第29話 海の味

「ただいま」


 ハソングンが帰ってきた。葵は慌てて玄関に出た。


「おかえり! よかった、無事に帰って来てくれた」

「ごめんね、葵さん。こんな時間まで心配させちゃった」


 ハソングンはできる限りの笑顔を作った。もう日は傾きかけていた。そのまま葵は何も聞けなかったし、ハソングンも何も話そうとしなかった。



 その夜、ハソングンは自分の布団を、あんなに嫌がっていた本の部屋に持って行った。


「ハソングン、どうしたの? 怒ってる?」

「違うよ。葵さんは何も悪くないよ。俺がそうしたいから、運んでるんだ。もう怖くないし、ゆっくり本を読みたいんだ」


 葵は、布団を運ぶ、彼の冷えた背中を見守ることしかできなかった。ぴしゃりと扉が閉まった。


 ハソングンは、本棚から一番離れた壁際に布団を敷き、壁にもたれて本棚を見上げた。


(いっそ、本棚の下敷きになったら、痛みで今のこの気持ちを忘れられるかな……)


 自分が罪人になるのなら構わない。しかし、大切な人が罪に問われることは絶対に避けたい。そして、あらがえない現実。自分の居場所がここではないということは、頭ではわかっていた。やはり、どんなに考えても、戻ることが最善の道としか思えなかった。それは葵との別れであり、好きでもない妻たちとの婚姻を意味する。





 翌朝、天皇陛下の即位を祝う一般参賀の様子がテレビで放送されていた。


「この方が新しい天皇陛下だね」

「そうよ。あ、御挨拶されるみたい」


 天皇陛下がマイクの前にお立ちになった。ハソングンは静かに聞き入った。葵はそんな彼の様子を黙って見ていた。


「ふうん、天皇陛下は国民の健康と平和を願っていらっしゃるんだね。諸外国と手を携えて世界の平和を求める……か。俺、王なのに、自分のことで精いっぱいだったなあ……」

「だって、あなたはまだ17歳よ。17歳なのに、本当にすごい人だと思うわ」

「そうかな? あまりに自分勝手で、申し訳ないくらいだよ」

「そんなことない。あなたはいつも優しいじゃない」

「ありがとう。葵さんはいつも俺をほめてくれる」

「本当のことよ」


 ハソングンが小さく微笑んだ。


「天皇陛下がおっしゃるように、外国と手を携えることが出来るものなのかな?」

「今はそういう時代になってる。大丈夫」

「そうか……俺が目指すべきなのは今みたいな平和な世界なんだね」


 ハソングンはいつも通り、ソファで葵の右隣に座っていた。しかし、昨日とは何か空気感が違うと葵は感じていた。




 5月5日、連休もあと2日を残すことになった。しかし、2人の間にはなんとなく溝があった。葵は、そんな状況に耐えられなくなっていた。意を決してハソングンと向き合った。


「ねえ、ハソングン、どうしたの? 私に悪いところがあるなら、言って。直すから。お願い。あなたがこんなに近くにいるのに、とても遠く感じるの」

「なんでもないよ」

「何も言ってくれないの?」


 葵はハソングンの目を見た。が、ハソングンはまもなく目をそらし、天井を見ていた。


「ハソングン?」


 しばらくして、ハソングンが葵の目をまっすぐにとらえた。じっと見つめる瞳は澄んでいた。


「俺、体育祭が終わったら、向こうへ帰る」


 葵の目からぽろりと一筋の涙がこぼれた。


「ごめんね。毎日ご飯作らせて、あなたに頼りっきりだったもんね。あなたは王様だもの。向こうなら、全部してもらえる」


葵がぽろぽろと涙をこぼした。


「違うよ! 違うんだ! 俺は楽しんでやっていた。そうじゃなくて、これ以上葵さんのことを好きになってしまうのが怖いからだ」


「……」


葵は「好き」をどうとらえたらいいのか、どう言葉を発したらいいのかわからなかった。


「この気持ちが恋だとわかったのは最近だけど、12歳の時、初めて葵さんに会った時から、葵さんは特別な人だった。だから、大妃テビ様から側室の話が出た時、葵さんに会いたくなったんだと思う」


「恋、なの?」


「ごめんね。そんなこと言われても困るよね。忘れていいよ」


「いやよ。忘れない。私も。私もあなたが好き。ひとりの男性として大好きなの」


その言葉を聞いてハソングンは目を見開いた。初めてミルクティーを飲んだ時のように。そして、耐え切れなくなり、葵を抱きしめた。


「子どもだと思われていると思った」


葵もハソングンの背中に手を回した。ハソングンのぬくもりが葵の掌に伝わってくる。鍛えられた胸の厚みが頼もしくて、すべてを預けられると思った。ずっと待っていたのかもしれない……葵は何百年もの時を超えて、この瞬間を待っていたような気がした。


ハソングンは腕をゆるめ、葵の瞳を見つめた。鼓動が早くなる。葵はゆっくり目を閉じた。しかし、ハソングンは人差し指で葵の唇を封じた。



「ダメだよ」


 優しい声で紡がれた言葉は残酷だった。


「葵さんの唇を俺が奪うわけにはいかない」

「なぜ? どうしてなの? ちゃんと教えて」

「我慢できる自信がない。俺はこの時代の人ではないから……戸籍のない俺は、どうやっても葵さんを幸せにすることが出来ないってわかったから、向こうへ帰る。だから、葵さんの大事なものは奪わないって決めた。」

「ハソングン、私はどうなってもいい。あなたとたくさん思い出を作りたい! たとえこの時代からいなくなるとしても、この一瞬一瞬を悔いなく過ごしたいの」


 しばらく下を向いていたハソングンが顔を上げた。葵は彼の瞳に何か決意のようなものを感じた。


「わかった。いつ向こうに戻るかはわからないけど、ここにいられる限り、いい思い出をたくさん作ろう。でも、俺が娶ることができる18歳になるまでは、葵さんはきれいなままでいて欲しい」


 ハソングンが葵の身体を引き寄せた。抱擁することで、ふたりの間にある時代の隔たりを埋めたかった。長い長い時間、お互いを感じていた。そして、ハソングンは、涙にぬれた葵の頬にふわりと唇を落とした。


「しょっぱい。葵さんは海の味」



 それから二人はほとんど離れなかった。ソファで隣に座ってテレビを見る時も手をつないだり、もたれかかったり、ふれあっていた。一緒に料理をし、2階に上がるときは手をつなぎ、じゃれあいながら一緒に本をえらぶ……。常にお互いの体温を感じあっていた。


「葵さん、一緒に外に出るのは絶対やめようね。俺は葵さんを罪人にしたくない」

「わかった。でも、夜なら目立たないからいいんじゃないかな?」

「夜、どこに行くの?」

「とっても素敵なところがあるの。あなたに見せたい」



 その夜、葵はハソングンを車に乗せて埠頭へ行った。海側を向いたまま車を止め、そのまま夜景を見ることが出来る、絶好の夜景スポットだった。すでにカップルと思われる車が何台か止まっていた。目の前には暗い海の向こうに対岸の夜景が広がっていた。


「すごい! 何? これ! すごくきれいだ!」

「建物の灯りがね、宝石みたいに輝いているの」


 その時葵の携帯の着信が鳴った。


「あ、メール」

「誰だ? 邪魔するやつ」

「大ちゃん~!」

「大輔さん? 外さないなあ。なんて言ってるの?」

「『今日は暑かったね。熱中症には気を付けて』だって」

「いい人だ」


 葵はなんとなく罪悪感をおぼえたが、やましいことは何もなかった。


「きれいだなあ。人が作った風景とは思えない」


 ハソングンは夜景に心を奪われたようだった。彼は葵の手を握り、指と指をからませて、手をつないだ。葵がハソングンの顔を見ると、頬がきらりと光った気がした。


(泣いてる?)


 葵はハソングンの頬にそっとキスをした。


「あ、しょっぱい。海の味」

「葵さん! 何するんだよ~」


 ハソングンが笑いながら首をしめてきた。二人はしばらくじゃれあっていた。頬を両手ではさんだり、ヘッドロックをかけたり、抱きしめたり……しばらくして、彼は葵の肩をそっと抱きよせ、自分にもたれかけさせた。

「葵さんに会えてよかった。今すごく幸せだ。幸せすぎて涙が出てきた」

「私も。ハソングン、ありがとう」


 そのまま二人でしばらく夜景を見ていた。

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