第6話 ハソングンが消えた

 夜のDVDタイムは、葵が左、ハソングンが右と、それぞれソファに座る定位置が決まり、ハソングンがリモコンを担当し、素早く操作していた。今回借りて見ているドラマは主人公が高校に通っていた。


「先生、私も学校に行きたいです。先生のいる学校に行って、友達を作りたいです」

「それはちょっと難しいわね。あなたはこの国で生まれていないから、学校に入れないの。それに、まだこの環境に慣れていないから、一人で外を歩くのも心配だわ」

「そうですか。それは残念です。」


 目を伏せる彼を見ると、仕方ないとはいえ、葵は申し訳なく思った。

 しばらく二人でドラマを見ていたら、ハソングンの体の重みが葵の腕にかかってきた。彼は眠っていた。久しぶりに太陽の下に出て、自転車を乗りまわしたので、疲れてしまったのだろう。長いまつ毛が上を向いて、口角が上がっていて、とてもかわいかった。歴史書通りなら、彼は15歳で王になるはずだ。向こうに帰ったら、あと3年で王になる。幼い寝顔を見ていると、かわいそうな気がしてきた。




 水曜日になった。DVDはもうほとんど見てしまったので、葵が明日どうやって過ごそうかと思っていた時、しゅうから電話がかかってきた。

「先生、明日、お花見に行きませんか? 川土手の桜が満開でとてもきれいです」

 もう4月になっていた。ハソングンとの暮らしに夢中で、桜のことなんかすっかり忘れていた。


「ハソングン、明日、修君たちがお花見に行かないかって」

「行きます!」


 切れ長なのに、丸く見開いてキラキラ輝く目が愛らしかった。葵が携帯を切ると、ハソングンは真面目な顔で言った。


「先生もケータイを持っていたのですね。」


 ドラマで学習したのか、名前を知っていた。ハソングンが現れるまではあんなに依存していた携帯を、今までほとんど出さなかったことに気づいた。



 翌日はとてもいい天気で、待ち合わせの場所の橋のたもとに行くと、東アジア歴史研究会のメンバーはそろっていた。


 ハソングンが手を上げて皆にあいさつをした。


「おう! 久しぶり~。元気だった?」


 みんなの視線が集まった。


「おまえ、ほんとにハソングン?」

「うん。俺、ハソングン。変かな?」


 それを見て1番驚いたのは葵だった。


「どうしたの? さっきまで敬語を使っていたわよね?」

「先生には敬語を使います」

「私たちにはタメ語?」


 真凛が聞いた。


「うん。友達だろ?」

「どこで覚えたの?」


 彩も興味津々だった。


「ドラマを見て覚えた」

「私が現代の勉強用に、ドラマのDVDをいっぱい借りて見せちゃった!」

「なるほど~!」


 真凛が関心していた。


(すごい適応能力。料理といい、自転車といい、物覚えも早い! 便利な機械もパソコンもないところから来たハソングンの能力は研ぎ澄まされているのかもしれない)


 葵はみんなと話すハソングンから目が離せなかった。


 平日だったおかげで、桜の下に場所を確保でき、バッチャンが重箱につめてくれた料理を広げた。ふと横を見ると、ハソングンが満開の桜を見上げていた。ふんわりと優しい空気をまとう彼の横顔を、葵は美しいと思った。


「初めて見るの?」


 彩に聞かれてハソングンは我にかえった。そして葵も。


「こんなにたくさん咲いているのを見るのは、初めてだよ。俺が住んでいたところは梅がきれいに咲くところだった」

「そうなんだ」


 黙って食べていた修が口を開いた。


「外で食べると、なんでこんなにおいしいのかな?」

「シューは贅沢! バッチャンの料理は家で食べてもおいしいもん!」


 川のせせらぎの音をBGMにして、桜の花が青い空を背景に広がっていた。時々吹く風が枝をわずかに揺らし、鳥のさえずりが心地よかった。


「気持ちいい! 真凛、最高にいい気分」

「ハソングン、こっちの生活はどうだい?」

「うん、慣れたと言えば慣れた。珍しいものばかりだから飽きないし。でも、まだよくわからないものもある」

「何だ? 興味あるなあ」

「ケータイ。あれって、誰かと話ができるの?」

「ケータイか。遠くにいる人と会話できるよ」

「ふうん」




 翌日、ハソングンは朝からソワソワしていた。


「先生、行こう! 今日は金曜日だよ! 半額デーだよ!」

「わかったわかった」


 葵は大急ぎで仕度をした。9時の開店と同時に店に入った。


「これがいい」


 ハソングンは、既に葵に敬語を使わなくなっていた。しかし、葵はそれをむしろうれしく思っていた。


『鬼神』というドラマを借りた。それは鬼が主役で、現世と前世が交錯し、輪廻転生を描く話だった。



 夕食後、またソファのそれぞれの場所に並んで座り、いつも通りにテレビをつけた時だ。ハソングンがまじめな表情で言った。


「先生、ありがとう」

「どうしたの? 急に」

「俺、ここへ来る前、全然自信がなかった」

「そうなの?」

「うん。だけど、ここへ来て、先生は俺をたくさんほめてくれた」

「だって、あなた、本当にすごいんだもん! 最高よ! かしこいし、何でもすぐできる! 本当にいい子」


 葵がハソングンの頭をなでると、彼は苦笑いしていた。


「ありがとう。先生がそう言ってくれると、何でもできそうな気がする。あとね、俺がやることをすごく喜んでくれた」

「だって、本当にうれしかったよ。ハソングン大好きよ」

「俺も先生大好きだよ」

「あら、私は何もしてあげてないのに? 全部あなたがしてくれた」

「俺、先生といると、すごく元気でいられるんだ。落ち着くっていうか」

「前の世界は大変だったんでしょうね」

「王族って自分の思い通りにならないことがたくさんあるんだ。俺、母上にひどいことしたなって……最後は大暴れしたから……」


 ハソングンが目を伏せた。


「あなたのような子が大暴れしたなんて、余程のことだったんでしょう……お母上にあやまりたいのね」


 葵はハソングンの背中に手を置いてなでた。


「先生の携帯で母上と話せないかな?」

「ここにあるものは便利なものが多いけど、それはできないなあ。お母上が携帯を持っていないと話せないの」

「そうか、そうだよねえ……」


 しばらく下を向いていたハソングンが絞り出すように叫んだ。


「母上に会いたい‼」


 その瞬間……彼の姿がふっ……となくなり、ハソングンの背中に置いていた葵の手が落ちた。


「え……?」


 葵はしばらくハソングンがいたはずの場所を見つめて動けなかった。あたりを見回してもその姿はない。


「ハソングン? ハソングン!」


 いくら呼んでも、探しても、もう彼はいなかった。


 しばらく受け入れられなかった。現れたのも突然だったが、まさかこんなに急にいなくなるなんて。時間が経つにつれ、寂しさに押しつぶされそうになっていった。


 子を亡くした母はつらいと言うが、そういう感情なのだろうか。いや、悲しみとは少し違う、不思議な感情。元に戻したい現実と言うほうが近いかもしれない。葵は泣いた。なぜこんなに涙が出るのか自分でもわからなかった。何度も名前を呼んだ。でも、もうハソングンは現れなかった。ハソングンが葵にとってどんな存在だったか、いなくなって痛いほどわかった。


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