第11話 ふたりの夜
風呂の扉が開く音が聞こえてきた。海斗が風呂から出たのだ。12歳の時と同じなら、きっと今は髪を拭きながら、ふかふかタオルを顔に当てて感触を楽しんでいるところだろう。
葵がリビングへ降りていくと、思った通りタオルを持っていた。
「先生、新しいタオル、使っちゃった。久しぶりだからいいよね?」
ちゃっかり乾いたタオルを手にした海斗は笑顔だった。
(その笑顔! その笑顔よ!)
思わず頬が緩んだ。やっぱり、海斗は「かわいいハソングン」だ。彼自身は何も変わっていない。力みすぎたことが恥ずかしくなってきた。
「先生、お風呂あがったらドラマ見よう!」
「あ、8話まで見ちゃったから、私がお風呂入っている間に見てて」
「ええーっ、先生と一緒に見たいよ。待ってるから一緒に見よう!」
そう言って海斗はソファに座って、自分の左側の葵の席をポンポンとたたいた。
(うわ~~かわいい!)
「わかった。急いで入ってくるね。あ、そうだ、そろそろ、お料理がはじまるよ」
「紙とペン!」
海斗はソファに座ってメモを取りながら、料理番組を見た。この日のメニューは、マグロの洋風漬け丼とかまぼこのお吸い物だった。
「お待たせ」
葵が風呂からあがり、髪も大急ぎで乾かして、すでにソファに座っていた海斗の左隣に、いつものように座った。
「5年前に6話まで見たよね?」
「海斗、内容を覚えてる?」
「大丈夫。覚えてるよ」
海斗は以前と同じようにリモコンを操作し、テレビをつけた。
「ちゃんと覚えてるのね。リモコンだってちゃんと使えるね」
「うん」
ドラマが始まって少したったころ、葵は眠くなってきた。せっかく、海斗が一緒にと言っているのだから、一生懸命目を開けていたが、ついに目を閉じてしまった。海斗は葵が揺れているのに気付き、顔をのぞきこんで小さな声で言った。
「先生、寝ちゃったの?」
「……寝てないよ……」
葵はそう言いながらも、まぶたの重さに勝てないようだった。
「先生、疲れているんだね」
海斗は葵をそっとしておきたいと思った。葵の頭が前に下がってきたのでまた声をかけた。
「寝ちゃった?」
今度は答えが帰ってこなかった。葵が見てしまったという8話まではこのまま見ることにした。
海斗は葵を自分にもたれさせた。葵の重みとぬくもりが海斗の左腕にあった。葵はいつもは髪を後ろでひとつに束ねているが、風呂上がりで髪を下ろしていたので、海斗の体にかかっていた。
しばらくして、海斗も葵の頭に自分の頭をもたれさせた。ついにドラマが終わり、DVDは消えて、ニュース番組が流れはじめた。葵はまだすやすや眠っていた。
「さて、どうしよう?」
そっと葵を横にならせた時だ。葵が目を覚ました。
「あ、ごめん……私、寝ちゃった」
「大丈夫。8話まで見たから、明日続きを見よう」
「うん」
「よく眠っていたね。すごく気持ちよさそうだった」
海斗のやわらかい笑顔がかわいい。
「うん。昨日までよく眠れなかったから、久しぶりに安心して眠れたみたい」
「先生、大丈夫? 今まで眠れなかったの?」
「うん。海斗がいなくなってから眠れなかった……なんとか眠れても、怖い夢を見た」
「どんな夢?」
「雨の中を何かから逃げている夢。暗くて寒くて怖いの。ただ、感覚的にそういう感じがしている夢だから、はっきりとまわりの様子はわからないの。幼い時から、不安な時とか熱を出している時に同じ夢を見てた。久しぶりに見たわ」
「ふ~ん。俺はあまり夢は見ないなあ」
二人は二階へ上がった。相変わらず、海斗が本棚を怖がるので、葵の部屋に布団を敷いて一緒に寝ることにした。そばに海斗のぬくもりがあることを心強く思った。
さっき眠ってしまったせいか、葵はなかなか寝付けなかった。寝息が聞こえてこないので、暗がりの中で海斗を見ると、まだ眠っていないように見えた。おもいきって、小さな声で呼んでみた。
「海斗?」
「なに?」
やはり起きていた。
「
「うん」
「素直な海斗が困らせるなんて、よほどのことがあったのね」
「うん。大妃様が、側室をってしつこくて」
「そうなんだ」
「王妃を迎えることは王の務めとして受け入れるしかないと諦めてる。でも、大臣たちが強引に側室を決めたんだ。そしたら、大妃様はご自分の息のかかった女官も側室にって言うんだよ。どう思う?」
「それはきついわね。一度に3人!」
「3人とも知らない人なんだ。好きでもない人を一度に3人も相手にできない。俺は本当に好きな人と一緒にいたい」
妻がたくさんいるのは、王様としては当たり前のことだ。誰もが権力を得ようと、自分の娘や、息のかかった者を王と結婚させたがる。そして後継者となる王子を生むのが王妃や側室の役割である。ドラマで見る時は当たり前のことと思えるのに、「かわいいハソングン」の身に起きていると思うと、葵の心はザワザワしてしょうがなかった。
「いやって言ったの?」
「言ったよ。全力で拒否した。大妃様の勧める相手は14歳らしい。既に決まってる王妃も14歳、側室の方は16歳。王妃との婚礼はもうすぐなんだけど、気が乗らなくて。こっちの世界のことを思い出して、先生に会いたいって思ったらこっちへ来ちゃった」
「ここは自由だもんね。愛する人と結婚できる」
「でも、またすぐに元の世界に戻らないといけないんだろうな。5年前みたいに」
海斗はくるりと寝返りを打ち、向こうを向いてしまった。背中が大きい。しかし、その頼もしく成長した背中が淋しそうに見えた。葵は、この肩に一国が背負わされているのだと思うと胸が苦しくなった。
葵が目覚めた時、海斗がいたはずの場所は空っぽだった。
「海斗!」
慌てて下に降りてみると、台所からジュージューという音が聞こえてきた。いいにおいがする。海斗は目玉焼きを焼いていた。葵は台所にいる海斗を後ろからハグしたかった。もう、苦い朝を迎えなくていいのだ。一方で、またいなくなってしまったらと思うとやり切れない気持ちになったが、とにかく今を楽しもうと決めた。
「おはよう、先生。今日はよく眠れた? トースト焼くね」
「おはよう。おかげさまでぐっすりよ。海斗、もう子供じゃないから、ミルクティーいれてあげるね」
葵は毎朝やっているように、ポットに茶葉を入れ、お湯を注いだ。紅茶の香りが広がった。
「甘い方がいいかな?」
「うん」
砂糖と温めた牛乳を入れた。
「はいどうぞ。自動販売機のと、どっちがおいしいかしら」
海斗は一口飲んで、いつものようにパッチリと目を見開いた。
「買ったのより、こっちのほうがおいしい!」
海斗がお代わりした。ただ、二人で朝食を食べているだけ。それなのに、最高の時間だと葵には思えた。
葵と海斗が一緒に登校するのは、人目を考えて控えた方がいいということで、海斗は修と自転車で登校することになっていた。
「いってらっしゃい」
海斗を送り出し、葵は車で後から出た。
「おはよう!北条海斗くん」
海斗が保健室の扉を開けると、かすみが白衣のポケットに両手をひっかけたまま振り返り、迎えてくれた。胸のポケットにはカラフルなペンが2本ささっていた。そのうち1本は野球選手の写真入りだ。
「おはようございます。かすみ先生ですね」
「葵先生から詳しいことは聞いているわ。私はあなたの健康や悩み事について、何でも相談に乗るための先生よ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
(王様! イケメン~!)
「最初はここですごして、すこしずつ学校になれたらいいわ」
「よろしくお願いします」
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