第52話 新たな朝

「おにい、なんか痩せた?」


 新学期初日の朝、米倉家のリビング。

 回らない頭でリビングに降りてくると、フレンチトーストをもきゃもきゃしていた花恋が訊いてきた。


「1ヶ月分のカロリーを10日で消費したからな」


 言いながら、いつもの席に腰を下ろす。

 先月に比べ、お尻から伝わってる反発力が弱まっているように感じた。


 にゃーん。


「あ、シロップ!」


 どこからともなくやってきたもふもふな物体、シロップが俺の足に顔を擦り寄せてきた。

 気のせいか、いつもよりも甘えたな鳴き声。


「なんかめっちゃ懐かれてない? 死ぬのかな俺」

「おにい、ずっと部屋に篭りっきりだったから寂しかったんだよ、多分」

「おおおっ……そうかそうか、シロップ寂しかったかー」


 可愛いやつめ。


 なでなでなでなでうりうりうりうり。


 ぷいっ。


 とことこと、シロップはエサ入れのところに行ってしまう。

 

 そして俺を見て、『さっさと餌を寄越せ』と言わんばかりの視線を向けてきた。


「あーあ、構いすぎるから元に戻っちゃった」

「1週間分の寂しさ、さっきの10秒で終わっちゃったの?」


 今度は俺が寂しい気持ちになりつつ、いつもより多めに餌をあげた後、改めて席に座り直す。


「はい、おにいの餌」

「誰がシロップじゃ。ありがとう」


 椅子に座り、ニラトーストを頬張る。


 んむ、うまい。

 五臓六腑に染み渡って感動する美味しさだ。


「ニラトーストをそんなに美味しそうに食べる人初めて見た」

「気分は断食明けの修行僧だな」

「この春休み中、ずっと部屋で座禅してたもんね」

「座禅じゃないね、執筆だね」


 さくさくと、ニラトーストを頬張る。


 んまんま、うまい。

 うまい、のだけれど、なんだか物足りなさを感じた。


 ……ああ、そうか。

 そういえばもう、10日以上、凛の手料理を口にしていない。


 味覚が、凛お手製のたけのこ炊き込みご飯を欲していた。

 今日早速、リクエストするとしよう。


 いや、もしかすると今日のお弁当に入っていたりして?

 

「今日は執筆しないの?」

「今日は無理! マジで無理! もう指の感覚ないもん俺」


 今日は誰がなんと言おうと休養日であった。


「我ながらよくやったよ、ほんと」

 

 ふーー、と椅子に背中を預ける。


 満ち溢れる、清々しい充実感と達成感。

 身体はボロボロで疲労困憊なのに、心は今までにないほど満たされていた。


「おつかれさま、おにい」


 まるで、戦地から帰ってきた兄に向けたような、労りの言葉。


「……ああ、ありがとう」


 珍しく俺に優しい花恋に、自分でも驚くほど穏やかな声で返した。


「あ、そうそうおにい」

「ん?」


 朝食を食べ終わってまったりしていると、花恋が朗報を口にした。


「幸人くん、今度家来るって」

「ゆきとくん?」

「あっ、石川くんね」

「なんやて!?」


 ついに!?

 

「おにいの新作で人生が変わった、是非直接お礼を言いたいって」

「うおほほー、石川くうんー、嬉しいこと言ってくれるじゃないのんー」


 出前寿司のチラシどこへやったっけな。

 一番グレードの高い特上寿司で歓迎してあげよう。


 ……ん?


 ちょっとまて。


「時に花恋」

「なに?」

「石川くんのこと、いつの間に下の名前で?」

「えっ? あー、うん……」


 俺の問いに、花恋はぽりぽりと頬を掻き、顔をぽっと赤らめて、


「まあいいじゃん、細かいことは」


 いしかわあああああああああああああああああああああああああ!? 

 おまえええええええええええええええええええええええええええ!?


 なんて、な。

 

 お前なんかに妹はやらん!

 みたいな盲目系シスコン兄貴じゃあるまいし。

 

 ここは温かく見守ってあげるのが、兄としての正しい姿勢である。


 あ、でも万が一、花恋を泣かせるような事をしたら沈める。

 石川だろうが神奈川だろうが沈める。


 え、それはもはやシスコンだって?


 はっはっは、まっさーかー。


「絶対変な妄想してると思うけど違うからね? 幸人くんとは別に、そういうのじゃないから」

「またまた〜」

「うっわなにその笑顔きもいんだけどー」

「失礼な、心の底から祝福しているんだぞ!?」

「だからそういうんじゃないってば! ほんときもいからやめて! これだからラブコメ脳は」


 ちくちく言いながらも、顔を赤くしたまま、まんざらでもない表情の花恋。

 なんなら口元が緩んでいる、嬉しそうだ。


 ふっと、俺の口角も自然と持ち上がる。


 頑張れよ、花恋。

 心の中でエールを送る。


 お前が今抱いてるその気持ちは、人間が抱くあらゆる感情の中で最も尊くてかけがえのないものだ。

 俺はそう確信している。


 全くの他人同士、反りの合わない事もあるだろうが、きっと石川くんなら大丈夫だ。

 会ったことないけど、なんとなくそんな予感があった。


「でもやっぱり」


 不意に降ってきたみたいな調子で、花恋が口を開く。


「ファンタジーより、ラブコメ書いてる時のお兄の方が私、好きだなあ」

「いきなりどうしたやっぱりレンタル妹か?」

「おにいひどい! せっかく褒めてあげてるのに!」

「マジ褒めだったの!?」


 お、おおお……。


「花恋に褒められるなんて無さすぎてもはやリアクションがわからなくなってるけど……とりあえずやったぜ嬉しいひゃっほい!」

「子供みたい」

「嬉しい時は誰だって子供に戻るものさ。よし、じゃあこれを機に、花恋も甘々で甘ったるいラブコメデビューしてみるか!」

「読んだよ?」

「へ?」


 今、なんて言った?


「読んで、くれたのか……?」


 驚天動地だった。

 花恋が今まで俺の作品を読んでくれたことは一度もなかった。


 ちょっぴり恥ずかしそうに目をそらし、花恋はほのかに上擦った声で言う。


「石川くんがRINEでリンク送ってきて、めっちゃ面白いからって言うから、仕方なく、そう、仕方なく読んだだけっ」


 単純に俺の作品に興味が湧いたのか、石川くんに勧められたから読んだのか、どちらかはわからない。


 でも、


「というかなにあの内容っ? 読んでてすっごく恥ずかしかったし、おにいがこれを書いてると思うと、もっともっと恥ずかしかった!」


 小学五年生の語彙力を駆使し、言葉に表せないあまーを表現する花恋を見ていると、なんだろう……とても胸が熱くなった。


「でも……」


 どこか照れたような声色で、花恋が俺の作品をこう評価する。


「ヒロインへの愛がすごくて……なんか……きゅんって、なっちゃった」


 ……ああ、いいな

 嬉しい。


 たった一人の読者にさえ届けばいい、楽しんでもらえればいい。

 そう思っていた。


 だけどこうやって、俺が抱いて欲しかった感情が、俺が伝えたいと思った事が、ちゃんと他の読み手にも伝わっている。


 それが確認できて、言葉に言い表せない喜びを感じていた。


 書いて良かった。

 心の底からそう思えた。


「兄ちゃん、これからもどんどん書くから、応援よろしくな」


 穏やかな気持ちで言うと、


「……気が向いたら、また読む、かもしんない」


 ぷいっと顔を背ける花恋。

 でもその口元は、嬉しそうに緩んでいた。


 ぴんぽーん。


「ほら、おにい。愛しのヒロインが迎えにきたよ」

「誰がヒロインじゃ」


 にやにやと、先ほどのお返しとばかりに言う花恋。

 苦笑を浮かべつつ、支度を整える。


 久しぶりに背負うリュックは随分と軽かった。

 ノーパソが入っていないからだろう。


「それじゃ、行ってくる」

「いってらー」


 リビングを出て靴を履く。


 ふう、と一度息をついてから、ゆっくりと玄関のドアを開けると、


「おはようございます、透くん」


 春の暖かな風に揺れる、長い黒髪。


 思わずはっと息を呑むほどの端正な顔立ち。


 きちんと制服を着こなした凛が、ピンと背筋を伸ばして立っていた。

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