第2章 7月編

第17話 真夜中の奇襲

 その電話が入ったのは1時間ほど前だった。


『すまん。しくじった……俺はもうすぐ死ぬ。だがブツはせめてお前の手に――』


 話す間も惜しかったのだろう。風邪を切る音と荒い息を吐きながら紡がれた声は、しかし続く銃声にかき消されて途切れた。

 当直要員への報告もそこそこにGPSを辿って回線が切れた地点に着けば、赤い斑点が地面に列を作っていた。


 その跡が指し示していたのは地図に載っているのかも怪しい古びた神社。深く生い茂った森の中にひっそりと建った拝殿に、男は座り込んでいた。


「遅れました。怪我は――」


「無いように見えるか? 俺の感覚が正しければ腹に2発は空いている」


「持ちこたえてください。すぐに救援を呼びますから」


「無駄だ。ここに着くまで血を失くし過ぎた。俺のことはいいから、お前は連中が来る前にこれを……」


 懐から震える指で差し出されたのは小さなフラッシュドライブ。僅かな月明かりから目的の物だと判別し、応急処置の算段を思い出しながら手を伸ばし――


 眼前に黒いボール状の物体が飛び込んだ。


 M26手榴弾。通称レモン。視界を横切った一瞬に種類とその性能が脳裏に叩き起こされ、反射的に対応を迫られる。


 放り投げる?


 無理だ。タイミングが間に合わないし、出来たとしても腕が吹き飛んでデッドエンド。


 覆い被せる?


 梁下のスペースにあった鉄製の手押し車なら希望があるが、重いし遠すぎる。生憎とすぐ横に立て掛けられた竹ざるに命を預けられるとも思えない。


 ならば残るのは――覆い被さる。


 兵士としての責務が被害を最小限に抑えるべく、男を押し退けようとして――押し退けられた。


 同じ状況に居合わせたなら取るべき行動も同じ。違ったのは実行に移した速さだけ。コンマ数秒にも満たない刹那に目線を交わした男は、どこかニヒルに笑って自らの腹にレモンを招き入れた。


 間髪入れず放出される振動と破裂音。爆発の熱に混じって湿った温もりを持つ液状の何かが全身に降りかかり、気が付けば境内の真ん中まで吹っ飛ばされていた。


 意識を失わなかったのは口に入り込んだ鉄臭い苦みのお陰だろう。石畳に叩きつけられた激痛に耐える最中に何者かが近づく気配。確実に止めを刺すために銃を構えるのも分かった。


 まだやられるわけにはいかない。


 脳天に集中した殺意が高ぶった瞬間、足首を掴み片足を膝裏に引っ掛け、更に片足で腰を蹴り押す。柔道でいう草刈りに似た動きに、バランスを崩した襲撃者の銃口は僅かに外れた方向に弾丸を放った。


 一瞬の隙を逃さずそのままマウントポジションに移行するが、受け身に終始するほど甘い相手ではない。すぐにでも体勢を立て直そうと心臓に拳銃を向けようとするのを制し、銃身スライドを抜き取って分解する。


 これで最大の脅威は消えた。しかし襲撃者は残ったグリップで殴りつけてくる。辛うじてガードするが胴体の守りが浅くなり、割り込んだ膝に押し出されてマウントは解かれてしまった。


 互いの間合いを保っている間に呼吸を細かく刻み、身体を揺すってダメージを少しでも緩和させつつ、全体の状態を確認する。

 体中が燃えるように熱いが骨折はないのは幸いだった。手足も力が入りにくいもののまだ動く。まだ戦える。


 改めて対峙した敵は目深に帽子を被り、月夜に細身のシルエットを浮き立たせていた。体格はほぼ同等だがしなやかな輪郭に女だと直感する頃には、鈍く光る刃が防衛圏に侵入していた。


 かまいたちの如き鋭さを腕で反らし、距離を作って腰に挿し込んだグロック26を抜くが、作動しない。爆発の衝撃でイカれたか。

 舌打ちする間もなく接近してきたナイフに咄嗟に盾代わりにしたが、的確に振るわれた軌道に押し負け、グロックを手放すと同時に二の腕に灼熱が走る。


 「レンタル」を使え、と囁きが聞こえる。この敵は強い。武器を失い手負いの状態でやり合える相手じゃない――「ぼく」がせせら笑い水門を開けと誘う。

 冗談じゃない。そんなことをすれば制御が利かなくなり、最悪。自身の内に生じた障害を封じ、あくまで迫り来る現実の敵に集中する。


 コンパクトに刃を滑らせ肌を小刻みに嬲る動き――少しずつでも確実に流血させて弱らせるプロの戦法だ。さらにこっちが素手なのをいいことに、間合いを取ろうと逃げてもすぐにナイフの届く範囲に追い詰めてくる。


 腕の肉を割いたナイフの一点に伸びる刺突と直線となって迫る斬撃に対し、本能的な動きに任せて避け続ける。腹に刺そうとすれば体を軸ごと捻り、薙ぎ払いが来れば添えた手で角度を変えて受け流す。


 やりにくい。なるべくナイフと接触せず持ち手を側面から捌き続けるが、ダメージを受けた状態でこんなレベルの敵を丸腰のまま相手取るのは自殺行為だ。

 息が上がり四肢が震える。捌く度に薄く刃が入った腕に新しく傷が出来る。もう猶予はない。仕掛けるのは今しかなかった。


 喉元を狙った攻撃に対し敢えて足を前に出す。突き込まれるのを勢いが乗る前に腕を押さえて防ぎ、踏み込みを上乗せしたストレートをがら空きの胴体に叩き込んだ。

 封じた腕を抱き込んでナイフを奪おうとしたが、寸でのところで逃げられる。再び襲い来る獲物が迫る刹那、懐から懐中電灯を取り出した。


 月明かりにも勝る光源が闇を祓った。微かな光を集めて機能する夜目に膨大な光量が注ぎ込まれ、女の動きに致命的な隙が生じる。

 全力で蹴り込んだ。武器を奪うなんて生温い。ただ眼前の脅威に明確な一撃を与えるためだけの蹴りだった。


 互いに後退したために起きた束の間の静寂。


「何者だあんた……」


 激しい呼吸の合間に問い質すが答えてくれる道理はない。その代わりに女は薄く口元を歪め


「今夜は痛み分けね。面白い子だわ、あなた。また会いましょう、『影鰐』のエージェントさん……」


 数歩引いたかと思うと途端に木々の間に溶け込んだ影は、気配も残さずに消えてしまった。待ち伏せも有り得る状況下で追いかけるのは愚策だ。そうでなくても満身創痍の身で膝をつきそうになってしまう。


 まるで何事もなかったように舞い込んだ風が、静かに夜の森をざわつかせる。けれどこの身から発する痛みや腕から滴る血は本物だということを訴え続け、瓦解した建造物に刻まれた焦げ跡や血痕は疑いようのない現実を突きつけた。


「こちらT-5523R。清掃班を頼む。場所は……」


 携帯を片手に一際色濃くそれらがへばりついたところに近寄り、どれが指でどれが歯でどれが胃か分からないくらい破壊された遺体を前に、彼が命に代えて託したちっぽけな記録媒体をただ握りしめるしかなかった。

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