第14話 一日一通

「かすみ先生、私にもついに春が来ました!」

「おめでとう~葵ちゃん。『天然記念物』は返上ね~」

「まだ『天然記念物』ですよ……って、あいつが言った言葉を使うのもしゃくだけど」

「お相手は~?」

「亨先輩です。まだ夢を見てるんじゃないかと思ってます」

「あの高校の時の憧れの超カッコいい先輩~? すご~い! もし夢だったら、覚める瞬間、残念すぎて立ち直れないよ~!すごいね~」

「ドッキリだったらどうしよう」

「何言ってるの~。現実でしょ~? 幸せをかみしめればいいのよ~」

「そうですよね。せっかく幸せなんだから」

「お祝いに、紅茶で乾杯しようか~」

 かすみがとっておきの紅茶を入れてくれた。とてもいい香りが保健室を包んだ。

「これ、おいしい!」

「葵ちゃん、これ、好き? お祝いよ。持って帰って~」

「ありがとうございます」



 新1年生が入学し、新学期が始まった。桜の花がいつもよりきれいに見えた。


 亨とは今までどおり、昼休みにメールが来て葵が返信するという、1日1通のメール交換が続いた。今日あったことや、ニュースの感想などが、主な内容だった。


 亨はかなり仕事が忙しいらしく、いつも電話やメールを頻繁にできないことをわびていたが、その気遣いがとてもうれしかった。翌々週の金曜日の夕方にも、突然メールが入り、一緒に飲みに行った。吹奏楽コンクールや、合宿の話で盛り上がった。


 それからは、葵は金曜日の午後になると、他の日よりも携帯を頻繁に見るようになった。時間が遅くなるにつれ、何度も何度も携帯を開いては、画面が焼け焦げるのではないかというくらい見つめてため息をつき、、メールが来なかった日は落胆したまま眠りについた。しかし、誘いがあった日は、そんなつらさも吹き飛んで、ヒロインになれた。




 ゴールデンウィークの4連休、亨は親戚の行事で、県外に出ると言っていた。さびしかったが、彼氏のいないゴールデンウィークよりはましと思うことにした。


 当時4年生だった弟の恭介に鉄道博物館に連れて行けとねだられたが、人が多いし、気分がのらないので、また今度連れて行く約束をし、連休はずっと家で本ばかり読んですごした。亨からは連絡が来ないとわかっていたので、意外にも心は安らかだった。




 5月のある日のことだ。その頃は、葵はまだ車を買っていなかったので、バスで通勤していた。いつもは早めに出るのだが、その日はいつもより遅いバスになってしまった。ちょうど混雑する時間帯で、座ることはまず無理だ。しょうがなく、吊り革を持って立っていた。かなり混んでいて、窮屈だったせいか、後ろに立っている、多分中年と思われる男が、背中に覆いかぶさるように密着していた。それは、混雑のせいなのか……それにしても、背中全体に体温を感じた。


(まさか、痴漢じゃないよね?)


 触られているわけではなかった。混雑のせい、といえば、そうかもしれない。しかし、葵は明らかに不快だった。よけようとして前に寄っても、男は更に前に出るだけで、むしろ葵の体制が苦しくなった。


(これは、絶対おかしい)


 確信できた時は、少し時間がたっていた。そして、次のバス停が近づいてきた頃、その男が葵の腰にげんこつのようなものを押し当ててきた。驚いて、声が出なかった。その時、バスのドアが開くと、男は人ごみをかき分けて降り、走って逃げて行った。怖くて顔を確認することもできなかった。


 学校についてすぐ、葵は保健室に駆け込んだ。


「かすみ先生!」

「どうしたの~? 葵ちゃん、何かあった~?」

「痴漢にあった! あれは、絶対痴漢!」


 葵は朝の通勤バスでの出来事を、かすみに詳しく話した。しばらくの間、本当に吐き気がしていた。汚れてしまったような気がした。亨にはそんな自分を見せたくなかったので、メールでは、たわいもない会話をした。亨のカッコよさで、何もかも打ち消したかった。




 5月最後の金曜日の夕方、待ち焦がれたメールが来た。


『今日、会える?』


「やったー!」


 ふたりで食事に行くことになった。


 授業が終わってすぐ家に帰れば、約束の時間までに着替えて出かけることができる。葵は急いで家に帰った。このころはまだ実家暮らしだったので、おしゃれしていそいそと夕方から出かけていく娘を、母は喜び半分、心配半分で見ていた。


「葵、遅くならないように帰ってくるのよ」

「うん、わかってる。この前だって早かったでしょ?」

「そうね。気を付けてね」


 待ち合わせは、個室のあるイタリアンレストランだった。また、葵の方が先についた。


「予約している高見です」


 葵はこの瞬間が好きだった。

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