第3章 8月編
第37話 紺碧の勉強合宿
某ホテル深夜――
「ほら着いたわよ。今日はしっかり休みなさい」
「……無理。徹夜が重なってるのに全然眠くない。多分深夜テンションかも」
「はあ、だからあれほど無理するなって言ったじゃないの。訓練漬けから間を開けずにこっちに来て1日中テスト漬けなんて、頭がおかしくなるに決まってるでしょう。これも欲望の成せる業かと思うと末恐ろしいわね」
「男にはどうしても踏ん張らなきゃいけないときってのがあるんですよクララちゃん。地獄を潜り抜け目の前に楽園への扉があるのに開けない馬鹿がどこにいるっていうんだ」
「馬鹿に馬鹿って言われると腹が立つわね……まだスタドリ6本分の効き目が抜けないのかしら。仕方ないわね。横になりなさいタッちゃん。私が安眠に効くおまじないをしてあげる」
「あっ、急に眠気が……。これならぐっすり寝られそう。悪いけどクララちゃんそれはまた今度――」
「1名様ごあんな~い」
「き、亀甲縛りだと!? 馬鹿なあの一瞬で……! じゃなくてこれ何のおまじないだ! 絶対邪神教の生贄の儀式とかそんなのだろ!」
「大袈裟ね。ただのマッサージよ。この縛り方が一番気持ち良くなれるんだから……」
「ひっ! や、止めろ来るな! マッサージとか言って本当は僕に乱暴する気なんだろ! エロ同人みたいに! ちょ、駄目だってそんなとこ触ったら! あっ、らめ、らめ……あ゛っぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!」
◆◆◆◆◆
翌日――
「ほら着いたわよ。しゃっきりしなさい」
「へ、へへ……あひ……」
「困ったわね。マッサージが効き過ぎたかしら」
「へぶん……ぱらだいす……」
「はいはい、お待ちかねの
「お~い古賀く~ん! あ、クララ先生も一緒だ。こんにちは!」
「こんにちは美鈴ちゃん。楽しんでる? ……って、聞くまでもないわね」
「もちろんですよ! あの、それより古賀君どうしたんですか? 何か変ですけど」
「昨日フルスロットルで課題を終わらせたからまだ調子が出ないのよ。でも大丈夫。ちゃんと疲れが取れるようにケアしてあげたわ。ね、タッちゃん」
「しゅごかった……」
「……本当に大丈夫なんですよね?」
「当たり前じゃない。私のテクで落ちなかった男なんていないんだから。彼も結構凝りが酷かったけど完璧に
「え、えーと……」
◆◆◆◆◆
夏には法則がある。高校生と海、そしてロマンスだ。冒頭からそうこっ恥ずかしい言葉が出るのが自然なほど、眼前の情景は美しかった。
紺碧の空と真っ白な綿雲の下に広がる見渡す限りの青い世界。
足元のターコイズブルーから段々と深い色合いに染まり、水平線を見やる頃には黒ともネイビーともつかない深蒼が却って無機質な印象を与える荘厳なグラデーション。
それでもここを海と感じられるのは、照り付ける太陽でぼうっと白くなった水面と、その上を凪いだ潮風が運ぶ強烈な磯の香りがあるからだ。
何の抑制もない生物の匂いは、人間社会の制御された匂いに慣れた嗅覚には余りに刺激的で、僕は剥き出しの自然と対峙しているのだと改めて実感する。
「自然は人間の施す教育以上の影響力をその内に抱いている」とはヴォルテールの言葉だったか。
「そうだ。僕は間に合ったんだ……!」
夏休みに突入して早1週間。8月のド頭。麦ヶ丘学園高等部1年生は勉強合宿の時期を迎えていた。
◆◆◆◆◆
一般的に勉強合宿と言えば、山奥の寺に籠って娯楽も何もない環境でひたすら講義と自習を繰り返すというイメージだ。
しかし麦ヶ丘は同じ静かな環境なら海辺でも構わないと、リグセイル社が擁する
波の音や青色のリラックス効果がストレスを緩和させるというもっともらしい理屈で、オーシャンビューを前にしながら学習に勤しめる……はずがない。
いくら名物講師のありがたい特別授業を受け、マーシトロンの仮想夢でストレスを緩和しようが、疲れは必ず蓄積する。
そこでこのビーチの面目躍如となる。2日目と4日目に設けられた休憩時間。大抵は10分ほどの休息の中で、数時間まで延長されたこの時間帯だけが、生徒の外出が解禁される。
一刻も早くスタートを切りたい競走馬のように、生徒たちが一斉に水着に着替え砂浜に繰り出す様は、ちょっとした臨海学校と言えなくもない。
これもまたマーシトロンのストレスフリープロトコルに従った立派な緩和ケアだ。過剰な情報の入力は脳の処理能力を麻痺させてしまい、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌がボーダーを超過してしまうからだ。
そして僕は今まさにビーチに居た。少しでも進めば届く距離に広がる楽園に、涙腺が緩みそうになる。
「夢じゃないよな……」
「頬っぺたでも抓ってあげましょうか?」
そう言って軽く僕の頬を伸ばして笑うのはクララちゃんだ。1年生のバックアップを担う引率教員に混じり養護教諭兼カウンセラーとして駆り出されてきたそうだ。
仕事だから仕方なく出向く教師が多いにも拘らず、1人だけ鼻息を荒くしているのはビーチに
「うぅぅ……来て良かったぁ……!」
「ほんとよく頑張ったわね。特に後半の追い込みは凄かったわ」
泣きむせぶ僕を労うように肩に優しく手が触れる。実のところ僕が合宿に合流したのは3日目からだった。何故なら本職である影鰐の遠征訓練と見事にダブルブッキングしていたのだ。
夏休み開始と同時に泣く泣く参加した沖縄米軍キャンプでの野外演習。影鰐の実戦部隊とトリイステーションに駐留する米陸軍のグリーンベレーがタッグを組んだ合同訓練は、絶え間なく体を動かし続けるという意味では体育会系の強化合宿と変わらない。
ただし1時間にも満たない睡眠や食事とも言えない食事をとるのを除けばだ。自衛隊のレンジャー訓練でも匂いで敵を引き寄せるかもしれないので、ポンチョを被って飯をかき込むよう指導される。飯が無ければ野生の蛇を捕まえて食べる方法も学ぶ。
空挺降下で叩き出されジャングルを連日連夜行軍するのだが、実はこれが最もキツい。ただ歩くだけと思われがちだが、実際は担ぐだけで肩が凝るライフルに合わせて縦にも横にも張り出したバックパックを背負わなければならない。
何十kgもする代物だ。気を抜けば逆に押し潰され地面に縫い付けられて立ち上がれなくなる。
それらを堅いアーミーブーツと通気性皆無の
そしてようやく訓練を終わらせ、菊池さんに無理言って合宿の許可を取り付けたものの、次に立ちはだかったのは麦ヶ丘の教員たちだった。
うだうだと説教をもらったが、要は「途中参加のくせに海水浴だけで帰れると思うなよ」ということで、ありがたくも特別補習を言い渡された。
内容はただのテスト。ただし一科目でも合格点を取れなかったら、取れるまで繰り返させる熱心な学習方針に、僕も全力で迎え撃った。
海に行きたい。そして女子の水着を見たい。ただそれだけを願って。
本能の叫びを集中力に変えて夜中までテストを解いた後、訓練の疲労も重なり鉛となった体を引きずってベッドに倒れた。
翌日、奇跡の一発合格を果たし、僕はやっと海に出ることを許されたのだった。
ああ、夏の日差しが目に染みる……。
海の青と砂浜の白が織り成すコントラストに、肌色の彩りが加わり、キャッキャッウフフと戯れる生徒たち。
数日前とは真逆の環境に違和感よりも感動を覚えた。それは横に立つクララちゃんも同じだ。
「逞しい肩甲骨、隆起した胸板、張りのある肌……まさに天国ね……」
「頼むから涎拭いてください」
浜辺でビーチバレーに興じるグループに釘付けになるクララちゃんが粗相しないように必死に押さえる。
無理もない。普通に映すだけでツアー用のパンフレットが出来るほどに、あのグループは自然と輝いている。
諸星君、十文字君、御子柴さんを中心に組まれたザ・リア充チーム。見目麗しい美男美女の水着姿は、単純な目の保養に留まらず、万人を惹きつけるエネルギーを放出しているのだ。
空手部とバスケ部の新星と名高い諸星君と十文字君は、運動部らしくバランスのいい筋肉の付き方だ。
雑誌のトップを飾れそうなイケメンマッチョが軽やかに舞いスパイクする場面は、黄色い声援がいつもの3割増しになるほど躍動的だ。憎たらしいだけの強い日差しもイケメンにとっては自然由来の照明に変わる。
御子柴さんにとっても諸星君にアピールできる重要な機会だ。第三者の僕でも分かるくらいに彼女のチョイスは大胆だった。
ビビットカラーにハイビスカス調のチューブトップという海外セレブが好みそうな装いは、クラスの女王様を南国の女王様にジョブチェンジさせるアグレッシブさ。
読者モデルを務めているだけあってそのスタイルは同年代の女子よりもずっと優れている。
ボールをトスする度に揺れるもう2つのボールに男子の熱い眼差しが3割増しだ。砂時計型のくびれがその大きさを余計に強調する。
唯一夏休み前と違うのはショートに切った金髪くらいか。関根先輩の強襲で無惨にも切り落とされてしまったが、この季節では寧ろ快活な印象を与える。髪が長かろうが短かろうが、美人は美人に映るのだ。
「ああ……私も一緒に男の子たちと玉遊びしたい」
何でだろう。クララちゃんが言うとそこはかとなく危険を感じる。特に股と尻が。
「それなら行けばいいじゃないですか。そんな暑苦しい格好してないで」
ハーフパンツが標準装備の男たちの中で、ラッシュガードというお固い着こなしは意外だった。この人なら余裕でブーメランパンツを履いて砂浜を闊歩しそうなのに。
「こんなの私の好みじゃないわ……。本当はちゃんとハイレグなのを勝負水着に持ってきたのに、他の先生方が無理矢理これを渡してきたの」
「グッジョブ」
「何か言った?」
「いえ別に」
マジでありがとう先生たち。もしクララちゃんがそれを着けて生尻を披露してしまった日には、わいせつ物陳列罪で地元民に訴えられるかもしれない。
「じゃあ私はこれで。ここは暑いしパラソルの下でじっくりマンウォッチングでもするわ」
「マンハントじゃないんですか? 早くしないと若くて可愛い娘に横取りされちゃいますよ」
「ここの主役は
そんなデキる大人な台詞を残して立ち去るクララちゃんだったが、実のところ一番視線を集めているのは彼だったりする。
諸星君たちみたいに筋肉があるわけじゃないけど、それを補って余りあるほどに顔面偏差値が高く、今だって数多の女子が話しかけるチャンスを伺っている。
麦ヶ丘のカイザーイケメンは伊達じゃないってことだ。
「ああ、そうそう。さっき美鈴ちゃんに会ったわよ。タッちゃんのこと心配してたみたいだから顔を見せに行ってあげなさい」
「マジか。熱中症って言えば付きっきりで看病してくれるかな……」
「それはないわよ。さっきマッサージしたばかりって言ったもの」
「……今なんと?」
「だからマッサージよ。昨晩はとても疲れてたから私がありとあらゆるところを愛撫してあげたって。とても攻め甲斐のある夜だったって言ったら顔を真っ赤にして走って行っちゃったけど、どうしたのかしらね」
「Nooooooo!!!!!」
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