第35話 貴人様、感謝しております

 葵は久しぶりにあの夢を見た。雨の中ずぶぬれになって何かから逃げる夢だ。


貴人クィイン(王の側室の称号で階級は八つのうち上から二番目)様、申し訳ございません。もうしばらくお待ちくださいませ」


 外は小雨だった。葵は輿こしのなかにいた。輿が動かなくなってどのくらいの時間がたったのだろう。外がさわがしかったのに、足音が去って行き、聞こえる声が少なくなった。


 輿の窓が開いた。そこには四十代くらいになったハソングンが立っていた。少し白髪がまじり、ひげを蓄えている。


「貴人よ、すまない。よくここまでついてきてくれた。これよりは、そなたたちの安全のため、別々に逃げよう。そなたたちは迎えが来るまで、あの寺にかくまってもらうのだ。従者の多くが逃げてしまって輿の担ぎ手もいなくなった。申し訳ない。余を許してほしい」


 葵は輿を降りた。糸のような雨が二人に降り注ぐ。


「嫌でございます。王様は私をおそばに置いて、一生愛してくださると誓ってくださったではありませんか。死ぬ時も一緒でございます。どうか、私を連れて行ってください」

「余はそなたにつらい思いをさせたくないのだ。敵は近くまで迫っている。この先、どんな危険にさらされるかわからぬぞ。それでもついてくるというのか」

「はい。私は死んでも、王様とともにまいります」


 王は葵を強く抱きしめた。


 二人は残った従者とともに雨の夜道を歩いた。雨はどしゃぶりに変わった。暗くて寒くて、恐怖に押しつぶされそうになりながら、必死に歩いた。歩きなれない葵の足はすぐに痛み始めた。




 目が覚めた。夢。いつも見ていた漠然とした夢が、細かいところまでリアルで、まるで現実のようだった。


「ハソングン……」


 葵が「王様」と呼んだ人は40歳くらいだったが、間違いなくハソングンだった。



 月曜日は体育祭の代休だった。葵は休みであることに感謝した。目が腫れて、外に出られるような状態ではなかった。


 葵は、ハソングンに読まれないように隠していた本を、押し入れから出した。朝鮮王朝歴代の王について書かれた本。彼が生きた時代のページを開いた。


河城君ハソングン


 彼の名前の文字を指でなぞった。


 王妃や側室の名がずらりと並んでいる。彼は11人の女性を妻にしていた。葵はハソングンのこれからの人生を想像し、どろどろと湧き上がる嫉妬に耐えられそうになかった。こんな思いをするなら死んでしまいたいくらいだった。


「やっぱりこれは見ない」


 再び、その本は押し入れにしまった。自分とは決して結ばれない人。きっと、もう二度と会えない人。果たして立ち直れるのだろうか。押しつぶされそうな気持で、長い一日を過ごした。


 夜になると、また大輔からメールが届いた。ハソングンは大輔と結婚することを許すと言っていたが、今は何も考えられなかった。


 翌日はなんとか学校へ行ったが、空席になったハソングンの席を見るのがつらかった。一日、何をしていたのか覚えていない。保健室へ行って話すことすらつらくて、早々に帰宅した。


 その夜のことだ。修から電話があり、北条海斗の父親が頼みがあるそうだから、電話がかかってきたら聞いてくれと言われた。少したってから、本当に電話がかかってきた。


「突然のお電話申し訳ございません。この度、息子の海斗が、歴史の先生にどうしても家庭訪問をしてほしいと申しておりまして……息子は歴史に大変興味を持っているのです。ご承知の通り、息子は不登校で……あの子の方からこのような意志を示したことが今まで一度もなかったものですから、この機会が学校に行くきっかけになったらと、親としては祈るような気持ちでおります。榊原君から杉浦先生は大変すばらしい先生だとうかがっております。海斗のクラスを担当していらっしゃるとか……。大変申し上げにくいのですが、金曜日の午後、我が家に来ていただけないでしょうか」

「私でよければ、行かせていただきます」

「ありがとうございます。仕事の都合で、私が金曜日でないとこちらに帰れないものですから……海斗がどうしても私に同席してほしいというもので。それではよろしくお願いします」


 海斗の父は渋い声でとても丁寧な口調の紳士だった。北条海斗という名前を聞くだけで胸が苦しくなる。しかし、ハソングンが名前を借りてお世話になった彼の頼みなら、聞きたいと思った。修が言っていた。ハソングンの残した足跡の後始末をしなくてはいけない。それは葵にしかできないと言っていた。そして、それはハソングンからの最後の頼みだった。



 いよいよ金曜日がやってきた。もう、目は腫れていない。北条家の人には初めて会う。きちんとした服装を選んだつもりだが、大丈夫か気になった。北条海斗の父はかなりの力がある人らしいという事と、北条海斗と父の関係は相当こじれている事は4月の時点で修から聞かされていた。自分で役に立てるのか怖かった。


 北条家は葵の想像以上に立派な家だった。


「素敵なおうち……」


 インターホンを鳴らした。北条海斗の母が出て、門が自動で動きだした。玄関の扉が開き、優しそうな母が迎えてくれた。中に入ると、そこは葵の寝室より広く、吹き抜けにらせん状の階段があった。案内された部屋は何畳あるのだろう? 大きなソファやグランドピアノが余裕で置かれ、見たことがないくらい大きなテレビがあった。そこに、北条海斗の父が立っていた。


「先生、今日はお忙しいところをありがとうございます」

「杉浦です。初めまして」


 そう言って北条海斗の父とお互いの顔をはっきりと見た時、ふたりとも驚いてしまった。


「先生は……」

「お父様は……」


 見たことがあった。初対面ではなかった。


「先生は私を知っていらっしゃるのですね?」

「お父様も?」

「違っていたら申し訳ありません。いや、言うべきかどうか……夢か現実かわからないほどあまりにリアルな夢なので……」

「おっしゃってください! 私も同じです!」

「先生も? それではおうかがいしますが、先生は貴人様でいらっしゃいますか?」

「はい、そうです! もしや、お父様は領議政ヨンイジョンのホン様ではございませんか?」

「はい、その通りです!」


 ハソングンがいなくなって以来、葵は毎日のように王朝時代の夢を見ていた。なんと、北条海斗の父は、その夢に出てきた人だ。


「貴人様は、私の息子を助けてくださいました。命の恩人です。心より感謝しております。」


 しかし、それは夢だ。いったいどういう事だろう? その時、二人の様子をうかがっていた北条海斗の母が手をあげてさえぎった。


「ちょっと待ってください」


 葵と父は母を見た。


「その助けてもらった息子、実は私なんですけど……」

「なんだと? 顔が全然違うぞ! 母さんは私の息子なのか?」

「はい。夢の中では私は男で……内禁衛(王の親衛隊)で、いつも王様のおそばで護衛をしていました。貴人様、お助けいただき、私も感謝しております」

「お母様があの護衛の……」

「いやあ、驚いた。母さんはテユンなのか? それで、王様は海斗だったか?」

「海斗でしたよ。私がいつも甘やかしすぎているからこんな夢を見てしまったのではないかと思っていました」


 海斗? 葵が見た夢ではハソングンだった。それじゃあ北条海斗は……ハソングン? 葵の心臓は早鐘を打っていた。


「あの……海斗君に会わせていただけますか?」

「ええ。会ってやってください」


 葵は二階に案内された。



「海斗、先生がいらっしゃったぞ」

「どうぞ」


 聞き覚えのある声。葵の目は既に熱くなっていた。


「それでは、よろしくお願いします」


 葵は震える手でドアノブを握りドアを開けた。父は葵が中に入ると階下へ降りて行った。

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