第34話 王様! そのお姿は!

 次の瞬間、ハソングンはなぜか体が空を切り、前のめりにバランスを崩し、床の上に倒れた。


「いてぇ……」


 状況が飲み込めなかった。体を起こし、あたりを見回した。そこは見慣れた懐かしい場所だった。天井が高くて広い廊下。装飾が施された、赤や緑の鮮やかな色彩の窓や扉。今、自分がこの大きな扉の中から出てきたのだとわかった。


「王様! 大丈夫でございますか⁈ そのお姿は……!」


 内官ネガン(王の身の回りの世話をする去勢された官吏)がハソングンのそばにかけよってきた。大勢の内官や女官たちがずらりと並んで視線を落とし、控えていた。どうやら元の世界に帰ったらしい。ここは、王宮だ。大妃テビ様の部屋の外。そうだった。1か月前、大妃様に、「妻はいりません! 充分です!」と叫んで、部屋を出ようと、扉を思い切り強く開けたのだった。あの時は次の瞬間、気づいたら視聴覚教室にいて、扉が急になくなったから、勢い余って前のめりになり、床に手をついたのだった。


 今、あの時に……扉を出たあの瞬間に戻ってきたらしい。よりによって某ファストファッションのルームウェア姿で。


(なんてタイミングだ。残された葵さんはどうしているだろう……きっと泣いている)


「王様! 今、お着替えをお持ちいたします!」


 内官たちが慌ただしく動き始め、大妃様付きの女官たちも慌てていた。尚宮サングン(側室をのぞく女官の最高位)がひとりの若い女官に指示をした。


「着替えが届くまで、王様をあちらの部屋にご案内しなさい」

「はい、尚宮様」


 聞き覚えのある声。ハソングンは今返事をした女官を見た。


「王様、こちらでございます」


 その女官は控えめにうつむき、歩き始めた。14~15歳くらいだろうか。まだ少女だった。


「そなた、ちょっと待て」


 ハソングンはどうしてもはっきりと顔が見たかった。


「はい、王様」


 少女は立ち止まり、素直に従った。


「顔を上げよ」


 その言葉に従い、ゆっくりとあげられたその顔を一目見た瞬間、ハソングンは息が止まりそうだった。似ているのは声だけではなかった。


(葵さん……! 見つけた!)


 30歳の葵が咲き誇る花のように美しかったのに対し、彼女は花開く前のつぼみをイメージさせる、清純な美しさだった。ハソングンは案内する少女の後をついて行った。目が離せなかった。


「こちらでお待ちくださいませ、王様」

「君……じゃなくて、そなた、しばらく余の相手をしてくれぬか?」

「承知いたしました。王様」


 少女に会うのは初めてだ。しかし、初めて会った気がしなかった。それは葵に似ているからではない。赤い糸で引き寄せられるべく魂に刻まれた記憶、と言った方がふさわしいかもしれない。少女とともにいるのが当たり前のような、まるで葵といるような不思議な感覚だった。見た目はまだあどけない少女なのに、清らかで包み込むような安心感は葵そのものだった。


 着替えが届いたので、少女を外で待たせた。ハソングンは内官たちに龍袍ヨンポを着せられ、すっかりもとの王の姿に戻った。そして、再び少女を呼び戻し、人払いをした。



「そなたには初めて会った気がしない」

「もったいないお言葉でございます。王様」

「そなたを芙蓉プヨンと呼んでもいいか?」


 芙蓉は、ハソングンが立葵と間違えた花。


「そのような美しい名前で呼んでいただけて光栄でございます。王様」


 14歳の芙蓉は初々しくとてもかわいらしかった。しかし、今泣いているであろう葵のことを思うと、苦しくなった。簡単に葵のことを忘れられるとは思えない。しかし、彼女が葵の前世ならば、きっとここから始まるのだ……ハソングンはそう思った。


 芙蓉は宮廷で育った娘だ。先の王の側室が、従姉妹である芙蓉を宮廷によび、育てていたのだ。美しくてよく気が付く芙蓉は、やがて先の王の王妃(現在の大妃)の目に留まり、女官となって今に至っていた。


 もうとっくに着替えていてもいいはずのハソングンが戻ってこないので、女官から事情を聞いた大妃が、自ら様子を見に来た。


「王様、ずいぶん睦まじくなさっていますね」


 大妃は二人の様子を見て嬉しそうだった。


「王様、私が王様の側室にとおすすめしていたのは、実はこの者だったのです」


 これを運命というのだろうか。ハソングンは自分でこじらせていた縁談が、今スムーズに進み始めたことを心から感謝した。




 芙蓉は側室となり、9人の子をもうけることになる。隣国に攻め込まれたとき、王がただ一人連れて逃げた妻が芙蓉だった。彼は11人の妻の中で、彼女を生涯かけて最も愛した。

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