第27話 ふたりで料理

 昨日は眠れない夜だった。葵は、ほんのり日がさして明るくなったキッチンに降りて、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、ソファに座って飲んだ。まだぼんやりとした頭で、後味の悪い昨日の夜の出来事をくりかえし思い出していた。


「ハソングンは、どんな気持ちであんないたずらをしたのかな……」


 大輔と一緒にいるのは楽で心地よかった。昨夜帰った後も、メールが来た。


『先輩、今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。また誘ってくださいね』


 また一緒に食事ができたら楽しいと思った。でも、大輔と一緒にいるところをハソングンに見られたくなかった。


「ああー!!」


 葵は何度も奇声をあげて手足をバタバタしていた。リビングからキッチンを見ても、ハソングンはいない。いつもなら、食べないと気が済まない朝食も、今日は食べる気になれなかった。

 幸い、今日は休日。ハソングンも1日遊んで、帰ってくるのは夕方のはずだ。葵はパジャマのままで、化粧をする元気もなく、ソファに沈み込んでぼんやりしていた。何をするでもなく、時間が過ぎて行った。





「ただいま」


 ハソングンが帰ってきた。もう、4時だ。


「おかえり。早かったのね」


 その葵の声を遮るようにハソングンが聞いた。


「葵さん、昨日の人は誰? デートだったの?」


 葵はその勢いに飲み込まれそうだった。


「……昨日一緒にいたのは、高校の時のクラブの後輩で、弟みたいな人よ。デートじゃない。一緒にご飯を食べただけ。偶然会ったの」


 言い訳がましいかなと思いつつも、説明したかった。


「葵さんはあの人の事、好きなの?」


 ハソングンはまっすぐに葵の目を見ていた。


「人としては好きだけど、男としては見られない」


 葵はハソングンの視線に耐えられず、目を伏せた。そんな葵の顔をのぞきこんでハソングンが聞いた。


「信じていいの?」


 葵もハソングンの目をまっすぐに見て言った。


「あなたに嘘は言わない」


 葵の目を見てハソングンには嘘ではないとわかったようだった。


「良かった! じゃあ信じる。ご飯作るね」


 ハソングンの笑顔が戻った。たったの二日。葵はこの笑顔をずっと見たくて苦しかった。かわいい。泣きたいくらいかわいい。今のはどういう意味? 何を言いたいの? 聞きたくて仕方ないのに聞けなかった。


「今日はもう、仕事すませちゃったから、私も手伝うよ」


 メインはチーズハンバーグだった。ハソングンが手早く刻んだ材料をボールに入れてくれたので、葵が調味料を計り、卵やひき肉と合わせてこねた。その間に、ハソングンはスープやサラダを作っていた。


「バッチャンの料理、最高だね。漬物も味噌も、全部自分で作るんだって。修は長生きしてほしいって言ってた。修のお父さんとお母さんは2人で旅行に行ってて、修に一緒に行かないの? って聞いたら、親と旅行なんて……って、変な顔してた」


 ハソングンは手を動かしながら、葵に昨日からのことを次つぎと話した。葵は相槌をうちながら、聞き逃すまいと一生懸命聞いた。


「じゃあ、4つに分けて、丸めよう! 中にこのチーズを入れるんだよ。こうやって……」


 ハソングンは丁寧に教えてくれた。


「はみ出しちゃう」


 葵は料理にはほとんど慣れていなかった。


「大丈夫。こうやって……ほら」

「ほんとだ、ハソングンの言うとおりにすると、ちゃんとできる!」

「葵さんが器用なんだよ」


 葵は心が満たされて涙が出そうだった。こんな時間がいつまで続くのだろう。一生続いたらいいのに……。ハソングンの顔を見ると、下を向いて作業しながら笑顔で話す横顔がかわいくて、胸の奥から湧き上がり全身に伝わってゆく甘い熱に、身体が溶かされてしまいそうだった。


「ね? そう思わない?」


 ハソングンが葵の方を向いた。人なつっこい笑顔。形の良い唇。男らしい眉。長いまつ毛。切れ長の涼しい目。神様はどうやってこんなに綺麗な顔を作れるのだろう?


「ねえ、葵さん?」


 ハッとした。


「あ、そうね」

「聞いてた?」

「ゴメン」


 長身の彼の顔を見るには葵が見上げなくてはならない。すらりとした体型だが、肩幅が広く、筋肉質だ。年下なのに甘えたくなるほどの包容力。


「だめだ、私」

「そんなに気にしなくていいよ」

「そうじゃなくて……」

「いいよ。いいよ。許してあげるよ。ハンバーグが焼きあがったら出来上がりだから、お皿並べよう」


「あ……」


 狭い台所で、移動しようとした二人の手がふれあってしまった。葵はビクッとした。


「食器を出すね」


 以前はハグしても何ともなかったのに、手が触れただけでドキドキしてしまう。葵は急いで先に台所を出てしまった。そして、何もなかったかのように装って、料理を盛り付けた。2人の関係を壊したくなかった。



 2人はいつものように向かい合って食事を始めた。ハンバーグをナイフで切ると、中からチーズがとろりと溶けだした。一口食べた葵の顔が輝いた。


「このハンバーグ、絶品!」

「葵さんが作ったからだよ」

「ハソングンが教えてくれたからよ」


 向かい合ってする食事。二人で一緒に作った料理だから、格別だった。そんな葵の笑顔をハソングンがじっと見ていた。


「何かついてる?」


 葵の顏が熱くなってきた。


「葵さん、今日はいつもより、きれいだなと思って」


 葵は心臓が止まるかと思った。いや、一瞬止まったかもしれない。そして早鐘を打ちはじめた。


「ハソングン、ほめるのがうまくなったね」


 葵はとにかく、何も変わらない方がいいと思った。気まずくなるのだけは避けたかった。

 ハソングンが微笑んだ。


 食事の後はいつものようにソファに座った。葵は妙に緊張して、ハソングンが座っている方の右側の体がこわばっている気がした。いたたまれなくてテレビをつけると、バラエティ番組で、芸人のコメントにみんなが笑っていた。その時、葵の携帯が鳴った。メールの着信音だった。


「あ……あれ? 大ちゃんからだ、どうしたのかな」


 ハソングンは聞き逃さなかった。携帯を見ている葵の様子をつぶさに観察した。


「フフ……なるほどね。さすが大ちゃん」


 笑っている葵を見て、またハソングンの中に闘志がわいてきた。


「葵さん、なんて書いてあるの?」

「『先輩、明日は平成最後の日ですね。夜、お時間あったら、記念に何かしませんか?』だって。大丈夫。私、行かないから」


 葵はすぐに行けないというお詫びの返信をした。


「平成最後?」

「そう。天皇陛下が変わるの」

「天皇陛下?」

「昔は王様のような存在だったけど、今は憲法の第一条に『日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』って書いてある。私たち国民にとって特別な存在ね」

「ふうん」

「明日は学校だけど、そのあとまた4連休があるよ。何かする?」

「葵さん、俺との同居がばれたら、スキャンダルなんだろ? 学校をクビになるよね?」

「うん……そうなるかもね」

「じゃあ、家から出ないで、家で一緒にできることをしよう」


 家で一緒にできること……ハソングンはもう遊びに出る気はないようだ。葵の顔がほころんだ。

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