第30話 遭遇
席に座り、コーヒーとミルクティーを注文した。クラシック音楽が流れている。葵は
「葵ちゃんには本当に悪いことをしたと思ってる」
「息子さん、いくつになったんですか?」
「10歳、4年生だよ」
「私、あの時、びっくりしました。まさかパパだったなんて」
「学生の時に結婚したんだ。妻は大学で助手をしていた」
葵は妻という言葉に胸がチクリと痛んだ。
「あの時、葵ちゃんのことは本当に好きだったし、かわいいと思っていたんだ。この気持ちに偽りはない」
葵は静かに微笑んだ。
「ご家族を愛していらっしゃるんでしょう? 正直に言ってください。先輩を見たらわかりますから。今とても幸せそうです」
亨は一瞬ためらったが、きちんと答えてくれた。
「うん。正直に言うよ。幸せだ。あの時、君がちゃんと俺の気持ちを断ち切ってくれたことに、今は心から感謝しているんだ。あの時はつらくて、長い間引きずっていたけどね」
葵の心に残っていた氷が溶けはじめた。
「あの時いらっしゃったお腹の大きい女性が奥様ですよね? 下のお子さんは、どちらだったんですか?」
「女の子だった。父親にとって、女の子って特別だな」
そう言って、コーヒーを一口飲む姿に、やっぱりかっこいい人だなと思った。
「先輩、かっこいいから、御自慢のお父さんですね。あ、先輩が幼稚園の親子競技に出てる姿って想像できない~」
「ちゃんと出たよ。俺、幼稚園の先生にも園児の女の子にも大人気だったんだよ」
「自分で言います? それ」
葵は笑っていた。亨の前で、こんなに素直に笑えるとは思ってもみなかった。亨はそんな葵をまぶしそうに眺めていた。
「君は一段ときれいになった。きっと、いい恋をしているんだね」
いい恋……している。はっきりと言える。
「はい。いい恋、してます」
葵はミルクティーを一口飲んだ。亨は、懐かしむように言った。
「ドリカムの『決戦は金曜日』を聞くと、葵ちゃんのことを思い出してた。あのころ、金曜日に葵ちゃんに会うのを楽しみにしていて、よく聞いていたから」
「そのおかげで、私は金曜日が大嫌いになりましたけど。でも、今は金曜日が大好きになりました」
「彼氏といい思い出を作ってるんだね」
「はい。彼と一緒に金曜日を楽しみにしています」
亨の新幹線の時間が迫っていたので、カフェを出た。葵の心の氷はきれいに溶けてしまって、ひさしぶりにすっきりとした気分になった。
*
ハソングンは応援団の練習に打ち込んでいた。その日は土曜日とはいえ、衣装の準備などもあり、練習は夕方終わった。いつもなら、仲間と一緒に校門を出るのだが、その日は思ったより遅くなったので、葵に一言電話がしたくて、公衆電話を使うために一人で校舎の中にいた。修がバッチャンコレクションの中から使いかけのテレホンカードをくれたのだ。使い方は修がすでに教えてくれていた。カードはどこかに旅行に行った人からのおみやげのようで、観光名所の写真がついていた。
「もしもし? 葵さん?」
「ハソングン、どうしたの? 何かあった? どこから電話してるの?」
葵が驚いていた。
「学校の公衆電話。この間、修にテレホンカードもらったから。今日は思ったより遅くなったから心配させちゃいけないと思って電話したんだ。それに早く葵さんの声が聴きたかった」
「ありがとう。うれしい。今日1日中、あなたのことを考えてた」
「俺も。練習に集中していない時は葵さんのこと考えてた」
「はやく帰って来てね。気を付けて」
葵は「はやく帰って来て」と言えた。
「うん。それじゃあ」
ガチャンと重い受話器を置くと、電話機がお礼を言ってカードを吐き出した。
電話を切ったハソングンが振り返った時だった。校舎の玄関から白髪交じりの紳士が入ってきた。彼は上質なスーツを着て、明らかに生地の光沢がちがう高級そうなネクタイをしめており、見た感じだけで、なにか高い地位についている人だとわかった。おそらくこの時間、この場所にいるという事は、理事長のお客様だろう。その紳士はピカピカに磨いた黒い靴をぬぎ、学校に備え付けられたスリッパをはき、顔を上げた。ハソングンは挨拶をしようと姿勢をただし、その顔を見て、心臓がつぶれるかと思った。その顔は忘れもしない、向こうの世界にいた頃、重臣のなかでも、もっとも口うるさかった
(領議政! なぜここにいるのだ?)
紳士もハソングンの姿をとらえたので、視線が合ってしまった。一瞬逃げようかと思ったが、紳士がすごい勢いでハソングンの方へ歩いてきた。目の前に立ち、口を開こうとしたので、ハソングンの方から先に斬りこんだ。
「そなた、なぜここにいる?! こんなところまで追いかけてきて、余の邪魔をしようというのか?!」
「学校に来ていたのか」
(こやつ、何のためにここへ?)
「なんだと? せっかくここへ来てそなたから解放されたというのに、こんなところまで追いかけて来るとは。帰れ! ここにいる時くらい、余を自由にしてくれ!」
紳士も負けなかった。
「ふざけているのか? なんだその口のきき方は! それになんだ! その髪は!」
ハソングンは長い髪を後ろでひとつに束ねている。一応校則に髪型の規定ははっきりとは書かれていない。
「何が悪い? まわりに合わせなければいけないとでもいうのか? ここは治安がいいし、自由だ。だからはっきり言おう! そなたの干渉は以前から目に余るものがあった! 余の思いを理解しようとしたことが、一度でもあったか?」
日頃のうっぷんが一気に爆発した。
「私がお前のことを考えていなかったとでも?」
「そうだ! 口うるさいし、何を言っても反対して、何一つ、余がやりたいことをさせてくれなかった! 古い慣習にとらわれすぎだ! 時代に合わせて柔軟になるべきだ!」
「私はお前のために言っているのだ。今までしてきたことはすべてそうだ。お前が幸せになるように……」
「余の事はどうだっていい! 民の暮らしが最優先だ! それに、さっきから余のことをお前よばわりするとは! 命が惜しくないようだな、領議政!」
「それなら、海斗と呼ぼう。海斗、母さんが言うとおり、韓流ドラマの見すぎだ!」
「好きなことをして何が悪い!(え? 海斗って呼んだ! 母さん? 誰の?)」
じり……と紳士が近づいてくる。
「20歳までは私たちには育てる義務がある。親が子を思わないわけがないだろう? 誤解を生んでいたとしたら、謝る。だから、父さんを無視しないでほしい」
(父さんだって? この人、領議政じゃない! ……そうか! しまった! 多分、この人は本物の海斗のお父さんだ! なぜ俺が偽物だと気づかない? まさか俺と海斗は……! とりあえず、ここを離れなければ! このままではまずい!)
形勢逆転。
「俺は、こんなところで言い争いたくない! 続きは家だ! 父さんが謝るところから始めてくれ!」
(俺、何言ってんだ? まあいいや。後は本物の海斗に任せよう!)
ハソングンは足早にその場を去った。
*
北条家。学校で理事長との用事を済ませ、父が帰ってきた。すぐに2階へあがって、海斗の部屋のドアをノックした。
「海斗、海斗、父さんだ」
母が慌てて止めに来た。
「ちょっと待ってください。今寝てるんです。無理に入って、またこじらせてはいけないから、起きるのを待ちましょう」
「そうか、そうだな」
「この子は起こしても簡単には起きないのですが、12時ごろになったら自分で起きます。それまで待ってもらえませんか?」
父は、12時ごろ、海斗が動き出すのを待つことにした。
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