第12話 幼馴染とぎゅー

「今日はわかりやすく元気がないですね」


 昼休み、多目的室。

 お弁当をご相伴に預かりごちそうさまをした後、凛が訝しげに眉を寄せて言った。


「……そんな風に見える?」

「見えます、超見えます。いつもの気色悪い発言にキレがないどころか、そもそも言葉数が少ないです」

「俺が元気か元気じゃないかの基準って気色悪い発言が全てなの?」

「なにか、あったんですか?」


 じっと、漆黒の瞳に射抜かれる。

 隠す必要もないので、端的に述べた。


「ハグだ」

「は……ぐ?」


 初めて聞く犬の名前を耳にしたかのように、凛がこてりんと首を傾げる。


「わんちゃんの名前ですか?」

「それはパグだな」


 端折りすぎたようだ。

 改めて、今朝の感想の件について説明する。


 もちろん、童貞の部分は省いた。


「なるほど……」


 凛が合点の言ったようにふむふむと頷く。

 

「確かに透君には、少食さんに満漢全席を食べてもらうくらい荷が重い描写ですね」

「重すぎちゃう?」

「異性との身体的接触には縁のない人生を送ってそうですし」

「仰る通りなんだよなー。ハグなんて、生まれてこのかた……」


 そこまで言ったところで、脳裏に五感情報がフラッシュバックする。

 

 埃臭い教室。

 鼓膜を叩く泣き声。 

 唐突に覆い被さる体重と体温、甘い匂い。


「……一回だけ、したな」


 ぽつりと、胸の奥底に溜まっていた水が湧き出るように言葉を漏らす。


「あれはっ……」


 凛がわかりやすく声を上擦らせ、


「透君が、変なこと言うからです」


 ちょっぴり怒ったように言った。

 本気で怒っているわけではないことはわかる。


「悪かったって」


 シリアスな謝罪ではなく、ああそんなこともあったなぁ、あの時はごめんよ的な、笑い混じりの謝罪。


 自然に、凛の頭へ手が伸びた。


「へぁっ……」


 そのまま凛の小さな頭をわしゃわしゃと撫でる。

 掌(てのひら)から伝わってくる心地の良い手触り、確かな体温。


 頭部への刺激に弱い凛は、すぐに気の抜けた炭酸みたいに表情をとろんとさせた。


 ……可愛いなあ。


 普段はクールで素っ気ない凛の見せる、無防備であどけない姿に思わず頬が緩んでしまう。

 とはいえあんまりやりすぎると怒られるので、頃合いを見て手を退ける。


 すると凛は一瞬、名残惜しそうに「……もうおしまい?」みたいな表情を浮かべた。


 しかしすぐにハッと瞳を大きくして、今度はわかりやすく唇を尖らせる。


「な、撫でて誤魔化そうとしてもダメですっ」


 ほんのりと頬を赤らめ、むぅーと悔しげな視線を向けてくる凛。


 子供っぽい表情の様変わりがとても微笑ましい。


「まあ、あの時はぶっちゃけ俺もパニくってたから、しょうみ生まれて初めてのハグを堪能する余裕もなかったけど」

「堪能とか気持ち悪いんでほんとやめてください」


 恒例の毒を吐いた凛がそこで、ぴたりと動作を静止する。

 何かを考えついた時の表情。


 すると凛は、頬に滲んでいた赤を一層濃いものにしたかと思えば、腕を組み、うーうーと頭を悩ませ始めた。

 

「どうした、凛?」

 

 尋ねると、凛はちらりとこちらを見やってから、


「……しますか?」

「へ?」


 主語が省かれてて一瞬、なんのことかわからなかった。


「私とハグ……今度は落ち着いて、してみますか?」


 改めて言われて、思考が停止しそうになる。


 この子は一体なにを言ってるんだ?

 凛の態度や言葉の端々を精一杯辿ったが、どんな思考プロセスでその結論に達したのか、てんで見当もつかなかった。


 10年の付き合いがあって、こんなパターンは初めてである。


「勘違いしないでください。これはあくまでも、小説の描写で悩むどこぞの幼馴染さんのために、女神のように優しい私が手助けをしてあげようという超気まぐれです」

「女神すぎない?」

「崇め奉るような視線向けてこないでください気持ち悪い」


 いつもの毒を前置詞のように吐いてから、今度は真面目な表情で凛が口を開く。


「その……私は本気で、透君に作家さんになって欲しいと思ってるので……手助けできることは、したいのです」


 じんと、胸に熱いものが灯る。

 同じタイミングでハッと、凛が今思いついたような表情をして言った。


「な、なのでこれはあくまでも取材、そう、取材ですっ、だからなにも疚しいことはありませんっ」

「な、なるほどっ、取材か、取材なのね」


 よくよく聞くと破茶滅茶な事をやけに早口で言う凛に、俺もよくわからん納得をしてしまう。


 というか俺は俺で混乱していた。

 まさかこんな展開になるとは思ってなくて、正常な判断力を失ってしまう。


「で、どうなんですか?」


 考える間も与えられず、決断を迫られる。


「するんですか、しないんですか?」


 そう尋ねてくる凛からは、2つの感情が受け取れた。


 ひとつはわかりやすく羞恥。

 顔の表層部はもはや赤くない部分を見つける方が難しく、視線もうろうろと行き先を見失っている。


 もうひとつは……焦り?

 

「さっさと決めないと私はしない方向と判断しますよ?」

「や、ちょっと待って待って」


 慌てて言ってから、率直な欲求を言葉にする。


「えーと……したいです、はい」

「……なら、最初からそう言ってください」


 小さく呟き、ぷいっと顔を背ける凛。

 ぴんと気をつけの体勢で佇まいは凛としているのに、よく見ると表情がぷるぷると震えていた。


 なんだかよくわからんけど、とりあずそういう展開になってしまったのなら仕方がない。

 

 腹を括って、息を大きく吸い込み、改めて凛に向き直る。


「……じゃあ、するぞ?」

「……やるならひと思いにお願いします」


 凛の要望は、叶えられなかった。

 ゆっくり、おずおずと、自分の意思で、凛の身体に両腕を伸ばす。


「んっ……」


 距離が完全にゼロになって、身体の前面部にやけに高い体温を感知する。


 そのまま凛の背中に腕を回し、遠慮気味に力を入れた。


 衣擦れの音、自分以外の吐息、熱、鼓動、そして、柔らかい感触。


 優しくて安心感をもたらす甘い香り。


 初めて抱きしめた凛の身体は想像以上に華奢で、折れてしまいそうなほど頼りなかった。

 その小さな体躯からは、僅かな強張りを感じる。


 しかしそれは、徐々に解れていった。

 凛の身体が脱力する気配が伝わってくる。

 そしてまるで俺に身を任せるかのように、凛は俺の肩に顎を乗せてきた。


 胸の上あたりがきゅうっと締まる。


 これは多分、愛おしいという気持ち。


 凛のことが好きだなあという、幸せな気持ち。


 もっと触れ合いたい、そんな欲求がマグマのように噴出してきて、俺はいっそう腕に力を込めた。


「ひぅっ」

「あっ……悪い。痛かったか?」

「い、いえ、平気です、こんなのお茶の子さいさいです。というか私の心配より、しっかりと取材をしてください」

「あっ、ああ……」


 やっぱり早口な凛の言葉で当初の目的を思い出し、神経を研ぎ澄ませる。


 抱き締め心地は柔らかくて、温かい。

 甘ったるい匂いが、綺麗な首筋から強く漂ってくる。

 繊細な髪先が鼻先を撫でてくすぐったい。


 刺激の強い情報が脳に次々と流れ込んできたが、不思議と俺の心は平穏を保っていた。

 まるで今この多目的室だけ外界と切り離されているかのような、ゆっくりと時間が流れているような感覚。


 言葉にできない多幸感が、じんわりと全身を満たしていた。

 ずっとこうして凛のぬくもりを感じていたい、心の底からそう思った。


 しかし心臓はドキドキと破裂するんじゃないかってくらい高鳴っている。


 この騒がしい鼓動を聞かれてないだろうか。

 それだけが、唯一の気がかりだった。


「心臓の音、すごいです」


 なんということか、凛は俺の唯一の気がかりを言葉にした。

 もう顔から火が出るんじゃないかってくらい恥ずかしくなって、凛の首元に顔を埋めた。


 甘ったるい匂いがより強くなる。


「ひあぅっ……」


 聞いたことのない、凛の短い悲鳴。

 嬌声にも似た声に俺の心がビクッとなった。

 

 押してはいけないスイッチを押してしまったかのような、やってしまった感。


「も、もう大丈夫!」


 これ以上はまずい気がした。

 なにがまずいかってすぐには言語化はできないけど、なんかいろいろとまずいことになりそうな直感があった。


 身体を離す。


 徐々に温もりが薄れていき、代わりに名残惜しい気持ちが胸内に湧き出る。


「……参考に、なりましたか?」


 甘い残り香が漂うなか、シロップを染み込ませたような表情で、凛が訊いてくる。


「……とても、参考になりました」

「……そう、ですか」


 そこに、いつものテンションのやり取りはなかった。


 終わってみれば、一体自分は何をしていたんだという冷静さが戻ってきてその場で身悶えたくなる。


 凛も同じような気持ちのようだった。


 しばらく間、お互いの顔を見ることができずただただ無言で赤面し合っていた。

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