第12話 恋愛経験

 葵は最初から男性アレルギーだったわけではない。一応、恋愛経験はある。最初の彼氏は5歳のときだった。幼稚園の同じクラスの男の子だ。幼稚園でおままごとをし、彼がお父さん、葵がお母さんだった。朝ごはんを食べて、行ってらっしゃいをして、お帰りなさいを言って晩御飯を食べた。二人で遊ぶと楽しかったので、葵の方からデートに誘った。


「きょうね、おうちにかえったらデートしよう。おうちからこっちがわにでて、ちょっといったところに、おはながさいてるところがあるの。そこでまってて」


 葵はその日、お家に帰ってから、お花が咲いているところで待っていたが、少し待っても彼は来なかった。すぐにあきらめて帰った。葵の初恋は1日で終わった。

 今考えると、「何時に」「誰のお家から出るのか」を言っていなかった。その時、彼の方も何の疑問も持っていなかった。もしかしたら、彼は自分の家を起点としたかもしれない。幼さゆえのかわいい失敗である。



 2人目は大学生の頃だった。友達に無理やり連れて行かれた合コンで正面に座った同い年の人だった。世話焼きタイプでどんどんお酒を注いでくれた。葵は清楚で美人なのに、外見に似合わずいくらでも飲めるし、飲むとよく笑う。お酒が好きな彼はそんな葵を気に入ってくれたようだ。後日付き合ってほしいと電話がかかってきた。嫌いではないし、彼氏というものが欲しかったので申し出を受け入れてみた。


 初めての彼氏でとても緊張した。デートは、彼が誘ってくれるまま、彼の好きな野球やサッカーを見に行った。葵はスポーツのルールがほとんどわからないし、なにより日向に出るのが大の苦手なのに、一生懸命ついていった。たまに見る映画も、彼はホラーを見たがった。葵は怖いのは苦手だったが、彼の強い希望だったので、仕方なく受け入れた。今ならわかる。下心丸見えだ。葵がキャーキャー言ってしがみつくのを期待していたのだろう。しかし、あいにくしらふの時はそんなかわいさを持ち合わせていない葵は、じっと我慢して、一人で固まっていた。


 本当は本屋や図書館が好きで、中学の頃から歴史の本を読み漁っていたから、会話だって歴史の話がしたかったのに、彼といる時はその糸口すら見つからなかった。何回かデートを重ねたある日、彼の部屋に泊まりに来いと誘われた。それが何を意味するかわかったので、正直な気持ちを伝えた。


「私、結婚式が終わった後『はじめて』を迎えたいの。だから、お部屋には行けない」


 葵は真剣にそう思っていた。中国や朝鮮の王族のように、婚礼をあげた夜、身を清めて「初夜」を迎えることにあこがれていた。しかし、彼はそれを信じてくれなかった。あきらめようとせず、しばらく葵を優しい言葉で説得し続けたがついに本音が出た。


「お前は明治生まれか? いや、お前は天然記念物だ! やれない女と付き合って何の意味がある?」


 その言葉を最後に、彼からの連絡はなくなった。キスもしていないのに、恋愛と言えるかどうかは怪しいが、一応彼氏という位置づけだった。


 3人目は教師になってからだ。葵は朔陽さくよう高校の卒業生だ。高校時代、吹奏楽クラブに所属し、パートはトランペットだった。女だてらにトランペットをふく葵は、どちらかというと女子に人気があった。


 教師になりたての頃、吹奏楽クラブの生徒たちが葵がOGであることを知って、春休みにある定期演奏会に誘ってくれたので、一人で行った。休憩時間にロビーに出ると、数人の人が集まってにぎやかに盛り上がっていた。その輪の中心に背の高いひときわ目立つ男性がいた。


とおる先輩……」


 葵が1年生の時3年生だった先輩、高見亨たかみとおるだ。アルトサックスで、ジャズナンバーのソロを吹く姿は本当にかっこよかった。当然部員のみならず、学校中にファンがいたので、1年生の葵にとっては雲の上の存在だった。パートも違うので、いつも友達とじゃれあっているとおるを遠くから見ているだけだった。唯一のチャンス、バレンタインも3年生は引退していたし、彼が受験まっただ中だったのでチョコをあげる事すらできなかった。その憧れの亨先輩が目の前にいたのだ。葵が遠くから彼らを眺めていると、後ろから肩をたたき、声をかける人がいた。


「あら、葵ちゃんじゃない?」


 ホルンの笙子しょうこ先輩だった。トランペットの葵を同じ金管の後輩としてとてもかわいがってくれた人だ。


「先輩! お久しぶりです! お元気でしたか? 東京から帰ってこられたんですか?」

「定演にあわせて、私たちの学年で集まろうってことになってプチ同窓会よ。みんなで、定演を見に来たの。葵ちゃんも誰かと来たの?」

「私は朔陽さくようで教師をしていて、生徒が聞きに来てっていうから、一人で来たんです」

「あら、葵ちゃん、朔陽の先生になったのね! 一人なら、一緒に聞きましょうよ」

「いいんですか?」

「いいよいいよ。一緒に頑張った仲じゃない。おいでおいで」


 笙子しょうこは葵の手を引っ張って、例の人だかりの輪の方へつれて行った。


「みんな~! 一年生の葵ちゃん連れて来たよ~。金管の大事な後輩だからね」


 いきなりの一年生扱い。みんなすっかり高校時代に戻っていた。


「あ、杉浦? きれいになったなあ。僕の事、おぼえてるよね?」


 トランペットの斎藤先輩だ。相変わらず、背が低い。同じパートだから、お世話になった。よく人を笑わせる人で、時々ちょっかいを出してきた。


「斎藤先輩、お久しぶりです。現役時代はお世話になりました」


 この人とは緊張せずに普通に話が出来た。


「杉浦さんだね? 斎藤と同じトランペットだったよね?」


 その声は高見亨だった。話をしたことも、近くに行ったこともなかった憧れの先輩がすぐそばにいた。しかも、名前を覚えてくれていることに驚いた。体がこわばって表情を変えるのも大変だった。


「はい……」


 息をするのも難しいと感じた。すると、斎藤が割り込んできた。


「僕がたくさんお世話したんだよねー、杉浦。あれ? どうしたの? あ、チャラい男が来たから、警戒してるんでしょう?」


 斎藤はなれなれしい。


「そういうわけでは……」

「杉浦さん、一年の時からかわいかったけど、すごくきれいになったね」


(え? 亨先輩、今私のことをかわいかったと、そしてキレイと言いましたか?)


 恥ずかしくて、どうしていいかわからなかった。


「今日、定演終わった後で飲みに行くんだけど杉浦さんもおいでよ。おい、みんなも異論ないよな?」


(うそ! 先輩が誘ってくれた!)


「いいよ。多い方が楽しいし」


 奇跡だった。まさかこんな日が訪れるとは。葵は参加することにした。



 さすが強豪校だけあって、定期演奏会は聞きごたえのあるものだった。興奮冷めやらぬ様子で先輩たちがロビーに集まってきた。


「俺たちもOBステージに出たかったなあ」

「しょうがないわよ。社会人は練習に出られないんだから」


 この日集まったのは先輩の男子4人、女子4人、そして葵の9人だった。地元の居酒屋で、掘りごたつ風座敷に案内された。


「せっかくだから、席は男女交互に座ろう!」


 斎藤が余計なことを言った。葵は笙子のそばにいたかったのに斎藤に押されて一番奥の席に、隣には斎藤が座った。そして、葵の向かい側には亨、その隣は、話したこともないおとなしいフルートの先輩だった。必然的に、頼れるのは斎藤だけになってしまった。


(どうしよう。亨先輩の目の前でご飯食べるなんて緊張する)


「それでは久々の再会を祝してかんぱ~い!」

「かんぱ~い」


 全員でグラスをぶつけあった。昔はジュースで乾杯したのに、当然今はお酒。みんな心は高校生に戻っているけど大人になったんだと実感した。


「葵ちゃん、朔陽の先生なんだって?」


 斎藤の明るさに救われた。


「はい」

「おい、斎藤、お前いつから、葵ちゃんって呼んでるんだ?」


(亨先輩!)


「さっきからだ。笙子につられて……高校の時は杉浦って呼んでた。」

「おまえ、なれなれしいんだよ。俺も葵ちゃんって呼んでいい?」

「はい。」


(うわ~! 何この少女マンガみたいな展開!)


 葵の目の前に亨がいた。顔をまともに見られない。ふと視線を上げると、整った顔がきれいすぎて、自分が恥ずかしくなり、また目をそらしてしまった。それでも楽しくてうれしくて、この夢が覚めませんようにと祈っていた。


「葵ちゃん、グラスあいてるよ」


 斎藤がお酌をしてくれた。


「あ、先輩も」


 葵がお返しすると、亨が割り込むように言った。


「俺にもお酌してよ」

「はい! もちろんです」


 葵はギクシャクとロボットのようになった体で亨のグラスにビールを注いだ。

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