第3話 戦場と午睡(3)
中東という地域は昼間は馬鹿みたいに暑いくせに、太陽が沈み始める頃には急速に大気が冷え込む。今もこうして防寒着を着込んでないと次の朝には鼻水と高熱のダブルパンチだ。
だがただの風邪で済むなら砂埃と火薬と鮮血に塗れた闘技場で夜を明かすより何倍もマシで、こうしてチャイを飲めるなら最早至福だ。
政府軍とゲリラが鎬を削る最前線から離れた――少なくとも流れ弾が届く心配のない軍事基地の一角に構えたテラスで、コップの中の深紅の液体を嚥下する。近場のバザールの露店で買ったものだが、湯割りしただけのストレートな甘みは意外にも悪くない。
「目を悪くしないか?」
傍らに人が立つ気配。振り返れば典型的な白人男性が怪訝な表情でこちらを見下ろしていた。普通なら「寒くないか?」と聞くところだが、男性が指摘しているのは夜にランタンの光だけでペーパーバックを読んでいることだろう。
ただ、そんなのは会話を切り出す第一投に過ぎず、特に問題ないと返さないうちに椅子を引いてバドワイザーの栓を抜いた。
「何の本だ? 見たところアラビア語のようだが」
「『船乗りシンドバッド』。言葉は話せるけど文字は少ししか読めないから、練習に」
「熱心だな。もうすぐ帰国するってのに」
「それまですることがないので……カベルネの状態は?」
ブドウの品種がコールサインの「回収対象」がヘリに収容されるまで応急処置を施したときの怪我の度合いが気になり、先程まで面倒を見ていた
「心配には及ばんよ。脱水症状が酷かったが明日には持ち直す。プライドの方は分からんがね。軽くノイローゼで『
その言葉に眉を顰めてしまうのは仕方がなかった。
エスコートをしたのは寧ろこっちだ。後方支援を割り当てられたはずなのに「俺の方が上手くやれる」やら「イエローはクソを漏らさないように便所に籠ってろ」やらこちらの制止を聞かずに飛び出した挙句、敵側の手に堕ちる失態を晒してくれたカベルネ。
宗教的対立を軸にここら一帯の内戦を助長する政府軍の将軍を捕まえ、国際法廷に引き渡すという作戦の本懐は成し遂げたが、それで済まされるはずもなく。
すぐさま救出措置が練られ、今日のように傭兵に扮してゲリラの戦闘に加わり、どさくさに紛れて回収したというのが大まかな流れになる。バディを組んだ責任に単独で潜入を任されたことには、最後まで腑に落ちなかったが。
拘束を解いたときの苦虫を何匹も噛み潰したようなカベルネを思い出していると、背後から野次なのか歓声なのか分からない叫びが指向性兵器みたいに鼓膜を揺さぶった。
発生源はテラスの内部に設置されたテレビ画面とそれに群がる野次馬たち。液晶素子の中で際どいスライダーを見事に捉えた打者がマウンドを駆け、外野から返った球とほぼ同時に塁上で交錯する。審判が腕を真横に広げれば「Fuck Yeah!」と歓喜が湧き、酒瓶がまた1本空になる。
いつもなら武器の整備やブリーフィングに充てられる時間でも、今日ばかりは滞りなく作戦が終わったことで浮かれた空気に満ちている。歴戦の勇士と言えどもただの人。こうして息抜きをしないといつかは折れてしまう。
たとえ自分たちの行動が機密のヴェールで覆い隠され、日の目を見ることは無くても活動源たる愛国心さえあれば動ける彼らのバイタリティは見習うべきかもしれない。
途中で割り込んだCMの中に星条旗が映っていたからだろうか。ふと故郷が懐かしくなった。愛国心とまではいかなくともノスタルジーを感じるくらいにはあの国に関心があるのかもしれない。
同時に済ませなければならない用事も思い出して、ペーパーバックを閉じることにした。そうして席を外す直前に「なあ、ジャップ・ザ・リッパー」と男がいつも通りの言葉を使う。
「お前には本当に感謝している。お前のお陰でメルローもシャルドネも帰って家族に会わせてやれるんだ」
「でもピノは違う」
「小さなガキの盾になって撃たれたんだ。あいつも本望さ……。お前も戻るんだな」
「必要なものは全て学びましたから」
「俺たちのチームに来ないか? お前にはあんな小さな島国は狭すぎる。わざわざ放っぽり出されて今更帰る義理もないだろう」
帰る義理はない。そうかもしれない。少なくとも忠を尽くす対象には程遠いのは確かだ。ただそれでも戻らなければならない理由だけは残っている。
言わずとも分かっているくせにしつこく勧誘してくる男に、それも今日までだと思うと少しくらい言い返しても構わないだろう。
「天下のCIAにそう言ってもらえるとは感無量です。でもここで磨いた牙は大事にとっておきたい……どうしてもあの国で突き立てたいから……。悪いけどヘッドハンティングなら他を当たってください」
◆◆◆◆◆
定期連絡はこちらから取るのが常だが今回ばかりは違ったらしい。指定の時刻よりやや早く鳴った衛星電話を耳に当てれば、いつもの塩対応しかしない連絡係ではなく最早腐れ縁と言ってもいいのが出て来たのだから。
『久しぶりだな。特別研修はどうだった?』
「ぼちぼちですね。地獄巡りですけど」
『もう異動の時期か。ラングレーの連中とは仲良く出来たか?』
「お陰様で。少し仕事を手伝ったら現地の連絡網を気前良く譲ってくれましたから。後でうちの会社に協力してくれそうなのを何件か流しておきます。それで今度はどこに? 噂では北京の闇市が騒がしいそうですが」
『ああ、お前は中国語も話せるんだったな。優秀で何よりだ。本来ならもうしばらく研修旅行をしてくれても良いんだが……実は市ヶ谷から辞令が下りている。お前は今すぐ影鰐に戻れ』
影鰐。異様に厳しい法律を敷き拳銃を構えることすら恥とのたまう日本の治安組織を差し置き、国益のためなら盗聴から拷問、暗殺まで認可された秘匿情報機関。永田町御用達の便利屋にして防衛省に巣食う真の暴力装置。
正式採用と同時にこんな僻地に単身赴任させられた身でも、この業界では「へえ、あんたあの影鰐かい」と言われるくらいには幅を利かせている。
だがこんな下っ端に上層部が直々に勅命を下すなんてそうあるものじゃない。余計な情報漏洩を避けるために電話口の相手が変わったのがその証拠だ。
「それって……」
思わず震えが走る。少なくとも国内事案の中で特A級の機密保全が要求される部類なのは確定。更に自身の少々面倒な経歴から推測の幅を広げるなら、それはつまり――
『喜べ。今からお前は『幽霊狩り』のメンバーだ』
その瞬間自分を取り巻く世界の雑音が急速に遠のいた。張り詰めていた息が解け、溜め込んだ疲労が嘘のように溶けていく。
このときをどれほど焦がれただろう。憎悪と罪悪感と興奮と。表現しようのない感情に胸の圧が高まり、束の間に脳裏に思い浮かんだあの人の顔が鮮明に輪郭を帯びる。久しく忘れていたこの心の高鳴りを歓喜と結びつけられたのは通話が切れた後の事だった。
頭上に光る何かが過ぎり、空を仰げば飛び込んできたのは一筋の流星。ほんの一瞬で虚空に消えたそれは、却って鮮烈な印象を残し、白光を浮き立たせる星々の隙間を食い入るように魅入ってしまう。
過酷な自然と澄み切った大気の中でこそ深くなる呑まれそうな闇夜に、音も立てず狂い咲いた花々のようにひたすらに淡く輝く星の群れは、ただあるだけで見る者を圧し潰してしまう、そんな狂気を秘めた昂然たる美を湛えていた。
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