第15話 氷点下30度の花

「ごめん、待たせたね」


 とおるは相変わらずかっこいい、いや、美しいと表現した方がいい。神様は時々芸術的な人間を作られるものだ。


 ワインで乾杯し食事をしながら、亨が高3で葵が高1の時の定期演奏会の話で盛り上がった。この演奏会では亨のソロがたくさんあった。


「先輩が吹いてる姿って、本当にかっこよかったです。楽器を置いて、首にストラップだけかけてるのも素敵でしたけど……」

「葵ちゃんは細い身体で、いい音を出していたよね」


 覚えてくれていたことがうれしかった。亨といると、自分もきれいになったような気がして幸せだった。料理も申し分ない味だった。


「亨先輩は普段何をしているんですか?」

「俺? 今は家と仕事の往復かな」

「お休みの日は?」

「うーん、そうだな。家にいることが多い。疲れてるから、休んでる」

「亨先輩がゴロゴロしてるところ、想像できません!」

「俺だって、人間だからね。ハハハ」


 本当は、映画や美術館に一緒に行ってみたかったが、言えなかった。


「お仕事、お疲れ様です」

「葵ちゃんはホントにいい子だね。俺を気遣ってくれて、絶対わがままを言わない」


 そう言われると、ますますどこかへ連れて行ってなんて言えなくなった。


「先輩が元気でいてくれたらそれでいいです」

「ありがとう。あ、もうこんな時間だ。そろそろ出ようか」

「はい」


 亨は、葵が化粧室に行っている間に会計をすませていた。そんな亨の行動の一つ一つが葵の心をあたためていった。


「あのホテルの52階にあるバーに行かない? 夜景がとてもきれいだから、葵ちゃんに見せたい」


 あまり遅くならないように帰りたいが、52階から見える夜景にひかれた。


「じゃあ、1杯だけ。今度は私にごちそうさせてください」


 二人は超高層ホテルに入って行った。このホテルの、この素敵なロビーに亨といる……美しいシーンだと思った。


 52階のバーから見える夜景は葵が今まで見たどんな風景よりも美しかった。フロア全体に広がる大きな窓の向こうに広がる宝石の海を見ながら、夕日のようなカクテルで乾杯した。

 席を立つとき、手を差しのべてくれた亨は王子様そのものだった。


 エレベーターが開いた。二人以外に乗る人はいなかった。葵が長身の亨を見上げると、亨はにっこり笑いかけてくれた。完全にドラマのヒロインだった。


 エレベーターの扉が閉まり、閉ざされた空間に二人だけになると、なぜか葵の緊張感が高まった。亨が押した行先階のボタンはロビーではなかった。次の瞬間、亨が葵を抱きしめた。彼は葵の耳元でささやいた。


「部屋をとってあるんだ。朝まで葵ちゃんと一緒に過ごしたい」

「私、早く帰らないと……」

「我慢できない」


 熱い吐息。亨がさらに葵を引き寄せ、体がぴったりと密着した。唇が……。


「いや!」


 葵は亨の腕をふりほどき、エレベーターのボタンを片っ端から押して扉が開いたところで飛び出し、走って逃げた。亨は追いかけてこなかった。


 やってしまった。なんて失礼なことを……。でも、体が拒否していた。なぜ? あんなに素敵な先輩なのに。私は亨先輩が好きなはずなのに。

 とりあえず、亨にお詫びのメールを送った。何と言っていいかわからず、ただ、「ごめんなさい」の一言だけだった。

 この気持ちをどう処理すればいいのだろう。でも、どう考えてもあのまま一緒に朝を迎える気にはならなかった。それだけは間違いない。みんなが素敵だと騒ぐから自分も好きだと勘違いしていたのだろうか? 帰りの電車で考え続けた。




 翌日、葵は部屋にひきこもって、何をするでもなく、昨日のことを思い出しては時折奇声を発していた。お昼頃、亨からメールが来た。


『ごめんね』


 向こうも一言だけだった。少し、気持ちが軽くなったが、本当の気持ちはどうなのか、探り始めると、また辛くなってきた。葵は何と言っていいかわからなくて、ついにメールを送り返すことが出来なかった。それからもずっと、亨からメールはこなかった。


(私が送らないから、もうメールが来ないだけなのかな? それとも、嫌われた? やっぱり男の人って、やらせない女はいらないのかな? 私は本当に先輩のことが好きなのかな?)


 同じことをぐるぐると堂々巡りで考えて、落ち込んだり立ち直ったりを繰り返しているうちに金曜日が来た。いつものように携帯を何度も見てしまった。


(金曜日なんて大嫌い)


 夕方まで待ってもメールは来なかった。そうしているうちに、だんだんどうでもよくなってきた。


「恋愛って面倒。もういい」


 夕食を食べても、味がよくわからなかった。食べることで気を紛らわそうとしたが、むしろ食べることが苦痛だった。そんな葵の気持ちなど知るはずもなく、弟の恭介が言った。


「姉ちゃん、忘れてないよね? 鉄道博物館に連れて行ってくれるんだよね?」

「もちろん、忘れてないよ」

「じゃあ、明日連れてってよ!」


 なぜ、このタイミング、と言いたいところだが、このままモヤモヤとした気分で家にいても腐ってしまう。


「わかった。明日行こう」

「やったー!」


 久しぶりに恭介と二人で電車に乗った。鉄道博物館は2年前にできたばかりだ。開館してすぐは人が多いからと言って、ずっと恭介を待たせてしまったので、さすがに今回は断れなかった。


 鉄道博物館の入り口を入ると、広くて天井の高い空間に、たくさんの実物の車両が展示されており、見ごたえがあった。あまり期待していなかったのに、なつかしい車両もあり、思いのほか葵も楽しめたので、気が紛れた。恭介は車両の一つ一つに乗って車内を楽しんでいた。運転席を模したシミュレータのコーナーに行くと、既に子どもたちの列ができていた。恭介がやりたいと言ったので、新幹線のシミュレータの列に並んだ。


「かなり待つようだけど大丈夫?」

「どうしてもやりたいから待つ!」


 列の最後尾に並んでいると、走ってきた小さな男の子が、葵のすぐそばで転んだ。


「大丈夫?」


 4歳くらいの子だった。両脇を持って助け起こした。


「だいじょうぶ。ぼく、もうすぐおにいちゃんになるから、なかないんだ!」


 一生懸命我慢している様子がいじらしかった。


「僕、えらいねえ」


 葵はその子の頭をなでてやった。目がぱっちりした、かわいい子だった。


「すみません!」


 慌てて追いかけて来たのか、息を弾ませた男性の声が、聞こえた。


「パパ!」


 男性の声にドキリとして葵が振り返ると、男の子がパパと呼んだ相手は……亨だった。


 男の子は亨の長い足に抱きついた。


「パパ、ぼく、なかなかったよ! おにいちゃんになるんだもん」


 葵は声を失った。


(今、パパって言った?)


 心臓が破れそうなほど、ガンガン鼓動を打っていた。なぜ? なぜ、パパなのだろう? しかし、この子や恭介に動揺しているのをさとられたくなかった。


「僕、えらかったね。いいお兄ちゃんになれるよ。気を付けてね。ばいばーい!」


 葵はその時にできる最高の笑顔を男の子に送った。この子に罪はないのだ。


(お願い! どこかへ行って!)


「ありがとうございました」


 亨は他人のふりをして去って行った。向こうからお腹の大きな女性が笑顔でゆっくり歩いてきて、2人と合流した。葵はこの一撃を受けて、氷点下30度で凍った花を握りつぶすように、はかなく砕け散った。その女性は、おそらく亨より年上だ。いったいどういう事なのか、本当のことを知りたかった。

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