第22話 ハソングンと呼んで

 その日の夜も、翌日の授業の準備を終え、葵が2階に資料をおさめて1階に降りてくると、海斗が夕食を作る姿が目に入った。葵はソファに座り、ぼんやりと海斗を眺めた。


 自分のために夕食を作ってくれている海斗はかわいい。葵にとって海斗は何なのだろう? 彼はどうして未来に来てしまったのだろう? 元の世界では王様だった。何でもしてもらえる立場だったのに、このままでいいのだろうか? また行ってしまうのではないのか……。


 海斗が手を洗っている。かわいい。何をしていてもかわいい。


 作業をする海斗の姿を見ながら思い出した。13歳の小さな海斗が料理をしてくれたこと。興味津々だったこと。あの時は1週間ほどでいなくなってしまった。今度はいつ行ってしまうのだろう? 前と同じ時間しかいられないなら、その期限は……明後日だ。そう思うと、まぶたが熱くなってきた。


「先生、もうちょっとでご飯だよ」


 海斗が葵の方を見た。葵は手で目をこすったが遅かった。海斗に見られてしまった。


「どうしたの? 先生、泣いてるの?」


 海斗が心配そうに聞いた。


「俺がいなくなるんじゃないかって心配してた?」

「どうしてわかるの?」

「最近、俺も同じこと考えて淋しくなることがあるから」


 葵はその言葉に、余計に涙がこぼれてしまった。止まらない涙を手でぬぐい続けていると、海斗がティッシュを持ってきてくれた。


「もし、前と同じ期間しかいられないとしたら、明後日帰ってしまうことになるね」


 それまで下を向いて涙を拭いていた葵が、顔を上げると、いつもは笑顔の海斗が淋しそうな顔をしていた。海斗は大きくなった。体だけではなく、精神的にも包み込んでくれるような大きさを感じる。


「先生、俺なりに考えたんだけど……」


 海斗が葵の隣に座り、まっすぐに葵の目を見ていた。


「12歳の俺が向こうに帰っちゃった時は、その直前に母上に会いたくなっていた。本当に、真剣に帰りたいと思った。そしたら、元の世界に戻ったんだ。逆に向こうの世界にいた17歳の俺は、大妃様に結婚しろと言われて心から嫌だと思った。その時、先生に会いたいって思ったら、こっちへ来てしまったんだよ。」


 海斗が葵の右手を両手で握った。葵の鼓動が跳ねた。


「だから、これは仮説だけど、俺の意志が大きく影響しているんじゃないかと思うんだ。今は先生のそばにいたいから、まだ過去へは帰らないと思う。だから、泣かないで」


 海斗がティッシュを取って涙を拭いてくれた。その時、不安定だった葵の心が一つの方向に流れこんだ。


(海斗、大好き)


 その気持ちを葵は以前のように簡単に言葉に出せなかった。13歳も年下の、しかも今は自分の生徒である海斗。どういう意味で好きなのかも、はっきりわからなかった。とにかく、変に思われたくなかった。海斗の母は、15歳で兄を生んでいる。彼の時代では、葵と海斗はほとんど親子くらいの年齢差である。王宮の外で育ち13歳で母を失い、王の養子になった彼が、窮屈な王宮を出て、安全な現世で葵に母性を求めるのも無理はないのだ。


「ごめんね。心配させちゃったね」


 葵はできる限りの笑顔を作った。それを見た海斗も笑顔になって言った。


「きっと大丈夫だから……一緒にいる時間を楽しもう」


 一緒にいる時間……葵には心地よい響きだった。そして、初めて会った日のことを思い出していた。


「こっちに来たの、12歳の時だったね。ハソングン、かわいかったなあ」


 葵が懐かしむように天井を見ると、海斗が葵の右手を両手で握った。


「ねえ、先生!」

「なあに? どうしたの?」

「あのね、今、ハソングンって言ってくれたでしょ?」

「うん」


 葵は戸惑いながら返事をした。


「すごくうれしかった。俺、先生にはハソングンって呼ばれたい。それが本当の自分って気がするんだ。『王様』でもなく、『海斗』っていう他人の名前でもなく、先生にはハソングンって呼ばれたい」


 そう言いながら葵の手を握ったまま左右に振った。


「いいよ」(海斗、かわいい! かわいすぎる)


 手がピタリと止まった。


「じゃあ、ハソングンって呼んでね」

「いいけど、あなただけじゃ不公平だな。私も……私の名前で呼んでほしい」


 葵はかなり思い切って言ってみた。


「そうだね。先生って呼んだら、よそよそしいよね。じゃあ、二人だけの時は、葵さんって呼んでいい?」

「いいよ」

「やったあ! 葵さん!」


 ハソングンはご機嫌でキッチンへ行ってしまった。葵はドキドキしていた。二人だけの時は……二人だけの時は……。そのフレーズが葵の心の中で何度もこだました。



 あれから、学校での海斗の人気はどんどん上がっていった。しかし、誰も春奈と愛梨をだしぬくようなことはしなかった。


 その日の放課後、海斗は修がクラス委員の用事で職員室へ行ったので、彼を待つために教室に残っていた。普通だったらいつまでもそばにいるはずの愛梨と春奈が、チアの練習があると言って早めに教室を出て行った。二人がいなくなったのを見届けて、いつもは控えめな女の子たちが2人、海斗のそばに寄ってきたので、海斗から声をかけた。


「今日はめずらしいね。あの二人が先に出ていくなんて」

「あの子たち、チアリーダーだから、体育祭の練習に力を入れ始めたんじゃないかな? 3年だから、今年最後だし」


 体育祭は5月末の土曜日に行われる。


「チアリーダー?」


 海斗はよくわからなかったがそこはとりあえずスルーすることにした。


「それにしても、平田さん、よくあの二人に許してもらったね」

「本当に。あの子たちににらまれたら、この学校じゃあ生きていけないもの」


 二人の女の子は恐ろしそうに話した。


「どうして? 教えてくれる?」


 その二人は顔を見合わせ、話し始めた。


「あのふたり、応援団でしょ?」


 海斗は、チアリーダーが応援団だと理解した。


「うん」

「この学校を牛耳っているのは応援団だと言っても過言ではないの。人数も多いけど力も強大。愛梨はチアのまとめ役で、春奈がそのサポートをしてるわ。二人は幼馴染なの。しかも応援団長は、愛梨にぞっこん。」

「応援団って、運動部の応援に行くでしょ? この学校の、野球部とかラグビー部とか、特に強くて人数の多いクラブに顔がきくっていうか、運動部のほとんどみんな、団長に頭があがらない。まあ、団長が信頼されてるからなんだけど。吹奏楽部も一緒に応援するから、吹奏楽部もね。応援団自体も、大きな組織なの」

「すごいネットワークができているわけか」

「そう! それで、団長に好かれてる愛梨と、その幼なじみの春奈に目をつけられて応援団を敵に回すと、この学校では生きづらくなる。まあ、怖いのは春奈の方なんだけど……。だから、平田さんがいじめられてもみんな見て見ぬふりをするしかなかったの。申し訳なかったと思ってる」


 その子は本当に後悔しているのがよくわかった。もう一人もうなずいていた。


「まあ、仕方ないよな」


 海斗が苦笑いした。


「だから、北条君って本当にすごい! あの二人の目を見事にそらして平田さんを救ったでしょ? あれからいじめはなくなったもん」

「俺があの二人の目をそらしてるって感じたの?」

「うん。女の観察眼を甘く見ちゃだめよ」

「君たちすごいな」

「とにかく、助かってよかった」


 その時、修が戻ってきた。


「君たち、ありがとう。また教えてね」

「ええ! 私たち、いつでも力になるわ」


 二人は嬉しそうに手を振っていた。


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