第19話 北風と太陽

「彩ちゃん、6時間目はどうする~? もう少しここにいる?」


 かすみが聞いた。


「ここにいていいですか……?」


 彩は若干顔色が悪かった。


「いいよ~」

「大丈夫よ。もう少し休めばいいわ。私からクラスには伝えておくから」


 葵が微笑んだ。


「ありがとうございます。先生。それにしても、悔しい……地味女って言われた……そうかもしれないけど、真面目が悪いことかな……海斗君とは仲良くしたいのに……腹の虫が暴れてる!」


 何時も冷静な彩には珍しく、自分の膝を叩きながら、しぼり出すように言った。


「ちょっと落ち着こう。それから、仕返しは今すぐしないで待って」


 葵が言い終わる前に彩が言った。


「もう、仕返しの方法が次々と浮かんでます! どうやったら一番効果的かな? って」

「彩ちゃん、私も、私にひどいことをした人に、心の中で仕返ししまくったことがある。だから、気持ちはよくわかる」


 亨の顔が浮かんだ。


「やっぱり葵先生はものわかりがいい」

「気持ちはわかるの。でもね、ちょっと実行に移すのは待ってね。私の経験からいうと、あなたの方が大きな痛手を負う可能性があるの。慎重に、ね」


 かつて、亨への仕返しを心の中で何度も試したが、あの時実行しなくて良かったと、今は心から思っていた。


「ちょっとベッドに横になろうか~?」


 彩の様子を見ていたかすみが聞いた。


「はい……かすみ先生、ありがとうございます」


 彩は前日の寝不足に加えて、事件のショックと疲れが重なったため、体調があまり良くないようだった。かすみが彩をベッドに横たわらせ、カーテンを閉めてまもなく、寝息が聞こえ始めた。


 一方教室で、川本先生は海斗がいなくなったことにとっくに気が付いていた。そこに、海斗がお腹をさすりながら入ってきたので、川本先生はいつもの無表情で聞いた。


「北条、大丈夫か?」

「はい。トイレに行ったので、楽になりました」


 その時、またあのささやき声が聞こえてきた。


『あの子、見つからなかったかな?』

『大丈夫でしょ。あの感じなら』


 5時間目が終わった。海斗はお腹に手を当て、机にうつぶせて仮病を続けた。自分が原因であんなことが起こった以上、彩を助けたことがわかると、余計に彩が危険にさらされると考えたのだ。そんな海斗を見て、修が来た。


「おい、何かあったか?」

「後で教える。今は腹が痛いことにしてくれ」

「わかった」


 6時間目が終わると、海斗と修が彩の荷物を持って保健室に来た。


「彩ちゃん、お迎えだよ~」


 かすみがカーテンを開けてベッドをのぞきこむと、彩は気付いて目を覚ました。


「よく寝た~」


 彩が起き上がり、ぼさぼさの髪を手で整えていた。


「海斗君、ありがとう。助かった」


 彩が海斗の方を見てにっこり笑ったら、海斗も微笑みかえした。


「私、悔しいよ。一体誰なんだろう? なんでいじめられるんだろう? 腹の虫がおさまらない。探し出して、絶対同じ思いをさせてやる!」

「やめとけ。仕返しはさらに残酷な仕返しを生むものだよ。知らない方が幸せだ」

「なんで海斗君にわかるの? 学校に来たのは昨日が初めてでしょ?」

「俺、王様をやってただろ? 王宮はもっと残酷な世界だったよ」


 海斗はそばにあったパイプいすを引き寄せて、ベッドのそばに座った。


「お前が王様だって忘れてた」


 後ろで修が笑った。海斗は彩としっかり視線を合わせ、諭すように言った。


「亡くなった父上は王の息子だったから、俺よりいろんなことを知っていたよ。だから、俺にはいろんなことを教えてくれた。『河城君よ、物事は自分の感情で判断してはならない。天から見下ろすように見て判断するのだ』ってよく言ってた」

「お父上は前の王様のお兄さんだったよね。庶子(側室の子)だったから、王妃の息子である弟が王になった」


 修は歴史に詳しい。


「そう。父上のその言葉の重みが王になってよく分かった。腹の立つことをされたり、自分の思いと違う事を言われることはよくあったよ。俺は先王様の養子で、元々は庶子の息子だから、肩身が狭かった。でも、俺の場合は国の存亡や自分の命がかかることが多かったから、絶対自分の感情では動けなかったんだ。父上が言うとおり、自分ではなく、空の上から見おろすように考えると、人の立場や周りの状況がよく理解できたし、結果的にはうまくいくことが多かったよ。」

「レベルが高い!」


 彩が感心していると、修が言った。


「怒らせたら殺されるんなら、僕も我慢する方がましかな。彩をいじめた犯人は、あんな意地悪をするくらいだから、仕返しなんかしたら、またやり返されるかもな」


 海斗はうなずいて言った。


「仕返しをしたら、彩とあいつらが、対立の関係になるのは間違いないだろう。一度対立すると、修復するのは難しいよ。でも、対立に至らなかったら、意外とうまくやっていけるもんだよ」

「腹が立つ相手なのに?」


 彩は納得できないようだった。


「俺の経験ではそうだ。王になってからの話だけど、腹の立つ大臣が俺に嫌がらせをしたんだ。でも、俺は殺されたくないから我慢したらそのあと結構何でもなくやっていけたよ」

「ふうん。お腹の中、沸騰して腹の虫がゆであがりそう」

「まあね。簡単ではないよ。でも、相手の上を行くのがコツだ。とにかく、こっちから笑顔で接していくことだ。彩の場合は相手が誰かは知らないから、みんなに笑顔でいればいい」

「なんだか『北風と太陽』みたい。小さいころ、お母さんに読んでもらった」

「何? 『北風と太陽』って」


 海斗は知らなかった。


「あのな、北風と太陽が、歩いている旅人のコートをどっちが脱がせることが出来るかって勝負するんだ。北風は強い風を吹かせてコートを吹き飛ばそうとするんだけど、旅人は寒さでますますコートをしっかり着て脱がなかった。逆に太陽はぽかぽか温めたら、旅人は暑くなってコートを脱ぐっていうお話だよ」


 修の解説に海斗はうなずいた。


「なるほど。その通りだな」

「ま、笑っていたら、周りから見ても、感じがいいしな」

「そうだな。他の生徒だって、復讐に狂ってる彩より、頑張って笑ってる彩に味方するだろうな」

「太陽作戦か~。でも、私の腹の虫はどうなるの?」


 お腹をさすっている彩を見て海斗が言った。


「そんなもん、時間がたったら、それ以上の喜びで、どこかへ行っちゃうよ。俺はそうだったよ」

「喜び?」

「うん。対立した状態より、みんなが仲良くやっている方が絶対楽だし、楽しくなるから。俺は仕返しする彩より、許して笑ってる彩の方がかわいいと思うよ」

「え? かわいい?」


 彩が頬を両手で抑えてポーズを作って笑った。


「海斗、お前、やっぱりすごいな。王様やってただけあるわ。彩、笑っとけ。その方がかわいい」

「修もそう言うなら、笑っとこうかな……」


 3人は楽しそうにしゃべっていた。葵とかすみは遠くからその様子をながめていた。


「なんだか、あの子たちの方がしっかりしてるね」


 葵にしては、言葉が弱々しく聞こえた。


「あの子たち、というより、海斗君、さすが王様ね~。葵ちゃん、元気ないねえ」

「うん。なんとなく淋しい。巣立つ子供を見送る親鳥の気持ちってこんな感じかも。かわいいハソングンが大人になっちゃった」

「ふ~ん。そうかあ~」


 かすみは微笑んだ。



 その日の夜、葵と海斗はお互い明日の準備をした後、ソファに座ってなんとなく映っているテレビを見ていた。


「先生、世界史、面白いね」


 葵はがばっと海斗の方に向き直った。


「海斗も歴史好き?」

「うん。もっといろんなこと知りたい」

「じゃあ、2階へ行く?」


 二人は本棚のある部屋に行った。


「これ、ほとんど歴史関係の本なの」


 部屋の壁面いっぱいの本棚に、ぎっしり本が並べられている。


「そうなんだ! この部屋は怖くて入らなかったけど、そう思うとワクワクするね」


 海斗が目をキラキラさせて端から本の背表紙をたどっていた。


「これなんか、おすすめよ。今日やったところがよくわかる」


 葵が1冊の本を渡した。


「へえ~」


 海斗は本を受け取り、葵も1冊を選んでリビングに降りた。ソファのそれぞれの席で、それぞれの本を読んでゆったりとした時間を過ごした。


「ミルクティー飲む?」

「飲む!」


 葵が立ち上がろうとして、ソファに手をつくと、そこにあった海斗の手に触れてしまった。葵の心臓が跳ね上がった。


「あ、ごめん、痛くない?」

「ん、大丈夫」


 海斗は本に目を落としたままだった。夢中で読んでいる。葵は急いで台所に行った。やかんに水を入れて火にかけ、ポットにかすみが分けてくれた高級な茶葉を入れて、沸騰するのを待った。いつも使っているマグカップを二つ、お盆に乗せた。


 海斗はよほど気に入ったのか、まだ夢中で本を読んでいる。やがて沸騰したお湯をポットに入れると、紅茶の豊かな香りが部屋を満たした。


「海斗、いつものように甘い方がいいよね?」

「うん」


 葵は紅茶をマグカップに注ぎ、両方に砂糖とミルクを入れた。海斗は本から目を離さない。


「どうぞ」


 海斗は葵が差し出したマグカップを持ち上げ、ふうっと吹いてから、そっと口をつけた。


「おいしい! すごくいい香りがする!」

「かすみ先生が頂き物を分けてくれたの。本当に香りが良くておいしいね」


 二人は今読んでいた本のこともしばし忘れて、ミルクティーを味わっていた。ゆったりと流れる時間が心地よかった。


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