第43話 想いを伝えるその前に


 ──随分と、懐かしい夢を見ていた気がする。


 額が優しく、撫でられる感覚。

 暗い底に沈んでいた意識が浮上し瞼を持ち上げると、視界に凛の整った顔立ちが映った。


 まん丸くした目をぱちぱちと瞬かせている。


「すみません、起こしちゃいましたか」

「いや……」


 うまく回っていない思考のまま、重い上半身を起こす。

 自宅とは違う間取り、匂い、空気。


 窓の外から見える景色は、随分と照度が低いように見えた。


「……今、何時?」

「6時です」

「うわ、もうそんな時間か」


 ぼやけた頭で、経緯を思い起こす。

 お昼を買いに行く途中で薫さんに遭遇し、浅倉家でお昼をご馳走になったあと……。


『凛の部屋にお布団敷いたから、一眠りしちゃいなさい』

『え』

『まだ熱あるんでしょう? いいから、遠慮しないで』


 なぜ凛の部屋?

 という疑問を投げかける間も無く、あれよあれよの間に凛の部屋でお昼寝することとなった。


 回想終了。


「驚きました。帰宅したらまさか、私の部屋で見知らぬ男の人が寝てるんですもの。お母さんの置手紙がなかったら、即刻110番案件です」

「いや、そこは見知ってから判断しよう?」

「布団の膨らみで透くんだとわかりましたよ?」

「そんなわかりやすいサイズ感してるっけ俺。てか、わかってても通報されるんかい」

「当然です。きっと部屋主不在をいいことに、私の私物を使って如何わしい行為に耽っていたのでしょう。ああ気持ち悪い」

「しないわそんなこと!」

「冗談ですよ。透くんは物程度じゃ興奮しないベテランのど変態さんですものね。なんなら私、今の方が身の危険を感じてるくらいです」


 相変わらず息をするように毒を吐く凛。

 ふと、胸に温かい気持ちが宿って、手を伸ばす。


 流れる動作で、凛の頭を撫でる。


 艶々(つやつや)とした肌触り。


「んぅ……なんですか?」

「いや……」


 手厳しい言葉を聞いてたらなんかしたくなった、とか言ったら、どんな反応をするのだろう。

 まだ熱があるんじゃないかと本気で心配される未来が見えたので、大人しく手を引っ込めた。


 気のせいか、凛は少し、名残惜しそうにしていた。


「体調、大丈夫なのですか?」

「ああ、おかげさまで」


 熱はだいぶ下がっていた。

 身体も、朝と比べて鉛と紙くらいの差がある。


「やっぱ一過性の熱だったっぽい。明日は普通に、学校行けると思う」

「明日は学校、ありませんよ」

「あっ、土曜日か」

「というか、春休みです」

「あーー!! そうか、そういえばそうだった」


 すっかり失念していた。

 長いのか短いのか微妙な10日程度のお休みに、もう突入してしまっている。


 つまりこれが意味するところは、


「じゃあ当分、凛の手作り弁当はお預けか。しまったなー、今日がラストチャンスだったのに」


 そのことが、何よりも悔やまれた。


「別に、言ってくれれば」


 ぼそりと小さなボリュームで、凛が言う。


「お休みの間に、作りに行き、ますよ」


 目を逸らし、表情に恥じらいの色を浮かべる凛。

 それはもう、撫でたい欲が爆発するくらい可愛かった。


「へぁっ……」

 

 シロップを撫でるように凛の頭をわしゃわしゃする。

 

「なにするん……ですかぁ……」


 言う割には、満更でもなさげだった。

 声には、嬉しみの感情が伺える。


「ありがとう。でも来てもらうのは悪いから、俺が出向くよ。良い?」


 撫で終えてから訊く。

 凛は頬をりんご色にしたまま、一度だけこくりと、頷いた。


 その可愛らしい仕草に、胸がどくりと跳ねる。


 ……ああ、やっぱり、好きだなあ。


 改めて、思う。


 その可憐な顔立ちも、あどけない仕草も、ツンツンしているように見えて実は甘えん坊なところも。

 素直なところも、努力家なところも、意地っ張りなところも。


 好きだ。


 ちらちらと、凛が伺うように視線を寄越してくる。

 きっと内心では、俺の不調を原因を知りたい、出来ることなら力になりたい、そう考えているのだろう。


 そんな、優しさに溢れたところも。


 好きだ。


 全部全部、大好きだ。


 そして凛も、俺のことを想ってくれている。

 ここ最近の凛の言動、行動、薫さんの言葉で、それはもう揺るぎない事実であることは明白だ。


 ……だったらもう、それでいいじゃないか。


 俺は凛のことが好き。

 凛も俺のことが好き。


 お互いの好きをもっと深めるために、幼馴染という関係性を一歩踏み込んだものにシフトさせる。


 そうしたほうがいいし、俺もそうしたい。


 今までそれが出来なかった理由をそらに浮かべる。


 俺はまだ、凛の横に立てるような人間じゃない。

 プロの小説家になってから、凛とはそういう関係になりたいという、自分に課していた呪縛。


 ふざけんな。

 そんなのはただ、俺が自分自身を許せないだけのエゴじゃないか。

 

 自己満足だ、独りよがりだ。

 内心では凛のことを一番好きとか言いながら、結局一番好きだったのは自分自身じゃないか。


 そんなくだらない思考がずっと、ずっとずっと、凛を待たしてしまっていた。

 もうこれ以上、凛を待たせるわけにはいけない。


 中途半端な関係はもう、今日で終わりだ。


 伝えよう、想いを。


 腹は決まっていた。

 さほど緊張は無かった。

 

 ……でも、その前に。


 ある決意を、先に告げなければならない。


 考え、悩み、心の中で固めた、とある意思を。


 俺の決断を許して欲しい、そんな気持ちがあったんだと思う。

 

「なあ、凛」

「はい、なんでしょう?」


 こてりと首を傾げる凛はきっと、驚くだろう。

 悲しむかもしれない、怒るかもしれない。


 でも、それでも……これはもう、決めたことだ。


 拳を硬く握る。


 長い間、俺の夢を応援してきてくれた凛に向けて、重い口を開く。




「俺、小説書くの、やめようと思うんだ」



「………………え?」




 俺が何を発したのか理解できない、といった沈黙の後。

 やっぱり何を言ったのか理解できない、という表情を、凛は浮かべた。


 胸に、ぴりりとした痛みが走った。

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