第16話 アイドルルートエンディング

「あぁぁ……」


 渇く。渇く。渇く。どうしようもなく渇く。


 伸ばした腕は寄る辺なく宙を掻くが、すぐに力尽きてシーツの上に投げ出された。指が震え、焦点が定まらず、前後左右さえ曖昧になる。頭蓋の内側から滲み出る異質な思念が混濁した僕の意識をタールみたいに塗り込んでいく。


 ねえ、何を躊躇ってるんだい。何を拒むんだい。いつになったら「ぼく」を受け入れてくれるの?


 一緒になればもう苦しくないよ。すっきりするよ。だって「ぼく」らは同一存在。。「ぼく」は君で、君は「ぼく」。一つになったらきっと楽しいよ。完璧になるんだ。


「うるさい……」


 頭の中身を有刺鉄線で縛られたような激痛にひたすら耐える。「レンタル」の副作用だ。一時的に先鋭化した第六感を得る代わりに訪れる呪いの時間。僕と「ぼく」による魂の領域の陣取り合戦。


 くだらない倫理にこだわるのはもう止めなよ。これまで何人殺してきたと思ってるの? あの人に会いたいんでしょ? なら「ぼく」と一緒になってもっと殺そうよ。そうすればきっと――


「うるさい……うるさいうるさいうるさい!」


 脳を見えない手でかき回される感触がおぞましく、ベッドの上で頭を我武者羅に打ち付ける。皮膚が擦れてシーツに血が滲んでも囁きが木霊する。僕は時が過ぎるまでただ悶えるしかなかった。


◆◆◆◆◆


 湿気が高い時期は食べ物が痛みやすい季節だ。一晩放置すれば生臭さは異臭に変わり、間違って口にすればトイレから出られなくなる呪いに掛けられてしまう。


 コーヒー豆も同じだ。多くの人は豆が痛むイメージを浮かべにくいけど、一度焙煎してしまうとすぐに劣化が始まり2週間もすれば風味が損なわれるデリケートな奴なのである。粉に砕けばもっと早い。


 客が来ない素寒貧な店でも看板を出している以上は優雅なおもてなしは欠かせない。冷凍状態でも結露を防ぐためにそのままで湯を加えて液体を抽出するのが基本だ。


 ……という豆知識はさておいて僕が今作っているのは紅茶。蒸らし終わったポットの中身をカップに移しカウンターに置く。茶葉、時間、入れ方、ジャンピングも正確に測ったゴールデンルールだ。


「お待たせしました。アールグレイです」


「う~ん良い香り。ありがとう古賀君」


 一口含んだ矢吹さんが今日も無垢な癒しオーラを振り撒いてくれる。何かもうお代はこれで良い気がしてきた。寧ろこれからは店員として働いてくれないだろうか。


「いつもフレーバーカプセルのしか飲んだことなかったけど、やっぱり本物は香りが違うね。マネージャーに頼んで置いてもらおうかな……」


「以前依頼人からもらった高級品だからね。香りづけしただけのとは格が違うよ」


 人間が味を感じる要因は嗅覚にあると言われるように、水に香料を混ぜたジュース擬きは良く出回っている。

 リンクシティでは技術改良のお陰で、溶かすだけで匂いだけでなくコクやとろみも再現できるカプセルが人気で、ノンシュガー、ノンカロリー、ノンカフェインのが当たり前になっている。


「それにしても驚いたなぁ。古賀君がバイトで探偵してるなんて……この前は動揺してて気づくの遅れちゃったけど」


「あの……出来ればこのことは……」


「分かってるよ。あそこまで骨を折って探してくれたんだもの。だから内緒に、ね」


 軽くウィンクでお茶目に約束してくれたことにほっと一息。良かった。何とか失業の結末は免れた。


 件の誘拐騒動から数日後のある放課後、矢吹さんは改めてお礼をとキャラハンに訪れていた。

 あの直後は塞ぎ込んでいて心配だったけど、今ではすっかり元のはつらつ元気を取り戻している。目立った怪我もなく学校にもいつも通り通っている。


 ただ被害の影響を鑑みた芸能事務所側は、当面の間矢吹さんの芸能活動を一時中断する旨を発表した。本人の希望と精神的苦痛を踏まえての処置だそうだ。

 人気アイドルの唐突な休止にマーシトロン関連株や広告収入の下落が懸念されたが、その程度で揺らぐようなシステムではないだろう。あの出来レースは損害を最小限に留めるプランで実行されたのだから。


 既にこの件は様々な機関の間で共有され、表向きは精神異常者の行動として処理し、情報規制も徹底している。真相は矢吹さん本人も知る由のない深い闇の中に埋もれるのだ。


「でもビックリだったよ。レシュリスカヤさんが通報したって言うから待ってたのに、来たのがマネージャーだったんだもん」


「嘘じゃねえよ。郊外の合流地点の方にパトカー集めるように寺田に通報させたんだから。あの不良ども、曽我部って奴以外あからさまにビビってたからな。効果はあった」


 付け合わせの高級クッキーをポイポイと放り込む今回の立役者は、矢吹さんを伴って来るなり「暑いからアイスティーな。ウェッジウッドの。右奥の棚に入ってんだろ」とウェイターを呼びつける感覚で注文してきた。

 いやあるけどさ……何で場所まで知ってるの? エスパー?


「……今回のことは本当にごめんなさい」


 和やかな談笑の中で矢吹さんがカップを置く。いよいよ本題だ。完全に被害者な彼女だけどその発端に幼馴染が関わっていたとなれば、心中穏やかではいられないだろう。人間というのは少しでも負い目があれば罪悪感を持ってしまうものだ。


「矢吹さんのせいじゃないよ。僕らだって勝手に踏み込んだんだから。ね?」


 確認を求めるようにレシュリスカヤさんに振る。


「ああ。そもそもは寺田を誑かしたあのろくでなしどもが悪い。それに責任は私にだってある。私の読みが甘かったから――」


「そんなことない。誰だってライブ中に誘拐するなんて思わないよ。レシュリスカヤさんが居なかったら今頃私外国に売り飛ばされてたかもしれない。あのアドバイスのお陰で怪我もしなくて済んだんだよ。だから……謝らないで」


 手を取り真剣な眼差しで訴える姿勢に、あのレシュリスカヤさんもたじろいでしまう。美鈴、恐ろしい子……!


 諦めたのかレシュリスカヤさんもふっと顔の力を抜く。


「分かった。気を遣わせちまったな」


「ぜ〜んぜん! 寧ろ助けてくれてありがとうだよ。最後の方はびっくりしたけど」


「ただの正当防衛だ。大した事ねえよ」


 はて、僕の記憶では先に手を出したのはそっちだったような……。


「カッコよかったなぁ。ジークンドーだっけ? 今度教えてよ!」


「は? いやアイドルに格闘技なんて要らないだろ」


 いきなりの弟子入り志願にレシュリスカヤさんが更にたじろぐ。そんなことはお構い無しの矢吹さんは、憧れのヒーローに会った子供みたいに目を輝かせていた。そりゃ二度も助けられたらそんな目にもなるわな。


「あ! まだアドレス教えてなかったね。携帯ある? 交換しよ!」


「この前やっただろ。緊急用だけど」


「あれは仕事の! プライベートの方はしてなかったから、こっちの方が沢山お話しできるよ」


「沢山って……別に普通に会って話せるし」


 攻めるなぁ矢吹さん。天真爛漫どころか猪突猛進にレシュリスカヤさんを攻略してるよ。でも彼女も拒絶する素振りでもない。無意識なのか「会って話せる」なんて言うくらいだから。


 危機を乗り越え平穏パートに戻れば、フレンド獲得イベントが付き物。攻略対象に共通の知り合いが出来たことで、僕も絡みやすくなるから無問題モーマンタイ。何だったら僕だけに絡んでほしい。


「しかし今時珍しいよね。いくら自分の蒔いた種だからって、ただの幼馴染のためにあんなに頑張れる人。寺田さんって矢吹さんのこと好きなんじゃないの?」


 そう。事件は終わっても僕のラブコメは終わってない。活動中止ということはその分矢吹さんと接触するチャンスが増えるという意味だ。

 そのためにもまずは不安要素を取り除かなければならない。幼馴染属性ほど厄介な野次馬キャラはないからな!


「あーそのことなんだけど……」


 カップを置いた矢吹さんは何故か困惑気味の様子。はて? 何か変だったかな?


「教えてやれば? ここまで来て渋ることもない」


「うーん。そうかな……そうだね。あのね古賀君、実はあの人私の彼氏で――え? 古賀君!? どうして急に突っ伏して男泣きしてるの!? 私何か嫌なこと言っちゃった?」


「放っといてやれ。夢破れたと知ったばかりなんだから」


 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! そんなことは有り得ない信じない認めないぃぃ!

 寺田のクソ野郎、澄ました顔で本当は矢吹さんとしっぽりしてただと!? 許さねえ! 八つ裂きにしてくれる!


 ……ん? ってかレシュリスカヤさんは知ってたの?


「隠し通せてたと思ってたんだけどなぁ。まさか腕時計でバレちゃってたなんて思わなかったよ」


「偶然だ。会館の休憩室で駄弁ってた時に時間教えてくれただろ。やけに凝ったデザインの盤面だったから記憶に残ってな。それをあいつが同じものを着けてればペアウォッチってことくらい誰でも分かる」


 そうか。だから路地裏でやり合った時に見逃したのか……!


「だったら早くそれを教えてよ! 男子のピュアな心を弄ぶのがそんなに楽しいか!」


「ピンチの女子に良い顔してすり寄る奴をピュアとは呼ばねえよ。別に言う必要もないし」


 この世界は残酷だ。試練を乗り越えた先にあったのがNTRルートだったなんて。

 寺田さんの人物像についてその発想が及ばなかったわけじゃない。だけどこんなのあんまりじゃないか……!


「……後生だ矢吹さん。一つだけ教えてほしい。いつから付き合ってる?」


「えーと中学に上がってすぐだったよ。大切な思い出を沢山作ろうってこの時計をくれて――古賀君!? 今度は血涙が出てるんだけど!?」


 もう恋なんてしない。

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