第7話 俺だよ! ハソングンだよ!

 葵はかすみに電話をかけた。


「葵ちゃん、どうしたの~?」


 この明るい声にいつも癒される。


「聞いてほしいことがあるの。明日、いい?」


 電話越しに様子がおかしいのを感じたかすみは、即答だった。


「いいよ~。何でも聞いてあげる。おいしいもの食べよう」

「ありがとう」


 かすみは春休み中の3人の子供たちを、夫にお願いして出かけることにした。




 待ち合わせは、個室のあるカフェだった。かすみが部屋に入ると、葵は大きなタオルとティッシュの箱を持って待っていた。


「どうしたの~? 葵ちゃ~ん」

「かすみ先生!」


 思わず抱きついて泣いた。


「こんなに泣くのはあいつと別れた時以来ね。まさか、男にひどい目にあわされた?」

「違う。彼は家族みたいなもの。」

「え? 今、冗談で言ったんだけど、え? え? 『彼』って、葵ちゃん、男と関われるようになったんだ! あれ以来ずっと心配してたんだよ。もう二度と恋なんてしないんじゃないかって」

「だから、恋じゃないってば。12歳の子どもなの」


 葵はハソングンのことをはじめから説明した。今、なぜか涙が止まらないことも。


「そんなことがあるんだ~。ドラマみたいだね」

「そうなの。まさか、自分に起こるなんて思ってもみなかった」

「泣いていいよ~。おもいきり泣いていいよ~。涙はね、いちばんいいデトックスだよ~」

「保健の先生に言われると説得力ある! え~ん!」


 ティッシュを何枚も使って鼻をかんでは泣いた。ハソングンとの思い出を語りつくした。かすみはそれをずっと聞き続けてくれた。やっと落ち着いてきたころ、かすみが口を開いた。


「そうかあ~。ハソングンは葵ちゃんにとって特別な存在なんだね~」

「……」


 特別な存在。その言葉がなぜか心を落ち着かせてくれた。


「人生、無駄なことはないのよ。つらい経験は人を強くしたり、優しくしたりする。葵ちゃんも、きっと、この経験で何かが変わっているはずよ」


 今までにないこの感情。つらさ。自分の中で、何か変わるのかもしれない。


「かすみ先生、ありがとう。全部聞いてもらえたし、もう大丈夫」

「しばらくはしっかり泣いたらいいよ~。しかし、いいなあ~。主婦は喉から手が出るくらい欲しいよ~! 一家にひとり、ハソングン!」


 ふたりは笑った。そして、おいしいものを食べ、他愛ない会話をすることができた。


「じゃあ、月曜日、元気に会おうね~」

「今日は本当にありがとう」


 葵はかすみという存在を心からありがたく思った。そしてまた、元の生活に戻った。




 新学期。午前中は始業式で、午後からは入学式だった。始業式を終えた研究会メンバーが、社会科研究室に集まってきた。


「真凛は理系だからクラスが違うけど、シューと彩は同じクラスになったよ!」

「僕たちは世界史をとってるからだよね? ところで、先生、ハソングン元気? 今日はどうしているの?」

「それがね、突然消えちゃったの。元の世界に帰っちゃったのかも」


 葵の目が熱くなった。生徒の前なので気を取り直そうとデスクから立ち上がったが、彩は気付いていた。


「淋しくなりましたね」

「ハソングンは王様になるんだろ? 11人も奥さんもらって、ハーレムだよ」

「ほんとだ! ねえ、葵っち! これで、子供24人、無事に生まれてくることができるんだね」


 葵はあらためて、現実を受け入れ、前へ進まなければと思った。生徒たちが、しばらくあれこれと話をしてくれたので、穏やかな気持ちになれた。


「いよいよ明日は午後から新入生歓迎のクラブ紹介だ。昼休みに視聴覚教室集合でよろしく」


 部長の修はいつも頼りになる。



 帰路につき、ひとりになると、寂しさが押し寄せてきた。いつまでもクヨクヨしていてはいけないとわかっている。でも、胸が痛かった。実家を出て一人暮らしを始めた時でさえ、こんなに淋しくなかったのに。


(ハソングンロス? 胃袋をつかまれたってこと? かな?)


 その夜、コンビニで買ったお弁当を食べていると、台所で料理をするハソングンの姿を思い出した。


「おいしかったなあ……」


 無理にでも食べなければと買ったお弁当だが、半分ちかく残して冷蔵庫に入れた。そして、ソファに座ると、自然に左側に座っていることに気づいた。


「前は、適当に座っていたのに……」


 ハソングンと一緒に借りてきたDVDを見ながら甘い缶チューハイを2本飲んだ。


「どうするのよ。このDVD! 私が本を読んだら袖を引っ張って読ませてくれなかったくせに」


 ソファの葵の右側は空っぽだ。また涙がでてきた。


(いけない。泣いたら目が腫れる。)


 心を無にする努力をした。



 *



 夜の闇の中。糸のような雨が降り、濡れたチマ(朝鮮の女性の民族服。巻きスカート)の裾が足元で重くからんだ。葵は追われる恐怖と戦いながら、痛む足を必死で前へ前へと運んだ。見つかりませんように。助かりますように。寒さに震えながら、必死に耐えた。葵の手を包んでくれる大きくて温かな手が……。


 目が覚めた。


「またあの夢……」


 不安な時や病気で弱っているとき、よく見る夢だ。はっきりとしたものは見えない。ただ、リアルな感覚だけがあるのだ。

 まだ外は明るくなっていない。暗闇の中、視線を這わせると、葵のベッドの横に、ハソングンは寝ていなかった。


「この部屋、広いなあ」


 もうひと眠りしようと思ったが、とうとう朝まで眠れなかった。鏡を見ると、幸い目はそれほど腫れていなかった。



 昼休み、東アジア歴史研究会の3人が視聴覚教室に集まってきた。生徒たちはあいかわらず楽しそうだ。ハソングンがいたことは、なかったかのように、以前と同じ時間が流れていた。チマチョゴリの着付けが終わった。


「これでよし。みんな、今日もとってもかわいい」

「まかせて! これで、部員が増えるよ!」

「シュー! 入っていいよー!」


 着替えの間、外に出されていた修が入って来た。


「真凛、彩、東アジア歴史研究会の未来は二人の呼び込みにかかっている。頑張ってくれ」

「OK!」


 その時だった。修の視野の端に、なにか赤い塊がドサッと音をたてて入ってきた。


「え?」


 全員その音の方を振り返り、視線がその一点に集中した。すると、うずくまっていた赤い塊が立ち上がった。青年だ。

 長身のその青年はこちらに背中をむけたまま、あたりを見回している。韓流時代劇でよく見る、王様の赤い衣装。背中と肩に金の龍の刺繍があった。そして、翼善冠イクソンガンという王の着用する黒い帽子をかぶっていた。


「誰?」


 葵の声に、くるりとふり返った彼は、顔の感じから、高校生か大学生くらいだと思われる。きりりと整った顔立ちで、気品があり、普通の青年ではなかった。彼自身、何が起こっているのか受け入れられないといった様子だった。そして、そこにいた4人をみつけ、驚いた様子で駆け寄ってきた。


「ひさしぶり!」


 どこで会ったか皆目見当もつかない。みんな顔を見合わせた。すると、彼は嬉しそうにこう言った。


「俺だよ。ハソングンだよ!」

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