第18話 地味女
木曜日の4時間目は、3年2組、海斗のクラスの世界史の授業だ。3年2組の教室の前に来ると、まだチャイムが鳴っていないので、廊下で遊ぶ男子生徒や、隣のクラスの子とおしゃべりする女の子たちがいた。
葵が廊下から教室の中をのぞくと、彩が海斗に何か話しかけているのが見えた。二人の席は隣同士で、海斗は彩にフォローしてもらっていると聞いた。海斗が楽しそうに笑った。
チャイムが鳴ったので、葵は教室に入った。黒板の前に立つと、生徒たちの視線が集まった。その中でもなぜか海斗の視線を一番感じてしまった。この人数の中にいても、海斗はひときわ輝いている。彩が何やら世話を焼いているのが見えた。
生徒たちの多くは下を向いて授業を受けていたが、海斗はずっと、まっすぐ葵の方を見ていた。
今日やっているところは何度も授業をしているので、特に問題ないはずだが、妙にやりにくかった。とにかく淡々と授業を進めることに集中した。
「先生~、今日は朝鮮王朝の話はしないの?」
一人の男子が声を出した。教室はどっと笑い声につつまれてしまった。葵が今日は雑談をまったくはさまないので、いつもと違うと気づいたのだろう。ふと、海斗を見ると、にっこり笑っていた。それから、何をしゃべったかあまりよく覚えていないが、なんとか授業を終わらせた。
チャイムと同時に教室を出た。ふり返って教室の中を見ると、また彩と海斗が話しているのが見えた。それは普通の高校生の男女らしい光景だった。自分だけ、別世界に置き去りにされたような気がした。
「かすみ先生!」
葵は昼食を済ませた後、保健室を訪れた。
「あ~! 葵ちゃん、海斗君のクラスの授業、どうだった~?」
「なんだかすごく緊張した」
「もうすぐ5時間目だけど、授業ないんだっけ?」
「うん」
「紅茶もらったの。入れるね」
「ありがとうございます!」
かすみがポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐといい香りが広がった。
「やっぱり、高い紅茶は違うわね。ところで、葵ちゃん、その後どうなの? うまくやってる?」
「はい。彼はハソングンのままです。もうかわいくてかわいくて」
「よかった。男アレルギー、克服できそうね」
「そんなんじゃありません。恭介がもっとかっこよくなったみたいな感じです」
葵は紅茶に砂糖とミルクを入れて、スプーンでぐるぐるかき混ぜた。
教室では海斗と修が話していた。
「修、世界史っておもしろいなあ」
「海斗も好きか? そうかそうか、目覚めたか。明日、クラブ来るだろ?」
「行くよ! 明日は何見るの?」
「今月は彩が担当だから、聞いてみよう。あれ? 5分前行動の彩が帰ってない。もうすぐチャイムが鳴るよ」
「ほんとだ。いつも早くから準備して座ってるのにおかしいね」
「英語の川本先生を誰よりも怖がってるのに、変だな」
その時チャイムが鳴った。まだ先生は来ていないので、生徒たちはザワザワしていたが、海斗の耳に以前と同じようなささやき声が聞こえてきた。
『ちょっとやりすぎじゃない?』
『ついカーッとなって……まだトイレかな』
その時、生徒に怖がられている英語の川本先生が教室に入ってきたので、あっという間に教室は静かになった。彩はまだ帰ってこない。海斗は例の二人の方をふり返った。なんとなく嫌な空気を漂わせているのが分かった。以前、彼女たちのどちらかが、彩を地味女と呼び、悪口を言っていた。彩に何かしたのかもしれない。海斗は、先生がこちらに背を向けて板書を始めた時、そっと教室を抜け出した。幸い、騒ぎ立てる生徒はいなかった。不登校の生徒という事で、みんなも気を使っていたのだろう。
「トイレって言ってたな」
海斗は女子トイレの扉の前に立った。男の海斗が女子トイレをのぞくのはあまりいい気分ではなかったが、今は非常時だ。外の扉をノックし、そっと開けてみた。
「彩~。いるか?」
6つ並んだトイレのうち、ひとつ扉が閉まっていて、そのあたりだけ、床が水浸しになっていた。
「海斗君? 助けて!」
半泣きの声が聞こえてきた。海斗が慌てて入ると、個室のドアが開き、中からびしょ濡れの彩が出てきた。前髪が顔にぺったりとはりつき、泣き顔だった。
「どうしたんだ?」
「トイレに入ってたら、上から水をかけられた」
「卑怯なやつらだ! 身に覚えはあるのか?」
「……」
聞かなくても海斗にはわかっていた。彩が自分と親しくしていることをねたんでのことだ。きっとあの二人だ。いや、声の感じからすると、やったのはどちらか一人かもしれない。
「ここで待ってて。かすみ先生を呼んでくる」
海斗が走って行った。
「かすみ先生!」
叫ぶような声とともに保健室の扉が開いた。紅茶を飲んでいた葵とかすみは驚いて同時に扉の方を見た。それは息を切らせて入ってきた海斗だった。
「あ、先生! 彩がトイレで水をかけられてずぶぬれなんだ! そのままじゃあ出られなくなって……」
「誰かにいじめられたの?」
「うん。俺のせいだ。先生、助けて! タオルと着替え、ある?」
「あるよ~」
かすみがテキパキとタオルと着替えを出してくれた。
「かすみ先生、私が行く。今日は生徒が寝てるんでしょ?」
「あ、助かる~。海斗君に下着持たせられないしね~。バスタオル、2枚あるから~。プールのシャワーを借りるといいよ~」
「わかった。かすみ先生ありがとう!」
葵は海斗の後について、女子トイレに行った。中から泣き顔の彩が出てきた。
「彩ちゃん、もう大丈夫よ。海斗、教室に帰っていいよ」
「でも……」
「大丈夫。任せて」
「わかった」
海斗は心配そうにふりかえりながら教室に帰って行った。
「大丈夫よ。プールのシャワーを借りましょう」
朔陽高校のプールは温水プールで季節に関係なく練習ができ、シャワーも温水が出るのだ。葵はテキパキとかすみにもらった1枚目のバスタオルで水を拭きとり、彩をプールへ連れて行った。彩は温水を浴びて全身を洗った後、かすみが用意してくれた服に着替えた。
「保健室で休む?」
「はい」
保健室に行くと、かすみが温かいココアを入れてくれた。
「寒かったねえ~」
「はい、ありがとうございます」
かすみは葵にも入れてくれた。甘さが心までしみわたるようで、とてもおいしかった。かすみはこれまでも保健室でいろんな生徒の相手をしてきたので、慣れたものだった。
「彩ちゃん、大変だったね~。言いたくなかったら言わなくてもいいけど、何があったのかな~?」
「トイレに入ってたら、上から水をかけられました」
「誰かはわかるの~?」
「それがよくわからなくて……。声色を変えて『地味女、北条君に近づくな』って言われました」
「それって、ねたみね~? 海斗君のフォローをしてるからかな~?」
「先生、海斗君には言わないで!」
「でも、いいの?」
「海斗君には心配をかけたくないんです」
「そうなのね~。でも、海斗くんと話さないつもり~?」
「それはいやです」
「そうよね~? でも、また何かされないとは限らないし~」
「私、我慢します。っていうか、犯人を突き止めて戦います」
「仕返しするつもり~?」
「はい」
「それは泥沼になるからやめたほうがいいよ」
葵が声を出した。
「葵先生、私、同じ思いをさせないと腹の虫がおさまりません!」
その時5時間目終わりのチャイムが鳴った。
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