動揺ばかりで扉の方に誰も注意が向いてないと手に取るように感じ取れる。やれる、と確信し同時に扉を蹴破りAKを突き出す。


 扉が地に落ちるまでのスローモーションの時流の中で、照門と照星が重なった先に見据えた驚愕に塗り潰された数々の顔。

 日焼けした表面に刻まれた皺が恐怖に歪む前に冷静にトリガーを絞ると、眉間に穴が空いたそれらは糸が切れたように魂を手放した。


 硝煙が立ち込める沈黙の空間で、生きていたのはただ1人。椅子に手足を縛られていたその男に近付き、唾液まみれの猿轡を外すと


「遅かったな……」


 の第一声がか細く聞こえた。ナイフで拘束を解き僅かにふらつく体を支える。


「立てますか?」


「ああ……脱出方法は?」


「15分後に回収用のヘリが来ます。それまでに銃声を聞きつけた敵を追っ払って屋上に強行突破する必要がある」


 入口に身を寄せて外の様子を伺う男にAKを渡し、室内に懸架された別のライフルを取る。上下から複数の足音が鳴り、それに呼応するように迎撃のボルトを引く音が木霊した。

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