第33話 思い出をたどり……

 体育祭は観客が多いため、葵は車を自粛し、久しぶりにバスで学校に来ていた。帰りのバスの窓から外を見ると、ハソングンが自転車で走っていた。いつもなら裏道を通るはずだが、今日は葵のバスを追いかけるようにバス通りを走っているのだ。


「ハソングン、疲れてないかな……?」


 まわりの視線が気になって手を振ることもできなかったが、葵はうれしかった。太陽は西に傾きかけていた。


「あ……」


 葵はあるバス停であわてて降りた。息を切らせて走ってきた葵をハソングンが見つけた。


「葵さん……どうして降りたの?」

「あなたにあの花を見せたかったから」


 そこは立葵の花畑の前だった。誰が植えているのか、毎年その狭い敷地一面に伸びる背の高い立葵が、今年は早くもたくさん花を咲かせている。


「とっても可愛い花だね。前にもどこかで見たような気がする。この花は、芙蓉?」

「花の形は似ているけど、これは立葵よ」

「綺麗だ……」

「私が生まれた時、立葵が咲いていたから、父が葵って名前を付けてくれたの」

「葵さんの名前……。葵さんみたいに凛としてまっすぐで、花がとても可憐だね」

「あなたにそのことを言いたくて……バスまで降りちゃって、私、変ね」

「そんなことはないよ。俺だって、毎日、葵さんに言いたい事や見せたいものがたくさんある。ただ、人目があるから、学校では絶対言えないけど……もしかして、もうすぐ誕生日?」

「6月22日」

「6月22日か……」


 二人は少し見つめあったが、すぐに視線をそらした。


「さあ、帰らないと。ここで誰かに見つかったらすべて水の泡だわ。私はまだ職を失うわけにはいかないから」

「ああ~葵さんを乗せて帰りたい!」

「いつかみたいに後ろに乗りたかったな。あの時は楽しかった!」

「さあ、行こうか」

「そうね。じゃあ、家で会いましょう」


 葵はバス停の方へ歩きはじめ、ハソングンは自転車に乗り、走り出した。



 その日の夜も、いつもどおりにすごした。


「ハソングン、今日は疲れたでしょう? 早く寝ちゃおう」

「そうだね。ぐっすり眠れそうだ」


 ハソングンはさっさと自分の布団にもぐりこんだ。


「ねえ、葵さん」


 ハソングンは横になり、ひじ枕をしたまま布団をめくり、自分の左側にあいたスペースをポンポンとたたいて葵に言った。


「10分だけ、こっちに来ない? 一度、腕枕をしてみたかったんだ」

「うん」


 ハソングンは台所から持ってきたタイマーに10分を打ちこんだ。


 その時、葵の携帯の着信音が鳴った。


「あ、メール……」

「誰だ? 邪魔するの。絶対大輔さんだよ」


 葵が携帯の画面を見た。


「当たり」

「毎日メールくれるんだね。いい人だ。大輔さんになら葵さんを渡してもいいかな」

「いやよ。 ハソングンがいい」


 葵はハソングンの横にもぐりこんだ。スタートボタンを押したハソングンが腕枕をしてくれた。


「葵さん、いい匂いがする」


 そのまま葵は抱きしめられた。


「ハソングンの匂い、好き」


 葵がハソングンの胸に顔をうずめていた。


「俺が初めてここへ来た時の事、覚えてる?」

「まだ12歳でかわいかった。いろんなものを初めて見てびっくりしてたよね」

「怖いくらいだったよ。何を見ても珍しかった」

「あなたの適応能力には本当に驚いたわ」

「あまり適応できなかったところもあるんだよ。ゲームセンターの音は苦手だったし、ドラッグストアのにおいも避けてた」

「この時代にいると、慣れちゃってるから、私にはわからないわ」

「ミルクティーがおいしいって思った」

「そういえば、初めての時、自動販売機を楽しんでたよね。あの時、自転車に乗れるようになったんだっけ」

「そうだったね。葵さんを乗せて走ったの、楽しかったな。みんなで見た桜もきれいだったなあ……でも、立葵の方がもっと好きだ」


 葵は顏が熱くなるのを感じた。ハソングンの背中に回した手にぎゅっと力を入れた。


「あのね、葵さんに話したいことがあるんだ」

「なあに?」


 ハソングンと葵は見つめあった。


「俺、そろそろ元の世界に帰ろうと思ってる」

「いやよ、帰らないで。ずっといて」

「もう決めたから」

「いや! おいしいミルクティーを毎日入れてあげるからここにいて」


 葵はハソングンの胸に額を押し当てた。


「葵さんて本当にかわいい」


 葵はハソングンを見た。かなわないと思った。それは決意に満ちた男のまなざしだった。


「きっと生まれ変わって葵さんの前に現れるよ。だから、待ってて」

「そんなの、本当に会えるかどうかなんてわからないわ」

「困ったな。俺が帰らないと、歴史が変わる」


 しばらく葵は黙って考えていた。


「……ちゃんと生まれ変わるって約束してくれる?」

「絶対生まれ変わって葵さんの前に現れる」

「もし、約束破ったら?」

「そうだな、1か月以内に現れなかったら、大輔さんと結婚することを許す」

「大ちゃんはそんなんじゃないから!」


 葵はハソングンの胸をたたいた。ハソングンは笑っていた。


「ほんとにかわいいなあ。葵さんは。でも、どうやって帰るかまだはっきりわからないんだ。もしかしたら急に消えるかもしれない。だから、聞いてほしい。もし、俺がいなくなったら、すぐにやって欲しいことがあるんだ」

「いなくなるなんて嫌」

「大丈夫。心配しないで。すごく大事だから、俺のためにちゃんとやって欲しい」

「……私にできる事?」

「簡単だよ。葵さんにしかできないから、すぐにやって欲しいんだ。可能な限り早く」

「あなたがいない生活なんて考えられない」

「本当に大丈夫だから心配しないで。葵さんは絶対不幸にならない。そのためにやるんだよ。俺の頼み、ちゃんと聞いてくれる?」

「……わかった……」

「いい子だ」


 ハソングンが葵の頭をなでてくれた。


「じゃあ、俺がいなくなったら、すぐ修に連絡して。俺がいなくなった後、すぐだよ。メールでいいから」

「やっぱり行かないで。あなたと一緒にいたい」


 涙がこぼれた。


「ごめんね。泣かせちゃって。でも、絶対大丈夫。葵さんを幸せにするから」


 ハソングンが葵の頬にそっとキスをした。


「葵さんは海の味だ」


 葵は小さく首を振りながらぽろぽろ涙をこぼした。


「葵さん、しょうがない子だな。これで、少しだけ我慢してくれるかな?」


 ハソングンは決意した。一度だけ。一度だけ許してもらったら、そうしたら向こうに帰ろう。


 ハソングンがゆっくりと葵の唇を求めた。葵は目を閉じた。


 唇が重なろうとした瞬間、葵を包んでいたハソングンのぬくもりが、すっ……と消えてしまった。葵が目をあけると、ハソングンはいなかった。そこには葵一人だけだった。甘い余韻に、悲しみの波が打ち寄せて、消し去られた。


「うそ! ……ハソングン?!」


 受け入れられなかった。なぜ? どうして? これから二人の時間をもっともっとつむいでいきたかったのに!


 ハソングンがかけたタイマーのアラーム音が無情に鳴り響いた。


 葵は泣いた。声をあげて泣き続けた。




 目の周りが痛くなるほど泣いた。頭も痛かった。ティッシュを何枚使っただろう。ふと目をあげると時計は午後11時30分をさしていた。ハソングンはできるだけ早く修に連絡しろと言った。


「こんな時間でも、メールなら大丈夫かな……」


 葵はすぐ修にメールした。涙でにじんで、なかなか打てなかった。


『ハソングンが消えてしまいました』


 それ以上の文章は考えつかなかった。待っていたようにすぐに返事が返ってきた。


『葵先生を絶対不幸にしないというハソングンを信じてください。また連絡します』


「泣いちゃだめだ。せめて、ハソングンの頼みはきちんとやり遂げてから泣こう」


 葵はそのままハソングンの布団に横になり、ハソングンのぬくもりを手の平で探した。


「今日は疲れていて良かった……」


 葵は泣きながら眠りに落ちた。

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