第6話 高校生アイドル
美しさとは何なのだろうか?
ミケランジェロの天井画やショパンの奏でるクラシックが人々の心を揺さぶるように、偉大なる芸術家が残した数々の名作を思い浮かべる人々が大半だろう。
だがこれはあくまでも一般論で、美の基準はそれこそ人の数だけあるのではなかろうか。
もしかしたら百足に夢中になる人がいるかもしれないし、何も描かれてない白地のキャンバスこそ傑作と呼ぶ人がいたとしてもおかしくないほど現代社会は多様性に溢れている。
中には通常の美的感覚を批判する言葉さえ存在するのだ。「美人は3日で飽きる」とか。
いずれにしろどんな価値観を持っていても良いものはやはり良いものだ。古典芸術であれ映画であれ漫画であれゲームであれ、名作というのはどんな世代にも親しまれる魅力があり、時を経てさらに進化することもある。
ある配管工が囚われの姫を助けるために何度もハードを移植するように。覚醒すると髪が金色になる戦士が宇宙の帝王どころか神様とドッカンバトルするように。
「でもこれは流石に退屈だな……」
暗闇に包まれた空間で僕はあくびを我慢できなかった。隣に人が座っているのもかかわらず思い切り伸びをする。どうせ半睡眠状態なのだから構いはしない。
瞼を開くと微細な動きを感知したセンサーが耳小骨振動式のイヤーカフから静止の勧告を促す。が、これも無視。起動状態にしたまま緩く見渡すと、僕が座っているのがどういう場所かよく分かる。
古代ローマの
全員微睡みの中に居るからだ。リクライニングシートに収まる麦ヶ丘の生徒は、安らかな表情で夢の中に潜っている。
頭に装着したカチューシャ状の薄型デバイス――通称e-ピローはマーシトロンが創出した仮想夢を大量の信号素子でパルスに変換し、大脳皮質や前脳辺縁系を刺激するいわば制御装置だ。
通常は個々人に最適化した夢を送信するのだが、今回は芸術鑑賞会というわけで大人数が同じ夢を共有するための高出力モデルを使用している。
事前に提示された電子パンフでは、ルネサンスからモダンアートまであらゆる芸術を楽しんでもらうために、美術館と契約するセラピスト、キュレーター、評論家らが監修した仮想夢と説明された。
体内に残存するストレスを一時的に抑制し、健全な心が宿す本来の感受性を引き出す措置らしい。時代は芸術鑑賞にも下準備を要するようになったのだ。
どのみち不適合者の僕には無縁の話だ。平等の建前で席を設けてもらったのは悪いけれど、見えないものを期待しても仕方ない。それにこの薄ら寒い空間でよく平気でいられるな、と感心しさえする。
後で感想文を書かされるはずだけど、予めパンフを読み込んでおいたから大丈夫だろう。どうせみんな眠ってるし、1人サボってもバレやしない。かの名言「赤信号みんなで渡れば怖くない」を考えた人に敬意を表して睡眠学習モードに移る。
結局例の女子生徒の手帳は届けられなかった。来店したのが金曜で翌日が創立記念日だったせいだ。
本人が気付いたならまた店に来るかもしれないと思って店番がてら待ってみたけれど、レシュリスカヤ女史の姿は日曜になっても見えなかった。
バイト終わりに生徒手帳に記載されている電話番号にかけてみたけど繋がらず、最終手段と思って住所のマンションを尋ねるも、フロントでインターホンを押しても反応がなかった。念のために留守電を入れたけど現時点まで返信はない。
ひょっとして事故にでも……と深掘りしてニュースを視聴しても、ロシア人高校生の話題なんてこれっぽっちも上がらなかった。
とどのつまりお手上げ状態。唯一の望みを抱いて週明けの芸術鑑賞会で姿を探しているけれど、まだそれらしい人物は見つけられていない。
「……ってあれ?」
気が付くと劇は既に幕を閉じ辺りの席はがらんとしていた。他の組も移動し残っているのはただ1人。
おかしいな? 今日は班行動が原則だぞ? せめて一言かけてくれれば良いのに。まったくせっかちさんなんだから。
ちなみにメンバーはクラスでも特に目立たないグループ、いわゆる3軍の人たちだ。
班決めのときにあぶれた迷える子羊を生温かい視線で迎え入れてくれた彼らには感謝していたけど、アイドルの推しを聞かれたときに上手く答えられなかったせいで、結成早々にも壁が出来上がってしまった。
だって仕方ないじゃん。音楽自体に疎いのに「古賀氏は美鈴たんの神曲『ミラクルタイフーン』振りつけBパート武道館ヴァージョンについてどう思うなり?」なんて尋ねられても、まず美鈴たんって誰かとしか切り出せないもの。
カースト最下層と見なされている彼らにも無視される僕って一体どんな存在なんだろう? もうベンチ枠って呼ばれても納得するしかないのだろうか。
ボッチはどこまでもボッチという悲しい定理を嘆いていても変わらない。ここは一つ名画を眺めて心を落ち着けよう。近場に安らぎを求めて席を立った時だった。
「ああっ! 居た居た!」
ホールに反響する軽やかな声。振り向くとこちらに近付いてくる女子が1人。
栗毛のツーサイドアップ、小柄な身体を折り目正しい制服に包んだ姿は、どこにでもいる高校生だが、顔立ちは小作りで和やかな雰囲気を覚えるくらい愛くるしく、華やかだった。何かこう……ヒロインの王道って感じのタイプだ。
もし日本人形をリブートして高校生の格好をさせたらこんな風になるんじゃないか、と思わせるくらい純朴な印象を持った少女だった。
「やっぱり。まだ寝てるんじゃないかって思ったら案の定だよ」
ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて
「もうみんな外に出ちゃってるよ? 早く行こう」
「あ、あの、どちら様でしょうか?」
再起動して間もない脳味噌が急速に活性化し、しどろもどろに返す。事務所といい今といい、見知らぬ異性から声を掛けられるなんて遂に僕も春が来たのか?
でもこの女子に少なくとも僕は会った記憶がない。
「C組の
「はあ……それで僕に何か御用ですか?」
「……え?」
「え?」
質問したら真顔で返された。聞き逃すような小声じゃないし、周りに僕以外の人はいない。
別の誰かを呼んだのかな? やだ恥ずかしっ! でもホールの中に僕以外の生徒はいない。はて?
「あの……私のこと知らない?」
はい知りません。そもそも自己紹介した時点で初対面でしょうに。
……はっ、まさか逆ナンってやつか? よく手練れが使うという「君どこかで会ったことない?」の女バージョンなのか?
それともラブコメの王道に必ず挙がる久々に再会した幼馴染パターン!?
瞬時に灰色の脳細胞がフル回転し、どうにかしてこの可愛い女の子と関わったエピソードを検索する。
どこだ。どこにあるんだ。これだけ可愛い子ならフォルダに永久保存しているはずだ!
名前も全力でメモリーから洗い出す。矢吹美鈴、やぶきみすず、YABUKIMISUZU……駄目だ出てこねえ!
「一応テレビとか出てるんだけど、本当に知らない?」
その一言にある人物が急速に浮上した。そうだ。つい先日もCMで目の前と同じような微笑みを浮かべていた――
「……もしかして最近人気が出てマーシトロンのイメージキャラクターに起用されたっていう」
「そう! 良かったぁ思い出してくれて。校内で知らない人が居たらマネージャーに呆れられちゃうところだったよ」
ほっと胸を撫で下ろす女子は確かに見たことがあった。
矢吹美鈴。清楚で可愛らしい容姿と人当たりの良い性格から男女問わず慕われる現役高校生アイドル。
麦ヶ丘で中等部時代からマーシトロンに見出されたという縁もあり、今ではマーシトロン関連のプロモーションにも引っ張りだこだ。
その手の話に疎い僕でも知っている有名人で、彼女がデビューした年の受験者数は例年の倍を軽く超えたらしく、知名度の高さが伺える。多分、校内でもぶっちぎりの人気者だ。
一般生徒から見て雲の上、天女レベルの御人が声を掛けてくる……意識しないでも直立不動になる。
どどどどどうすればいいの? 優越感よりも緊張感が勝ってまるで思考が追い付かない。取りあえずペンと色紙が欲しい。
「は、ははは初めまして! ほほほほほ本日はお日柄も良く――」
「そんなに
「そ、そう? あーびっくりした。生でアイドルとか見るの初めてだから緊張しちゃって……でも何で僕がホールに居るって分かったの?」
「劇が終わって出るときにファンだっていう男子たちがサインお願いしてきてね。原則班行動なのに1人足りなかったから、もしかしてって思って」
それでわざわざ確認に戻ってきてくれたってことか。何て優しいんだろう。ファンクラブ入りたい。
「次は自由見学だから早く行かないと遅れちゃう。同じ班の人の名前分かる?」
「うーん。余りもので組んだから覚えてなくて」
「そっか。今から探すと逆に迷子になっちゃうかもしれないし……あ」
ピロンと矢吹さんのポケットが鳴り、ウサギのマークが入った女の子らしいカバーで覆った携帯を取り出す。
「グループの子からだ。早く来ないと置いてっちゃうよだって」
「そっか。じゃあ行きなよ。僕は僕で適当に回るからさ」
「でも1人で動くと迷子になるかもしれないし……ねえ、もし良かったら――」
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