第27話 ふたりで料理
昨日は眠れない夜だった。葵は、ほんのり日がさして明るくなったキッチンに降りて、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、ソファに座って飲んだ。まだぼんやりとした頭で、後味の悪い昨日の夜の出来事をくりかえし思い出していた。
「ハソングンは、どんな気持ちであんないたずらをしたのかな……」
大輔と一緒にいるのは楽で心地よかった。昨夜帰った後も、メールが来た。
『先輩、今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。また誘ってくださいね』
また一緒に食事ができたら楽しいと思った。でも、大輔と一緒にいるところをハソングンに見られたくなかった。
「ああー!!」
葵は何度も奇声をあげて手足をバタバタしていた。リビングからキッチンを見ても、ハソングンはいない。いつもなら、食べないと気が済まない朝食も、今日は食べる気になれなかった。
幸い、今日は休日。ハソングンも1日遊んで、帰ってくるのは夕方のはずだ。葵はパジャマのままで、化粧をする元気もなく、ソファに沈み込んでぼんやりしていた。何をするでもなく、時間が過ぎて行った。
*
「ただいま」
ハソングンが帰ってきた。もう、4時だ。
「おかえり。早かったのね」
その葵の声を遮るようにハソングンが聞いた。
「葵さん、昨日の人は誰? デートだったの?」
葵はその勢いに飲み込まれそうだった。
「……昨日一緒にいたのは、高校の時のクラブの後輩で、弟みたいな人よ。デートじゃない。一緒にご飯を食べただけ。偶然会ったの」
言い訳がましいかなと思いつつも、説明したかった。
「葵さんはあの人の事、好きなの?」
ハソングンはまっすぐに葵の目を見ていた。
「人としては好きだけど、男としては見られない」
葵はハソングンの視線に耐えられず、目を伏せた。そんな葵の顔をのぞきこんでハソングンが聞いた。
「信じていいの?」
葵もハソングンの目をまっすぐに見て言った。
「あなたに嘘は言わない」
葵の目を見てハソングンには嘘ではないとわかったようだった。
「良かった! じゃあ信じる。ご飯作るね」
ハソングンの笑顔が戻った。たったの二日。葵はこの笑顔をずっと見たくて苦しかった。かわいい。泣きたいくらいかわいい。今のはどういう意味? 何を言いたいの? 聞きたくて仕方ないのに聞けなかった。
「今日はもう、仕事すませちゃったから、私も手伝うよ」
メインはチーズハンバーグだった。ハソングンが手早く刻んだ材料をボールに入れてくれたので、葵が調味料を計り、卵やひき肉と合わせてこねた。その間に、ハソングンはスープやサラダを作っていた。
「バッチャンの料理、最高だね。漬物も味噌も、全部自分で作るんだって。修は長生きしてほしいって言ってた。修のお父さんとお母さんは2人で旅行に行ってて、修に一緒に行かないの? って聞いたら、親と旅行なんて……って、変な顔してた」
ハソングンは手を動かしながら、葵に昨日からのことを次つぎと話した。葵は相槌をうちながら、聞き逃すまいと一生懸命聞いた。
「じゃあ、4つに分けて、丸めよう! 中にこのチーズを入れるんだよ。こうやって……」
ハソングンは丁寧に教えてくれた。
「はみ出しちゃう」
葵は料理にはほとんど慣れていなかった。
「大丈夫。こうやって……ほら」
「ほんとだ、ハソングンの言うとおりにすると、ちゃんとできる!」
「葵さんが器用なんだよ」
葵は心が満たされて涙が出そうだった。こんな時間がいつまで続くのだろう。一生続いたらいいのに……。ハソングンの顔を見ると、下を向いて作業しながら笑顔で話す横顔がかわいくて、胸の奥から湧き上がり全身に伝わってゆく甘い熱に、身体が溶かされてしまいそうだった。
「ね? そう思わない?」
ハソングンが葵の方を向いた。人なつっこい笑顔。形の良い唇。男らしい眉。長いまつ毛。切れ長の涼しい目。神様はどうやってこんなに綺麗な顔を作れるのだろう?
「ねえ、葵さん?」
ハッとした。
「あ、そうね」
「聞いてた?」
「ゴメン」
長身の彼の顔を見るには葵が見上げなくてはならない。すらりとした体型だが、肩幅が広く、筋肉質だ。年下なのに甘えたくなるほどの包容力。
「だめだ、私」
「そんなに気にしなくていいよ」
「そうじゃなくて……」
「いいよ。いいよ。許してあげるよ。ハンバーグが焼きあがったら出来上がりだから、お皿並べよう」
「あ……」
狭い台所で、移動しようとした二人の手がふれあってしまった。葵はビクッとした。
「食器を出すね」
以前はハグしても何ともなかったのに、手が触れただけでドキドキしてしまう。葵は急いで先に台所を出てしまった。そして、何もなかったかのように装って、料理を盛り付けた。2人の関係を壊したくなかった。
2人はいつものように向かい合って食事を始めた。ハンバーグをナイフで切ると、中からチーズがとろりと溶けだした。一口食べた葵の顔が輝いた。
「このハンバーグ、絶品!」
「葵さんが作ったからだよ」
「ハソングンが教えてくれたからよ」
向かい合ってする食事。二人で一緒に作った料理だから、格別だった。そんな葵の笑顔をハソングンがじっと見ていた。
「何かついてる?」
葵の顏が熱くなってきた。
「葵さん、今日はいつもより、きれいだなと思って」
葵は心臓が止まるかと思った。いや、一瞬止まったかもしれない。そして早鐘を打ちはじめた。
「ハソングン、ほめるのがうまくなったね」
葵はとにかく、何も変わらない方がいいと思った。気まずくなるのだけは避けたかった。
ハソングンが微笑んだ。
食事の後はいつものようにソファに座った。葵は妙に緊張して、ハソングンが座っている方の右側の体がこわばっている気がした。いたたまれなくてテレビをつけると、バラエティ番組で、芸人のコメントにみんなが笑っていた。その時、葵の携帯が鳴った。メールの着信音だった。
「あ……あれ? 大ちゃんからだ、どうしたのかな」
ハソングンは聞き逃さなかった。携帯を見ている葵の様子をつぶさに観察した。
「フフ……なるほどね。さすが大ちゃん」
笑っている葵を見て、またハソングンの中に闘志がわいてきた。
「葵さん、なんて書いてあるの?」
「『先輩、明日は平成最後の日ですね。夜、お時間あったら、記念に何かしませんか?』だって。大丈夫。私、行かないから」
葵はすぐに行けないというお詫びの返信をした。
「平成最後?」
「そう。天皇陛下が変わるの」
「天皇陛下?」
「昔は王様のような存在だったけど、今は憲法の第一条に『日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』って書いてある。私たち国民にとって特別な存在ね」
「ふうん」
「明日は学校だけど、そのあとまた4連休があるよ。何かする?」
「葵さん、俺との同居がばれたら、スキャンダルなんだろ? 学校をクビになるよね?」
「うん……そうなるかもね」
「じゃあ、家から出ないで、家で一緒にできることをしよう」
家で一緒にできること……ハソングンはもう遊びに出る気はないようだ。葵の顔がほころんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます