王様にミルクティーを

楠瀬スミレ

第1話 生まれ変わっても余の妻に

 小雨がやみ、幾分か視界が晴れた。側室としての王宮の暮らしの中では、歩くことなどなかったので、彼女の足はすぐに痛くなった。この逃避行も今日で三日目になる。


(王様と一緒ならどんなことでも耐えられる。このまま逃げ切れずに死んでも悔いはないわ)


 寒さと不安を笑顔で隠す。握られた手のぬくもりだけが頼りだった。


貴人クィインよ」

「はい。王様」

「余が王でなかったなら……」

「王様でなかったなら?」

「そなた一人だけを妻にしたと思う」


 隣国から攻め込まれ、王宮にも危険がせまっているとわかった時、王は、王妃と他の8人の側室を置いて、彼女だけをここへ連れて来てくれた。正直どちらが安全かはわからないが、自分を選んでくれたことがうれしかった。


「それでは、次の世で、わたくしだけを妻にしていただけますか?」

「約束するよ。生まれかわっても必ずそなたを見つけ出す」

「高い壁があるかもしれませんよ?」

「超えてみせよう。そなたは余のただ一人の妻だ」


 つないだ手に力が入った。その時、前方から内禁衛ネグミの護衛が走ってきた。


「王様、本日の宿が見つかりました。ご案内いたします」

「さすがだ。ホン・テユン、頼りになる」


 その時、護衛の目は、王と貴人が指を絡め、固くつないだ手に釘付けになった。

 それは人目のある王宮では決して見せることのない姿だった。



 ※貴人クィイン……朝鮮王朝時代の二番目に位が高い側室。

 ※内禁衛ネグミ……朝鮮王朝時代の王の親衛隊。



 *



 午後の教室は時間がゆっくり流れていく。黒板の前に立つあおいの目の前の席の生徒が、睡魔と闘っていた。


「マリー・アントワネットの夫、ルイ16世は妾ももたず王妃だけを愛したにもかかわらず、アントワネットは不倫したり、色々あったわけです。中国や朝鮮の王様だったら側室がたくさんいたから、淋しさを紛らわすとか、わかりますけどね。かつて、奥さんが合計11人、子どもが26人いた王様がいるんですよ!」

「え! マジで⁉」

「11人もどうやって相手するの?」

「子供26人って名前覚えられるの?」


 そのどよめきで、舟をこいでいた生徒が目を覚ました。


「葵先生って、よく中国や朝鮮の話になるよね」

「今はヨーロッパ史やってるのに」


「はい、今日はここまでです!」


「起立。礼。ありがとうございました」


 チャイムの音が鳴った。



 杉浦葵すぎうらあおい30歳。まつ毛の長い二重瞼でロングヘアー、童顔に加えて華奢なためか、男子生徒にファンが多い。性格がさっぱりしているし、授業もわかりやすいと、女子にも人気がある。しかし、わけあって彼氏は何年もいない。キスの経験もない。恋愛なんてもう一生することはないだろうと思っていた。彼が現れるまでは。



 *



 3学期が終わり、春休みに入った。私立朔陽さくよう高校では、年度末に教職員の送別会を近くのホテルでするのが恒例だ。その日が今日なのである。葵は欠席する理由を考えたが、今年もいい考えは浮かばなかった。仲良しの養護教諭、上林うえばやしかすみと待ち合わせ、会場に向かった。


 会が時間通りにスタートし、校長のあいさつからお決まりのコースを経て、葵の恐怖の時間、「歓談」が来た。


「葵ちゃん、がんばろうね~」


 かすみに励まされ、葵は気合を入れた。入れ代わり立ち代わり、男性教諭がビールを持って葵のところにやってきた。


「杉浦先生、今年もお疲れさまでした。いやあ、今日もお綺麗ですな」


(来た! セクハラおやじ)


 固まっている葵の代わりにかすみが助け舟を出す。


「ありがとうございます~、ビールは少しで勘弁してあげてくださいね~」



「葵先生! 今日は僕と飲みましょうよ」


(来た! 肉食体育教師、山川先生!)


「すみません~。養護教諭として、これ以上はお勧めできません~。少しでお願いしますね~」


 かすみが割り込んだ。


 男性教諭に話しかけられるたびに、かすみが上手に受け答えをしてくれた。葵は「女を見る目」が、自分に向けられていることに耐えられなかった。喉の奥から嫌な味が湧き上がってくる。


「葵ちゃん、そろそろ限界みたいね」

「もうだめ。吐く」

「男アレルギーも病気のうちね」


 仕事なら大丈夫だった。しかし、相手にオスを感じた瞬間から気持ち悪くなってしまうのだ。


 まだ宴もたけなわではあったが、かすみは校長のところに報告に行った。


「校長先生、杉浦先生の体調がすぐれないので、私が送っていきます」

「上林先生、毎年すみませんねえ。よろしくお願いします」


 養護教諭の一声は強い。すんなり帰れることになった。


「かすみ先生、ありがとう」

「私も早く帰れて助かるんだ~。旦那が子供たち見てくれてるとはいっても、あんまり遅くは帰りたくないし~」



 *



 葵は、「東アジア歴史研究会」の顧問をしている。部員が3人しかいないため、生徒たちは今年の新入生に宣伝したいと張り切っていた。春休みではあるが、新入生歓迎会の準備のため、学校に集まることになった。


 葵がドイツ製の紺色のクーペで学校に到着すると、ちょうど校門を入ってきた部員の一人、真凛まりんが駆け寄ってきた。


「葵っち、かっこいい~!」


 あやも一緒だった。


「先生、いいものが手に入ったんですよ」


 二人は大きな荷物を抱えていた。


 三人が視聴覚室へ行くと、すでにしゅうが鍵を開けていた。部員はこの三名で、主な活動は、週一回視聴覚教室の最新の機材で韓流時代劇を見る、というものだ。


 しゅうは歓迎会当日上映するDVDを既にセッティングしていた。みんなで当日の進行や段取りを考え、準備を終えると、女の子たちはニコニコしながら例の大きな袋を持ってきて、中身を出した。


「ジャジャーン!」


 出てきたのはコスプレ用のチマチョゴリだった。


「せっかくだから、派手にやらないと。ねっ! あや

「楽しそうね。着て見せて」

「シュー、外に出て!」


 真凛まりんに言われ、しゅうは廊下に出た。


「二人ともかわいい」


 真凛がピンク、彩が水色のチョゴリを着ていた。


「修君、入っていいよ」


 修が視聴覚教室に入った瞬間。


「あ!」


 指をさして叫ぶ修の声に、みんなが振り向くと、あずき色の塊が見えた。あずき色なのは、韓流時代劇で見るような、官服。着ているのは少年で、背中を見せてうずくまっている。小学生だろうか。しばらく動かなかったが、ゆっくりと立ち上がり、周りをうかがっていた。振り返った顔は、切れ長の目ときりっとした眉が印象的な賢そうな子だった。間違いない。朝鮮王朝時代のあずき色の官服に、紗帽サモという黒い帽子をかぶっていた。周りのひとつひとつの物を見るたびに、怪しんでいるのか、独特の反応をしていた。


 少年はチマチョゴリを着た2人を見つけて安堵の表情を浮かべ、近寄ってきた。


「そなたたち、ここはどこだ? どうやって私を連れてきた? これは新しい余興か? ここにある物は斬新なものばかりだ」


 葵が少年に近寄り声をかけた。


「あなた、どこの学校の子?」

「何を申している? 言っている意味がわからぬ」


 少年は葵を上から下まで観察していた。


「そなた、変わった身なりをしているな」


 水色のカーデガンと花柄のワンピースなど、決して変わった身なりではない。この少年は何かたたずまいが違う。彼が着ている衣装は本物の絹だろう。女の子たちが着ているポリエステルとは明らかに重みも光沢も違っていた。そして、あずき色は王族だけに許された色だ。社会科の教師で歴史オタクの葵にはわかる。


「あなた、なぜその服を着ているの?」


 葵の質問に、少年は不機嫌になった。


「何度も『あなた』とは、無礼だ。皆は私のことを河城君ハソングン様と呼ぶ」


 河城君ハソングンといえば、例の11人妻がいた王が即位する前の名前だ。ついこの前まで、この視聴覚室で見ていたドラマに出ていたからわかる。


「先生、この子……」


 修のこの言葉を聞き、少年が急に姿勢を正して葵の方に向き直り、一礼した。


「失礼いたしました!」


 そして、丁寧に聞いた。


「あなた様は新しく来られた先生でいらっしゃいますか?」

「ええ、新しくはないけど、先生よ」

「ご無礼、お許しください」


 少年は深々と葵にお辞儀をした。何かのテレビ番組のドッキリか? どう対応すればいいのかわからない。葵はとりあえず家に帰そうと思った。


河城君ハソングン様、ここは高校だからお家に帰ろうね。」


「先生がこうおっしゃっている。そなたたち、私を連れて帰れ」


 河城君ハソングンはチマチョゴリの二人に命じた。


河城君ハソングン様のおうちはどこ?」

「そなたたちが私をここへ連れてきたのではないのか?」

「お前、本気で言ってるのか?」

「お前とはなんだ! 失礼な男だな。私は王族だぞ」

「とりあえず、部外者だし、外に出てもらおう」


 修が少年をなだめながら廊下に連れて行き、扉をピシャッと閉めた。


「さあ、続き続き。DVDを見よう!」


 会場を暗くしてDVDをプロジェクターで映し出した。映像も音響も素晴らしい。


「これならみんな見たくなるよね!」


 始まってすぐ、扉が開く音が聞こえて、後ろから光が差し込んだと思うと少年が入ってきた。そして、とんでもない叫び声をあげた。


「何だこれは⁈ この平たい人間は何なのだ⁈」


 少年が血相を変えて前方のスクリーンに映し出された映像に駆け寄った。そしてスクリーンの前に立つ自分の服や肌にもその映像が映し出されていることに気づき、恐怖の叫びをあげた。


「ヒャアー!」


 うずくまり、震えていた。


「止めて! 電気をつけて!」


 葵が叫んだ。部屋が明るくなっても少年はしばらくうずくまっていたが、顔を上げ、映像がなくなっていることを確認するとやっと落ち着いたようだった。葵がやさしく声をかけた。


「大丈夫?」

「先生、説明してください。あれはいったい何なのですか?」


 少年が葵のことを「先生」と呼んだ。


「あれはテレビやDVDの映像を機械で映画のように映しているのよ。」

「さっぱり意味がわかりません。」

「あなた本物の河城君ハソングン様なの?」

「偽物のわけがありません。私は間違いなく河城君ハソングンです!」


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