第4話 初めての夜

「実は帰りたくないんです……でもそう言うと嘘になりますね。家族には会いたいですから。複雑な気持ちです」


 河城君ハソングンはリンゴジュースを一口飲んだ。そして、目を見開き、明るい顔で葵を見た。


「おいしいでしょ? これ、おすすめなの」


 河城君はゆっくり味わうように一口飲み、また話し始めた。


「ここへ来る前に王様が、私を養子に欲しいとおっしゃったのです」


(なるほど、その時期にこっちに来たのね)

 歴史に詳しい葵には大体のことが分かる。


「正直、私は嫌でした。養子になるということは、次の王になるということです。王になるなんて、私は考えたこともなかったし、絶対に嫌だと強く思ったんです」

「いやだったの……」

「私は逃げ出したいと思って気が狂いそうでした。私は母上の前で暴れていたのです。そして気が付くとなぜかあの場所にいました。先生が私を見つけてくれたあの場所です」

「突然あそこにいたの? 本当に不思議ね」

「はい。だから、あの時は、女官が強制的に私をあそこに連れて行ってなだめようとしていたのかと思っていました」

「女の子たちが偶然にもチマチョゴリを着ていたものね……。それで、王様の養子になりたくないから帰りたくないのね」

「はい。しかし、母上に会えないのは淋しいのです」


 彼の気持ちが伝わってくる。やはり本物としか思えない。


「先生、泊めていただくにあたり、ご主人にご挨拶をしなくては」

「あ、私、結婚してないの」

「え?」


 一瞬、空気が止まった。河城君の時代は十代のうちにさっさと縁談が決まってしまう。葵の年齢で独身というのは、相当なわけありと思われても仕方ない。


「この国では珍しくないことよ。そして、女が一人で暮らすのもよくあること」

「そうなのですか。失礼いたしました。それでは、このまま私が帰れずに大人になったら、私が娶りましょう。」


 彼はそう言ってにっこり笑った。


「あら、うれしいことを言ってくれるのね。ここでは男は十八歳で結婚できるから、六年後、宜しく頼むわね。さあ、お風呂にしましょうか」


 葵もにっこり笑い返した。



「河城君様、お風呂わいたよ」

「先生、みんなと同じように、ハソングンでいいですよ」

「わかった。ハソングン、入り方、教えてあげる。弟が小さい頃お風呂に入れてたのを思い出すわ」

「先生、弟さんがいらっしゃるのですか?」

「今は15歳よ。かわいいのよ。それじゃあ、今から教えるから、自分でできるように、ちゃんと覚えるのよ」

「はい」



 風呂から上がって、リビングに出てきたハソングンは手にバスタオルを持ったままだった。


「それ、洗濯かごに入れよう」

「いやです。これ、ふわふわですごく気持ちいいです」


 彼は、タオルを頬にあててうっとりしていた。


「そうか、向こうには綿布くらいしかないものね。乾いたのを一枚使っていいよ」


 葵は家にあるタオルの中で一番ふんわりしたタオルを選んでハソングンに渡した。彼は目を輝かせ、幸せそうにタオルの感触を味わっていた。


「髪を乾かすからここに座って」


 ハソングンの髪にドライヤーの風をあてると、初めてのハソングンはフルフルっとした。この反応が何とも言えずかわいかった。


「熱かったら言ってね」

「はい。気持ちいいです。明日からは自分でやります」

「そうよ。えらいわ」

「子ども扱いはやめてください」

「ごめんごめん」

「この髪の毛、どうしよう? 切っちゃう?」

「だめです。儒教の教えで、身体を傷つけることはよくないことなのです」

「髪の毛も?」

「髪の毛もです」

「じゃあ、仕方ないわね。後ろでひとつにくくろう」


 葵はゴムでひとつにくくってやった。ハソングンはそこにあったもう一本のゴムを伸ばしたり縮めたりして観察していた。




 ハソングンはまたテレビを見たがり、リモコンの使い方も覚えて次々とチャンネルを変えた。そして、見始めたのは、料理番組だった。


「先生、筆と紙をください!」


 葵はメモ帳とボールペンを出し、書いて見せた。ハソングンは初めて見たボールペンに一瞬目をキラキラさせて葵の顔を見たが、すぐに料理の内容をメモし始めた。


(この子本当に料理をしたいんだわ)


 葵はその時、明日はハソングンのために買い物に行こうと思った。




「そろそろ寝ようか」


 葵はハソングンを2階へつれて上がった。そこは葵の本を収納している部屋だった。


「ここで寝てね」

「私に書庫で寝ろと?」

「書庫じゃないわ。本をたくさん置いているだけ」

「いやです。これだけは譲れません。幼いころ書架が倒れて怖い思いをしたことがあります。安心して眠れません。こちらの部屋で寝ていいですか?」


 隣は葵の部屋だった。ベッドを移動させるのは、面倒だし、ベッドを譲る気にもなれなかった。


「まあ、いいわ」

「はい!」


 ハソングンの布団を葵のベッドの横に敷きなおした。


「感謝します」


 ハソングンが布団にもぐりこんだのを見届けて、電気を消し、葵もベッドに入った。


(こんなことが起こるなんて……)


 次々と今日起こったことを思い出した。ありえないことがありすぎた。眠れない。

 寝返りを打つとハソングンが口を開いた。


「先生、私はなぜここにいるのでしょうか?」


 彼も眠れないようだ。まだ子供なのに、きっと不安に違いない。


「私にもよくわからない。夢を見ているみたいね」

「明日目覚めたら元の世界にもどっていたりしないのでしょうか?」

「そうだったらいいわね。お母上に会える」


 暗闇の中でぼんやり見える天井を見つめながら、二人はしばらく話をしていた。


 朝、目が覚めると、葵のベッドの横にはハソングンの布団があり、すやすやとかわいい寝顔でまだ眠っていた。これは現実だと念を押された気がした。

 葵の朝食はいつもミルクティーとトーストだけの簡単なものだが、ハソングンがいるので、ジャムと牛乳を用意した。


「美味です!」


 何を食べてもおいしいと言うハソングンを葵はにっこり笑いながら眺めていた。


「どうかしましたか?」


 ハソングンは手を止めて葵の方を見た。


「うん。かわいいなって思って」

「先生はすぐに子ども扱いするんですね」


 ハソングンは唇の端をわずかに上げて、またトーストをほおばった。


「あ、今日は金曜日だから、行きたいところがあるの!」


 朝食をすませた二人が向かったのはレンタルビデオ店だった。金曜日はサービスデーで、全品半額でレンタルできる。ハソングンのために「現代の世界学習用」として、以前見ておもしろかった長編の現代ドラマを2巻、カゴに入れた。そして、帰りはスーパーに立ち寄り、昨日ハソングンが書いたメモを見て買い物をした。


 家に帰るともう昼が近かったので、さっそく料理にとりかかることにした。正直、葵は料理が苦手で教えることができない。今まで料理から逃げてきたからだ。しかし、調理器具は、母が勝手に買って来たものがそろっていた。


 葵が物の置き場所を教えると、ハソングンはさっさと自分でやりはじめた。見ていると、昨日見た内容をよく覚えていて、次々と手順を追っていた。彼は3人の兄弟の中で1番聡明だから、王から養子にと望まれたというだけあった。葵が感心していると、ハソングンに声をかけられた。


「先生、食器を出していただけませんか?」

「オーケー」


 ご飯はあらかじめ葵がタイマーをかけていたので、ちょうどいい時間に炊き上がった。

 出来上がったのは豚キムチ炒めで、皿に盛りつけると見た目もなかなかおいしそうだった。


「いただきまーす」


 葵は一口入れて思わず声が出た。


「う~ん! おいしい~!」


 予想以上の味だった。


「あなた、料理の天才だわ! これ、絶対お酒に合う! こんなにおいしいものが食べられるなんて、本当に幸せ!」


 この家の食卓にまともな手作り料理が並ぶなんて初めてだ。手作りのおいしさに、葵はご満悦だった。そんな葵を見てハソングンもうれしそうに笑っていた。

 さすがに片付けはしようと思って葵が茶碗を洗い始めたが、ハソングンは洗い方を観察し、途中から自分でやり始めた。


『この世界は自由だけど自分のことは自分でやる』と、昨日一度だけ言ったが、彼はそれをきちんと守ろうとしている。


「ハソングン、いい王様になるわね」


 葵がつぶやく声は水を流す音でハソングンには聞こえなかった。



 食後は、ハソングンの「現代の世界学習用」のドラマを見た。彼はとても気に入ったようで、1話終わるごとに


「次! 次!」


 と大騒ぎだった。自分でDVDを入れ替えられるようになり、あっという間に2巻とも見てしまった。


「先生! 次が見たいです!」


 半額デーは1週間先である。時計を見ると、5時過ぎだった。葵は今日のうちに見たものを返してまた新たに借りるしかないと思った。


「お昼においしいもの食べさせてもらったし……よし。特別よ。今日はたくさん借りて来よう!」


 またレンタル店に行き、今度はそのドラマの最終話までと、別のドラマを全巻借りた。


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