第5話 自転車に乗って

 夕食後、また二人でソファに座った。ハソングンは、ドラマが気に入ったらしく、ずっと見ていた。葵が本を読もうとすると、袖をくいくいっと引っ張った。


「先生、何を読んでいるのですか?」

「『中華四千年の歴史探訪』」

「それ、おもしろいんですか?」

「うん。何回も読んでる」

「何回も読んでるのなら、こっちを一緒に見ましょうよ」


 ハソングンがぐいぐい袖を引っ張った。


「しかたないな」


 そう言いながらも葵は頬をゆるませ、また一緒にドラマを見た。その夜、ハソングンは風呂も歯磨きも教えられたとおりきちんと自分ですませた。


「おりこうさん」


 葵は聞こえないようにつぶやいた。



 翌日もハソングンの希望で朝からDVD鑑賞だった。さすがの葵も少し疲れてきた。


「ちょっと、休憩しよう」


 DVDを止めるとちょうど料理番組が始まったばかりだった。オープニングは料理を紹介しつつ、軽快な音楽でキャラクターが踊っていた。


「先生、紙とボールペン!」


 よほど料理番組が気に入ったようだ。そんなに好きならと、葵は、ハソングンが夢中で見ている間に、料理番組の時間とチャンネルを調べていくつか書き出した。


「これ、どういう意味かよくわかりません」

「時間からか……」


 葵は時計の読み方を教えた。その時から料理番組を見るのがハソングンの日課となり、気に入ったものがあると葵に買い物を頼んで、料理を作るようになった。


「先生、夕食だから、お酒飲みますよね」


 この日は鶏のサッパリ煮と、ほうれん草のおひたしだった。


(手作りの料理ってなんておいしいんだろう!)


 小さな体で一生懸命作ってくれるし、覚えが早くて手際がいい。うれしくてお酒が進んでしまった。


「ハソングン、大好き! 本当ににおいしかった~!」


 葵はあまりのうれしさに、ハソングンをハグした。華奢なハソングンは、小学生の頃の恭介を思い出させる。彼の体温を感じて、また不思議な現実を実感した。葵が体を離し、ハソングンの頬っぺたを両手で包んでくしゃくしゃっとすると、ハソングンが恥ずかしそうに笑った。




 そんな毎日で、ハソングンが嬉々としてテレビを見ているので、買い物以外はほとんど外にも出ずにすごしていたが、3日目に、ハソングンが葵に言った。


「先生、家の裏に自転車がありますね。」

「見つけたのね。しばらく乗ってないけど」

「はい。私にも乗れるでしょうか?」

「乗ってみる?」

「はい!」


 二人は外に出た。置きっぱなしでほこりっぽかったので、きれいにふくと、金属部分は若干輝きを失ってさびているが、乗るのに支障はなかった。


「先生も乗れるんですね!」

「まあね。大丈夫! あなたもすぐに乗れるわよ」


 葵が自転車を押し、二人で公園に行った。


「ほら、ハンドル持って」

「ハンドル……」

「そう。これがハンドル、これがペダル、これがサドル、これがタイヤでこれがチェーンっていうの」

「ハンドル、ペダル、サドル、タイヤ、チェーン……ですね」

「そう。乗ってみて」


 ハソングンが乗ると、足が届かず、片足が浮いていた。葵がサドルを下げ、ちょうど両足が着くようにした。


「いい感じです」

「それじゃあ、最初はペダルをこがずに乗ってみましょう」


 葵は自分が幼いころ教えてもらったように、段階を追ってハソングンに教えた。彼はフラフラしながら何度も何度も根気強く練習し、ペダルをこぎはじめたが、なかなかうまくいかなかった。


「意外と後ろに私が乗ってバランスとると乗れたりするのよね」

「やってみましょう」


 二人乗りをして、葵が後ろでバランスをとることで、うまく前に進んだ。


「やった! 乗れた! なんとなく感覚がつかめます! うわー、楽しい!」


 ハソングンはきゃっきゃと喜んでいた。しばらく二人乗りで公園の中を走った。最初は葵に力がかかり、手ごたえを感じていたが、そのうち、力をかけなくてもよくなった。


「もう大丈夫。ひとりで乗ってごらん」


 葵が自転車を降りた。ハソングンは一人で自転車をこいだ。


「やったー! 先生、一人で乗れたよ!」

「すごい! もう乗れるようになったのね! あなたって、何をやっても本当にのみこみが早くて上手だわ!」


 ハソングンが葵の前で自転車をとめた。


「先生、どうぞ。お乗りください」


 彼は自転車の荷台を、指し示していた。


「ありがとう」


 葵が後ろに乗ると、ふたたび自転車は走り出した。春の日差しの中で、咲き始めた花の香りを含む甘い風を受けて、自転車はどんどんスピードを上げていった。二人の笑い声が青空に響いた。


「気持ちいいー!」


 葵は思わず叫んでしまった。こんなに童心に帰ったのはどのくらいぶりだろう。


「先生、しっかりつかまって!」


 ハソングンはすっかり上手に乗れるようになって、ハンドルを右へ左へときってふざけていた。そんな彼の小さな背中は、あたたかくて頼もしかった。なぜだか安心できる小さな背中。この子は王になる。その器を持っている。葵は不思議な気持ちになった。


「喉、かわかない?」

「かわきました!」


 二人は公園の前にある自動販売機の前に来た。


「どれがいい? 夜飲んだリンゴジュースみたいなのがいい? それともしゅう君の家で飲んだサイダーかな。」

「先生は何を飲みますか?」

「私はミルクティー。一口飲んでみる?」


 葵がお金を入れてボタンを押すと、ガコンと音を立てて缶が落ちた。取り出して、プルタブを開けるまでの一部始終をハソングンはじっと見ていた。


「中に誰かいるのですか?」

「これは機械よ。ボタンを押したら、出てくる仕組みが中に作られているの」


 葵がハソングンに缶を渡した。


「飲んでみて」


 彼は一口飲んで、またいつものように目を大きく見開いた。


「おいしい! これがいいです!」


 葵の分を買おうと財布からお金を出すと、彼はすかさず手を出した。


「私にやらせてください!」


 ハソングンはお金を受け取り、自動販売機に投入した。


「先生も同じものですよね?」


 恐る恐るボタンを押して、缶が落ちてくるとうれしそうに取り出し、満面の笑みで葵に渡してくれた。


「はい、先生」


 彼には、現代人にとって当たり前のことが、新鮮で楽しい遊びのようだった。

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