第25話 嵐の職場見学(1)

「疫病神が!」


 男が怒鳴っている。が、首を絞められたままでは何を言ってるか分からない。


 徐々に五感に靄がかかり、本能が全身に警告する。このままでは死ぬ、と。


 だが逃げられない。どんなに暴れても大人と子供の体重差が立ちはだかり、脚をしっちゃかめっちゃかに動かすが、徒に酸素を消費するだけだ。


 心肺が狂ったように鼓動する一方、頭はぼうっと熱が溜まり、いよいよ視界も黒ずんでいく。


 いっそのこと逃げてしまおうか。この苦しみが続くくらいなら、自分から暗闇に飛び込む方が楽かもしれない。

 ふと浮かんだ誘惑に思わず身を委ねようとした最中、圧迫が緩み右眼に何かが触れた。


 爆発。そうとしか表現できないほどの灼熱と痛みが発し、大切な何かが引き千切られた。男の指が紅く染まり、小さな丸い何かを握っているように見えたが、右半分の世界が分からない。


 余りの衝撃に覚醒した意識を再び閉ざすために喉の圧が強まる。痛くて熱くて苦しい。そんな単調な思考しか出来ないほど追い詰められ、最早もがく力すら残らない。


 追い詰めてくる恐怖から逃れたくて今度こそと直感した刹那、僅かな意識の隙間に「ぼく」は流れ込んだ。

 感じたのは圧倒的な重圧。悲鳴と怒号、砲音と爆熱、全身が砕け穿たれ抉られ斬られ焼かれ……。

 死に直面していることすら認識できないほどの未知なる波涛に魂が侵されていく。


 腕が動いた。いや動かされたのか。自分と「ぼく」。どちらが体を操っているのか分からないまま、彷徨った手がコツンと何かに触れた。ペンだ。突き刺せば大人でも……。


 茫洋とした意識に「ぼく」が囁く。微かな力を総動員しペンを握る。狙うは耳の穴。一発勝負。腕を振りかぶった――


 ◆◆◆◆◆


 その日最初に目に入ったのはいつもと同じ天井だった。いつものシーツの感触に朝日が昇るかどうかのいつもの時間帯。

 起床10分前に冷房をセットしていたから、部屋の温度は暑さに顔をしかめない快適さ。特に変わり映えのない目覚めの朝。しかし僕の気分は最悪だった。


「今日はか……」


 目下悩みの種である理不尽に嬲り殺されるスプラッターナイトメアとは別の悪夢。いや脳から抽出した記憶の追体験という夢についての一般的見解に沿うなら、これがと言うべきか。


「……っ痛」


 あまり思い出したくないものを思い出してしまった。頭部に痛みが集中してくるのをベッドから強制退去することで振り払い、洗面所に寄ってから台所で当番制で割り当てられた朝食係の任に就く。


 とろんと落ちそうな瞼をシパシパさせながら、まな板に乗せた長葱を刻む。瑞々しい繊維に刃を通すとシャキッと想像通りに子気味良い音がする。

 コトコトと小刻みに揺れる鍋には昆布出汁を混ぜてある。いつもは煮干しがベースだけど、今回はシジミを使うことにした。

 沸騰後に弱火にして貝を投入し白味噌と長葱を加える。嗅ぎ慣れた味噌の匂いに濃厚なシジミの風味が加わり、意識が冴えてきた。


 主菜は定価の半額で購入したブリの切り身だ。賞味期限が今日だから少々艶に欠けるけど、食えるなら別に構わない。油を熱したフライパンの上に切り身を乗せると、ジューッと焼けて表面のピンクが白くなり、程好い塩梅の焦げ目ができる。

 両面に焼き色を付けて蓋で数分間蒸し焼きにする間に、醤油、酒、みりんを混ぜて少量の砂糖を溶かしたタレを準備。蒸し終えたらタレを加えて照りが出るまでブリを焼けば完成だ。


 付け合わせは昨晩残ったほうれん草のゴマ和えで足りるだろう。塩っ気が強い献立だからゴマの甘味が良いアクセントになるはずだ。


 最後に米。ちょっと古いものだったから時間をかけてゆっくりと炊くべきだけど、時短のために釜の水を少し減らし、代わりに氷を1個入れておく。

 こうすることで水温が下がり通常の炊飯モードでもじっくりと炊いた状態と同じ甘さを引き出せるらしい。


 ご飯をよそいニュースをぼんやりと眺めながら食べていたら、廊下の奥から奇妙な唸り声が届いた。ようやく同居人がお目覚めらしい。


「あ゛~~頭が割れる゛ぅ~~」


「朝っぱらか耳障りなだみ声出さないで下さいよ社長。ただでさえ酷い顔してんのに」


「うるせぇ……ガキにこの苦しみは分かるめぇよ……」


 そう言って床を這いずり食卓を目指す姿は、まさにゾンビ。テレビを挟んで正対すれば、青白い肌と目を縁取る隈が陰鬱な空気を惜しみなく放散させる。


「この味噌汁しじみが入ってるな……あ〜生き返る」


「昨晩パチンコでボロ負けついでにヤケ酒してきた酔っぱらいを介抱しましたから。で、何万スッたんですか?」


「坊主はもうどこにお婿に出しても恥ずかしくないな……」


「スルーかよ……まさか預けておいた20万円を――」


「ありゃあ惜しかったなぁ。確変と時短でダブル王手だったのに、最後のスロットがなぁ……」


「使いやがったのかこの野郎!? 何してくれてんですか! あの金でようやく家にもオートシェフが来るはずだったのに!」


 現在売り上げが右肩上がりの人気クッキングマシンは、我が家に光をもたらしてくれるはずだった。

 内蔵した専用AIによって自動調理機能を実現したそれは、セット契約のケータリングパックを入れてスイッチを押せば、下準備が済んだ食材を勝手に調理してくれる優れもの。

 個人に合わせてカロリー計算や栄養バランスが計算されたメニューだから健康面も完璧という至れり尽くせりの代物を遂に迎え入れようとした矢先にこの男は……!


 よれたスウェットを掴み上げ前後左右に振り回すと、青信号にもっと青味が増した。


「馬鹿、引っ張るな! 仕方ねえだろ勝利の女神が俺に囁いたんだよ。くっそ~あと少しで……ウプッ」


 しじみ汁で落ち着かせた胃のもたれが再燃したらしい。速攻でトイレに駆け込んだ菊池さんは、しばらく格闘した後で更にやつれながら席に戻った。


「……またか?」


「やっぱり分かります?」


「いつもの辛気臭い面が、今朝はナメクジみたいなレベルだったからな」


 今のあんたには負けるよ、と内心で返しながら箸を進めた。職務上の安全を考えて菊池さんには僕が時折発する謎の頭痛について一定の理解を得ている。

 構えていればある程度苦痛を誤魔化せるけど、付き合いの長い人にはお見通しらしい。


「分かってんだろうな坊主。今日は大事ながあるぞ」


「ええ」


「段取りは向こうが進めてるが無理だけはするな。本番までにはコンディションを作っておけ」


 朝の食卓にそぐわない張り詰めた空気が束の間の静寂を生む。アナウンサーの朗らかな音声がそれを緩慢にかき回し、扇風機の風に流れて消える。濃い出汁を使ったせいだろうか。食後に服用した頭痛薬の苦味が強く残った。


◆◆◆◆◆


 社会とは人が集まって生まれ、当然に集団行動を義務付けられる。その一部である学校も然り。

 そこに個人の自由はない。食事もトイレも教室移動も連れ合いが居て当たり前。何かしらのイベントではそれがより顕著になる。

 全くもって時代遅れの風習だ。今の世は集団の同調ではなく個人の独立独歩が叫ばれる時代。自らが望んだ道を自らの足で踏みしめるべきなのだ。


 つまり職場見学超メンドい。


 大型バスに積み込まれ届けられたのはリンクシティでも特に企業が集中するセンター街エリア。

 税率が特例的に抑えられているこの一帯で商いを営む業者は多く、多層構造のテナントビルには大小問わず多様なジャンルの事務所が押しかけている。


 古参の大手にフィンテックやクラウドファンディングでのし上がった強者が混じり、経済の荒野を群雄割拠するのはこの街の主に寄るところが大きい。それは窓の外から容易に確認できた。


 リグセイルタワー。


 全高が財力の象徴とでも主張するように競って増築を繰り返すビル群の中でも、まだあの塔に届き得る猛者は現れてない。

 全体的に白を基調としたマルチプルウォールを採用する企業に混じり、一昔前に流行った全面ガラス張りも珍しくない社屋の中で、唯一サファイアで散りばめたように青一色に染めた特異なカラーリングは、否が応でも視線を引き付けられる。

 壁面に広告を投影するのが主流の街並みで何も浮かび上がってこないのは、その必要がないほど目立つからだ。


 天を衝かんばかりの威容はこの都市のランドマークとして、また君臨者の自負を抱くリグセイル社の玉座としてこれ以上ないほど相応しい。


「機械仕掛けの楽園の王、か……」


「おいパッチ何突っ立ってんだよ。行くぞ」


 まだ(いい加減にしなきゃと思うんだけど)覚えられないクラスメイトX君が呼ぶ。ただ駆け寄ったときに軽く蹴るのは止めてください。


◆◆◆◆◆


 最新設備が揃う麦ヶ丘高校のスポンサーだからと何があっても驚かないつもりだったけど、流石に開いた口が塞がらなかった。だって玄関に入るなり中空に魚が浮いていたんだもの。


 フロア4階分はぶち抜いたようなエントランスフロアに魚群と言えるほど大量の魚が優雅に泳いでいる。

 足元にはカクレクマノミやタツノオトシゴ、頭上には赤みがかった身が特徴のタイの仲間や色鮮やかなエンゼルフィッシュ、その他の魚も銀の鱗を閃かせている。

 天井付近にいるのはジンベエザメか? エイをお供に巨大な影を地面に落としていた。当然のように風景は海中で、波によって揺らめく陽光まで映している。


 もちろん本物じゃないことは理解している。けれどもまるで巨大な水槽に放り込まれたような光景は間違いなく本能に訴えかけてくるものがあり、麦ヶ丘高校の1年生は漏れなく感嘆の声を上げた。


「おっ、その反応良いですねー。毎年恒例とは言え仕掛ける側としてはやっぱり嬉しいなー」


 上々の演出をしてみせた瑠璃色の広間の奥から現れたのは、e-ピローを装着した背の高い女性だった。美人だ。それも最上級の形容詞が付く程の。


 健康的で浅黒い肌はシャープな眉の下にある力強いアーモンドアイと共にエキゾチックな魅力を。

 緩くウェーブした艶やかな黒髪や弾力のある唇は、精悍なのに蠱惑的という相反する成分を完璧に両立させていた。

 なのに今浮かべている微笑は明るく、一転して愛嬌ある印象に変わり警戒心を与えるには程遠い。


 パンツスーツの上からでも分かる均整の取れた立ち姿は一目で分かるしなやかさで、動物ならば豹かチーターに近いイメージだ。文明の利器が跋扈するこの社会では、異彩と呼んでいい美しさだった。


 前触れもなく現れたワイルドかつセクシーなお姉様に男連中(生徒・教師問わず)は一撃でノックアウト。女子も無意識にため息が出てしまう。


「驚いたでしょ。これは拡張現実ARと3Dホログラムを複合して作り出したオーシャンビューなんです。今までは輻輳調節矛盾――目の動きに合わせた細かな調節が出来なくて困ってたんだけど、研究を続けてここまでのレベルにこぎつけました。今回は麦ヶ丘高校の皆さんが来て下さるということでしたので、プログラマーが特別に製作してくれて……あ、偶に慣れなくて気分悪くなっちゃう場合もあるみたいなので、そういう人は機能をオフにしても良いですよ」


 そう言ってトントンと裸眼を指すが、その瞳は青白く発光している。リグセイル社が開発した最新式のコンタクトレンズであるマルチレイヤーが正常に稼働している証拠だ。


 超微細加工を施した導電センサーを内蔵したコンタクトレンズ「マルチレイヤー」とe-ピロー。この2つを揃えることでARの技術は格段に進歩した。

 前々から網膜投影機能を持ったコンタクトレンズの開発が進んでいたけど、外部から受信する情報を映像の形に変換するには、どうしてもサイズが必要だった。


 だが既に脳に夢を送信するデバイスであるe-ピローを開発したリグセイル社はこれを逆手に取り、受信した情報の処理をe-ピローに任せ、マルチレイヤーは映像投射のみに機能を限定することで、問題を解決。

 軽量で元から優れた性能を持つe-ピローの相性は良く、マルチレイヤーは高画質ディスプレイと変わらない解像度を実現。今は単体よりもセット販売の方が売れ行きが良いらしい。


 加えて日々の改良で動作検知機能も実装され、手をかざして直感的な操作で各種のウィンドウを切り替えられるため、スマホよりも使い勝手が良いと感じる人も多い。業界誌によっては次世代の個人端末と謳うのも頷ける。


 ただ少々お高いため一般市場よりも情報のやり取りが多い通信業界からの発注が多く、僕らが身に着けているのも入館証を兼ねてリグセイル社が貸し出したものだ。


「今はマルチレイヤー単体で機能するタイプを開発しているけど、まだ設計段階なんです。ま、詳しいことは追々説明するとして……申し遅れました。私は氷室ひむろなぎさ。本日皆さんの案内係を務めさせていただきます。よろしくお願いします……ってよくここの社員と勘違いされちゃうんですけど私はただのボランティアですから、皆さんは間違えないでくださいねー! そうだ、折角なので彼女にも挨拶してもらおうかな」


 取っ付きにくさを解消するフレンドリーな喋り口でパチンと指を鳴らすと、海の中から人魚が舞い降りてくる。

 そう見えたのは身に着けた白いロングドレスがたなびく様がまさに尾びれの様だったからだ。人魚はふわりと女性の隣に降り立つと丁寧に頭を垂れた。


『この度は遠路はるばるお越しいただきありがとうございます。皆様の来訪を心から歓迎致します』


「どう? 普通ではお目にかかれない等身大のマーシトロンは? 可愛いでしょ~。このゴーグルには皆さんのデータがインストールされてるから、いつもと同じ感じで利用できます。困ったことがあれば気軽に使ってね。じゃあマーシトロン、また後で」


『はい。どうか皆様お楽しみくださいね』


 再びお辞儀をしたマーシトロンは重力を忘れたようにふわりと宙に浮き、ゆらゆらと上って海上に吸い込まれていった。

 人の認識能力を超えるほどの精細な画質で描かれたパノラマに、息遣いさえ聞こえそうなほどリアルな質感を持ったマーシトロン。もうのっけから大迫力だ。


 未だに唾を飲むのも忘れるほど魅了される生徒を美形の案内係が現実に引き戻す。


「よーし、ここに居るのもなんだから移動しましょうか。まずはミーティングルームへレッツゴー!」

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