第29話 嵐の職場見学(5)
諸星君は意外にも早く帰って来た。
「階下の屋内庭園に居たよ。しばらく付き添ったんだけど何も言ってくれなかった。今は氷室さんに付き添ってもらってる。落ち着いたら戻るってさ」
渋い顔で告げるのは力になれない歯痒さの表れだ。多分現状で御子柴さんの気持ちを聞き出すのはほぼ不可能に近い。
何か差し支えることがあるならば仮想夢で解消すればいいが、これまでの行動は明らかにマーシトロン的ではないだろう。
リンクシティの人間はシステムの規範に逆らうことを嫌う。ならば御子柴さんが抱える優先順位は、それを上回るくらいの一大事に他ならない。
取り残された女の子はテラスで休息しある程度平静に戻っていた。気の弱い性格は大概真面目な人間に付き物で、この女子も校則ギリギリを狙うほど制服を弄るような冒険家ではない。
この悪行に等しい日照りでもボタンを外さないのに、猫背で俯いて暑くはないのだろうか。
内巻きのボブカットはドライバーのヘルメットみたいに皮膚が蒸れそうだけど、その中に隠れた卵型の顔立ちはよくよく見れば標準以上に精緻なバランスで成り立っていた。
これまで会ってきた美人が宿す華や属性こそ感じられないが、逆説的に言えば磨く前の原石に似た将来性を秘めている。
化粧をすれば化けるタイプだな。例の高尾先輩とやらもこのポテンシャルを見抜いたから目を付けたとしても納得する。
愛想笑いくらい出来たなら、その耳に掛けている銀のリムで縁取られたボストン型の眼鏡も本来のオシャレパワーを活かせるだろうに。
「済まない仙崎さん。乃亜には俺からキツく注意しておいたから。確かにちょっと怖いかもしれないけど、本当は良い子なんだ。今回は許してやってくれないか」
両手を合わせて頼み込む諸星君に、女子生徒も逡巡しながらもこくりと首肯する。僕にもそうだったけど彼の善性迸る振る舞いは打算というものがなく、だからこそ受け入れられやすい。
誰にでも分け隔てなく接せられるというのは、実のところ陰キャには非常にありがたいのだ。今回のように威圧的な陽キャに絡まれたときは、尚更。
「こいつと知り合いか? 諸星」
「ああ。何回か話した程度だけど……って、何で君は知らないんだ!? クラスメイトじゃないか」
信じられないと驚く諸星君に対し、「マジか」と呟いたレシュリスカヤさんが女子生徒を精査する。
「
「……知らないのが普通です。私、地味だし。それに不適合者だから」
おお、珍しい。今までの人生で僕は自分以外の不適合者と会ったことがない。正確な統計が無いのもあるけど、単純に数が少ないのだ。絶滅危惧種に匹敵するレア度と言ってもいい。
何か親近感湧くなーと思ったらきっ、と僕に凄い視線を向けてきた。あれー? 同じぼっちだから気が合うと思ったんだけどなー。僕ってこんな子にも生理的にアレなのかなー。めっちゃ傷つく。
「別にいい。今はお友達になりに来たわけじゃないんだ」
「レシュリスカヤさん!」
「仙崎、だったか? 単刀直入に聞くが高尾って奴に言い寄られたのはいつだ?」
ぼっちは大勢での会話が苦手。その特性を知り尽くしているレシュリスカヤさんも、世間話なんて無駄を省き直球勝負で挑む。
「ええと、2日前だったけど」
「さっきの金髪以外に喧嘩吹っ掛けられたことは?」
「ないです……あ、昨日廊下を通るときに誰かに舌打ちされたような……。それに何故か本もビリビリに破けてて」
レシュリスカヤさんのときと同じ手口。同一犯だ。何らかの得心に至った彼女が携帯をかざした。
「舌打ちしたのってこいつか?」
「……はい。そうです。あれ? でもどうして――」
「やっぱりか。サンキューな。大体分かった」
何か勝手に自己完結したレシュリスカヤさんが席を立つ。ぽかんと呆ける仙崎さんよりも口を切ったのは諸星君だ。
「お、おい! もういいのか?」
「線は全部繋がった。後は炙り出すだけ……ああ、一つ聞き忘れてた。破けた本、題名は?」
「え? 『高慢と偏見』……ジェーン・オースティンの」
「良い趣味だな。本のことは気にするな。ちゃんと本人に熨斗つけて弁償させてやる。『怒れる人々は常に知性など持ち合わせてはいない』」
やたらかっこいい台詞で先を越された。くそ、僕も「あ、その本知ってるー」ってビブリオマニアな会話に入りたかったのに!
と、ポケットに入れた携帯が震えた。開くと1通のメール。
「うげぇ……」
「古賀?」
中身を読んで漏れた嫌な雰囲気が諸星君に伝わったらしい。目敏く気付いてくれるのは有り難いけど、今は少々都合が悪い。
「あーその僕ちょっとトイレに……」
◆◆◆◆◆
お茶を濁して向かった先はトイレじゃなかった。メールが指定してきたのはタワーの一角にある小さな会議室。当然の如く鍵は開いている。
扉を開けた途端、正面からしなやかな影が舞い込んできた。
「会いたかった……!」
切実な願いを込めて抱き着かれ、ふわりと踊った髪から薫る甘やかな匂い。いつも思うけど女の人ってどうしてこう良い匂いなんだろう。やっぱりフェロモン的な何かが放散されているのだろうか。
っていうか、相変わらず凄い乳圧……。
是非ともあと2時間ほど堪能したいところだけど、時間がない。名残惜しくもその背中をぽんぽん叩くと、影はようやく離してくれた。
「んー何かリアクション鈍くない? 普通もっと慌てふためくもんでしょ」
「どこかの誰かさんが毎回際どいことしてくるものだから慣れちゃいましたよ。……ってか、姐御こそ急に何なんです?」
奇襲に失敗したのがつまらないと唇を尖らせる氷室渚さん――もとい姐御は、「ちぇっ」と返して鍵を閉めた。
この社長令嬢ともそこそこの付き合いになるけど、世間一般のお嬢様とは真逆と言えるくらいアクティブな振る舞いは、さぞ周りもハラハラするだろうと思う時がある。
こうしたボディタッチだって僕のように紳士な余裕がないとコロッと落ちてしまう。
「実は追加依頼があって」
「この段階で計画変更ですか? 内容次第ですけど承諾するかどうかは――」
「あー違う違う。それとは別件なの。ちょっとした雑用よ。方法は任せるわ。やる?」
「報酬も聞かないでYesっていう馬鹿はいませんよ」
すると姐御はにやりと口元を歪めた。素晴らしい悪戯を思いついた子供らしい健やかさに、微かな圧を纏わせて。
「タッちゃんがもう一度ここに来たときに、とっておきのサポートを用意してあげる。仕事もうんと楽になるはずよ」
これまでとはやや毛色の異なる話に聞き返しかけたけど、これ以上は話してくれないだろうと分かり、算盤を弾く。
直接的な金銭のやり取りよりも安全マージンを肩代わりしてくれるなら、費用対効果としては悪くない。保険は多いほど良い。
「聞きましょう」
「ありがと! じゃあ早速……と言いたいけど、もう時間ね。代わりに――」
言葉が途切れると同時に視界いっぱいにあの涼し気な瞳が広がったかと思うと、唇にクッションよりも熱く柔らかいモノが触れた。ぬるりとした感触が歯茎の間を押し退け、口の中を蹂躙する。
一瞬にも満たない熱の交感は甘い匂いが遠ざかると共に消失し、建築材の発するポリマーの無機質な匂いが戻ってきた。
「これは手付金。続きは全部終わったら、ね」
「やれるだけやってみますよ」
不意打ちとはいえ受け取ってしまったからにはやるしかない。軽いウインクを残して部屋を去った姐御を見送り、唇に指をそっと這わせると薄い紅の跡。僕は急いで証拠を洗い流す時間を捻出しなくてはならなくなった。
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