第44話 私は透くんの

「俺、小説書くの、やめようと思うんだ」


 言い終えた途端、判決を待つ被告人のような気持ちになった。


 部屋の空気が、ずっしりと水銀を含んだかのように重くなる。

 かろうじて夕焼け色を残していた空が、完全に闇に染まる。


「………………え?」


 最後のひと絞りみたいな声。 

 整った面持ちに、捨てられた子猫のような怯えが滲む。

 

「冗談、ですよね……?」


 俺は首を振る。

 これが冗談じゃないことは、纏う空気でわかるだろう。

 

「ど、どうしてですか……!? そんな、いきなり……」

「書けなくなったんだ」


 詰め寄る凛に、端的な言葉を告げる。


「書けなく、って……」


 意味がわからないと、呆然とする凛。

 俺は淡々と、事実を述べた。


「三日前から、今日まで一文字も書けてない。書こうとしたら、吐き気と頭痛がして、身体が動かなくなって……」


 説明するにつれて、凛の表情が驚きの色に染まっていく。

 そしてハッと、合点がいったように目を見開く。


「もしかして、今日、体調を崩したのは……」

「無理やり書こうとした結果だと思う。多分、相当な負荷がかかってたんだろうな」


 拒絶する回路に無理やり電流を流そうとした結果、ショートしてしまった。

 単純な話だ。


 愕然としていた凛だったが、すぐ首を振って、


「で、でもっ」


 拳をぎゅっと握り、懇願するように声を張った。


「一生書けなくなったわけじゃ、無いじゃないですか! あと1週間……いえ、1ヶ月経ったら書けるかもしれない、それまでゆっくりお休みして……」


 そっと、ほのかに赤らんだ頬に手を添える。


 言葉を飲み込む凛に首を振り、静かな声で言った。


「もう、いいんだ」


 視界が、瞬く。


 自分からこんな声が出るとは思ってなくて、軽い驚きを覚える。

 こんな、全てを諦めたかのような……。

 

「もう、充分やった、疲れたんだ」


 本心だった。


 思い返す。


 『食おうぜ』で書き続けた、5年間の日々を。


 書籍化を目指し、ランキングや流行と睨めっこにして、毎日文字を生み出し続けた。

 凛と交わした約束を果たすため、自分の書きたいものには蓋をして、ひたすら売れ線を書き続けた。


 その結果俺は……創作本来の楽しさを忘れてしまった。


 じゃあ一旦、読者受けなんか置いといて、自分の書きたいものを書けばいいじゃんという話だろう。


 しかし今の俺は、ひたすら他者の欲求に耳を傾け続けた結果、自分が何を書きたいのかがわからなくなっていた。


 自分の心の声が、聞こえなくなっていた。


 売れ専を書こうとしても、身体が拒否をする。

 自分の書きたいものも、もうわからない。


 というかもう、書くという行為自体、苦痛になっていた。


 心が、擦り減ってしまっていた。


 成果が伴うのなら、まだ良かった。


 だが、それも伴う気配はない。


 もう嫌というほど痛感した、俺は凡人だ。


 ラインを突破できるだけの才能もセンスも無い。

 読者の心を揺さぶる魔法を、俺は手に入れられなかった。


 あと何年か、何十年か続ければ努力の量で突破できるかもしれない。

 しかしそれも確実性はない、そうであればいいなぁという、ある種の願望だ。


 そんなゴールの見えないマラソンを走り続けられる気力は、俺には残っていない。


 これ以上、さして楽しくも希望もない事に労力を、時間を、人生を使うくらいだったら。

 すっぱりやめて、時間を別のこと……例えば、大切な人と過ごす日々に、使うべきだ。


 それが、俺の出した結論だった。


 という旨のことを、凛に掻い摘んで説明した。

 自分でも驚くくらい、落ち着いて説明できた。


 するすると言葉にできたあたり、もう心の中では結論が出ていたのかもしれない。


 凛は俺の説明中、ずっと何か言いたげだったけど、耳を傾け続けてくれた。

 拳を何度もぎゅっと握り、唇を硬く結んで。


 一区切りのつもりで息をついてから、また口を開く。


「これからは、今まで小説に充てていた時間を、全部凛のために使おうと思ってる」


 俺の言葉に、凛が息を呑む。


「凛の言うように、もっと時間を置けば書けるようになるかもしれない。でも、書けるようになったところで、また今までの日々を繰り返すくらいなら……俺は、凛と一緒にいたい」


 逆に考えよう。

 書けなくなったのはむしろ、いい機会なんじゃないかと。


 どこにでもある、ありふれた幸せへの第一歩なんじゃないかと。


 脳裏に、温かな光景が浮かぶ。

 食卓を、すっかり大人になった俺と凛が囲っている。


 『──そういえば俺、小説家を目指してた時期があったな』

 『ありましたね、そんなこと』

 

 懐かしいですと、凛が優しく笑う。

 ああ、そうだなと、俺もつられて笑う。

 

 その場には他に、新たな命も同席しているかもしれない、そんな風景。


 それが目指すべき、幸せの形なんじゃないだろうか。


「もし何年か、何十年か経った時、心境の変化が起きて書きたくなったら、その時は書こうと思っている」


 少々駆け足気味に、本心を口にする。


「でも今は何よりも、凛のことを優先したい。だから……」


 僅かに震えた声で結論を、言葉にする。


「俺は、小説を書くのを止め……」

「諦めないでください!!!!」


 紡がれようとした言葉は、今まで聞いたことのない声量によって塗り潰された。


 まるで、限界まで膨らませようとしていた風船が破裂したかのような。

 我慢に我慢を重ねた末に大爆発を起こしてしまったような、そんな声。


 驚いて、凛の顔を見る。

 その面持ちには、様々な感情が渦巻いていた。


 怒り、悲しみ、悔しさ、後悔。


 その中で一番大きな感情は……怒りだった。


「約束、したじゃないですかっ……小説家になるって、紙になった本を……一番最初に読ませてくれるって……」


 凛が、詰めるような剣幕で迫ってくる。

 その圧を真正面で受けつつも、ああ、やっぱり、そりゃ怒るだろうなと、どこか冷静に反応を見守る自分がいた。


 覚悟はしていた。

 約束を反故にした俺に、凛は怒りを覚えるだろうと。


「それについては、本当にごめん。心の底から、申し訳ないと思っている……ずっと待ってるって、楽しみにしてるって言ってくれたのに、こんな形になっちゃって……凛が怒るのも、無理は……」

「違います!!」


 強い否定。


「私が怒っているのは約束のことではなく……いえ、約束のことも怒ってますけど、何よりも一番怒っているのは」


 ──どうやら俺は、また思い違いをしていたらしい。


「透君が、自分に嘘をついていることです!」


 その言葉の意味を理解するには、視野が狭くなっていた俺の脳みそだけでは足りなかった。


「う……そ?」


 二文字の単語を空気に乗せて、眉を顰(ひそ)める。


「ええ、嘘です。透くんは自分の気持ちに嘘をついています。さっき透くんは言いましたよね、『もういい』って、『もう充分やった』って、それ、絶対全部嘘です」


 矢継ぎ早に言われて、言葉を返す暇もない。


「本心では透くん、全然、『もういい』とも『充分』とも思っていないです。『全然よくない』『全然足りない』、そう思っています、絶対に」

「なん、で……」


 ようやく声を発した時、心の中でじゅくじゅくと疼く火種のような感情を捉えた。


 これは……苛立ち?


「なんでわかるんだよ、そんなこと」

「わかりますよ」


 語気に力が篭る俺に構わず、凛が即答する。


「幼馴染ですから」


 それは、どんな言葉よりも強い説得力を持っていた。

 言い訳も、取り繕いも、誤魔化しも、すべてを霧散させてしまうような、強い言葉。


「透君は嘘をいう時、瞬きの回数が増えるんです」


 思考が、じんわりとホットフレートのように熱を帯びる。


「だから、透くんのさっきの言葉は、絶対本心じゃありません、本当は……」

「もういいんだって」


 必死に隠していた事実を暴かれそうになって、無理やり隠すかのように、凛の言葉を遮る。


「充分やった、頑張った。満足してるし、諦めはついてる」


 一言一句、力を込めて言う。

 凛がわかってくれるよう本心を強調するように、ではなく、自分自身に、言い聞かせるように。


「だからもう、小説は書かない。自分の中で、そう決め……」

「だったら、どうしてっ……」


 今度は凛の悲痛に満ちた声が、俺の自己完結を遮った。


「どうして透君は……そんな、辛そうな顔してるんですか?」

「…………え?」


 湿り気を帯びた、凛の問い。


「本当に割り切れてるなら、満足してるなら……」


 懇願するような面持ちから、核心が放たれる。


「そんな、辛そうで、苦しそうで、今にも泣きそうな顔、しないはずです。本当は諦めたくない、作家さんになりたいのにって、そんな悲鳴が聞こえてきます」


 瞳の奥に、じんわりと熱いものが灯っていることに、今、気づいた。


 ……ああ。


 悟った。

 やっぱり、誤魔化せない。


 理性と感情を分離し、見えないようにしていた自分自身の本心。


 それさえも、凛は見破った。


 心の奥、底の底に無理やり抑え込んでいた激情が、鉄砲水のような勢いで溢れ出す。


「……わかってる」


 言葉にしたらもう、止められなかった。


「わかってんだよ、それくらい!!」


 思わず、声を荒げていた。

 壁を、床を、ぶん殴りたい衝動に駆られたが耐えた。

 

 代わりに、目一杯エネルギーを込めた言葉を吐き捨てるようにしてブチ撒いた。

 

「頭ではもう無理だ、諦めたほうがいい、どうせ時間の無駄だって思ってるくせに! 心の中では諦めきれない、小説家になりたい、そんな未練タラタラでどうしようもない矛盾状態になってる、それが今の俺だ。そんなこと、嫌というほどわかってんだよ!!」


 俺は怒りを覚えていた。


 誰に? 


 他でもない、俺自身に。


 重油のようにドス黒い感情が土石流のように溢れ出てくる。


 こんなみっともない姿、凛に見せたくないのに、止まらなかった。


「でも、もう……どうすればいいか、わかんないんだよっ……」


 同時にどうしようもなく、心が悲鳴をあげていた。

 胸のあたりで凍えるような風がびゅうびゅうと吹き荒れる。


「何万、何十万、何百万文字書いてきてわかった。俺にはセンスも才能も無い、読者を感動させる魔法なんて論外だ。これ以上やっても結果は同じだ、ずっと前からわかってんだ」


 いくら努力を重ねようとも越えられない壁。

 どうにもならない現実に対する焦燥感。


 身が引き裂かれるような悔しさを何度も何度も、数えるのが嫌になるくらい覚えていた。


 でも、


「それでも、小説家になりたい、楽しみにしてくれている読者の皆に、物語を届けたい、それだけが支えでなんとか書いてきたのに……」


 自分の手のひらを、見つめる。


 五年間、毎日キーボードを打ち続けた手。

 三日前から、物語を作るのを止めてしまった手。


「書くことも、できなくなった。頭も身体も手も指先も、こんな小説なら書かないほうがマシだって、ストライキしちまった」


 書けなくなったのは、心因的なものだ。

 書いてても楽しくない、言ってしまえば書きたくないという本心に蓋をしてコツコツ書き続けた結果、心が拒否反応を起こした。


「俺はもう、書けない」


 全部全部。


「もう、書きたくない」


 俺の、自業自得だ。


「もう、疲れたんだよ」


 なにも考えたくない、そう締めた。

 

 言葉とともに、重い鎧がするりと身体から抜け落ちる感覚がした。

 溜め込んでいたものも、汚い感情も全部吐き出して、どこか清々しい気分ですらあった。


 しかし、凛の表情を見ることができず、ただ俯く。


 きっと幻滅されただろう、失望されただろう。


 でも、仕方がない。


 これが俺だ、紛れもない自分自身だ。


 ああほんと、向き合えば向き合うほどダサいやつだ、俺という人間は。


 今すぐこの世から消え去りたいほどの自己嫌悪に、苛まれた。




 そんな俺を──凛は、見限りはしなかった。




「本音で話してくれて、ありがとうございました」


 春の陽だまりみたいな声。

 

 面を上げる。

 

 凛は、ふんわりと柔らかいシフォンケーキのような笑みを浮かべていた。

 それは穏やかで、慈愛に満ち溢れた、愛おしそうなもの。


 なんでそんな、全てを受け入れてくれたような顔……。


「大丈夫です」


 懐かしい、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「透くんは、ここで折れるような人じゃありません」


 凛が身体を寄せてきて、俺の背中に腕を回してくる。


「透くんの強さを、私は知っています」


 そのままぎゅっと、抱き締められる。


「透くんはちゃんと、自分の無力さにも、間違いにもちゃんと向き合って、前に進める人です」


 そして背中をゆっくりと、壊れ物を扱うかのように撫でられる。


「透くんは透くんが思っている以上に、強い人です、凄い人なんです。私がそれを、誰よりも知っています」


 凛の温もりが、凍り切った心をじんわりと、溶かしていく。

 

「だから、大丈夫です」


 優しい言葉、俺を勇気付ける言葉が、美しい旋律となって鼓膜を、心を震わせる。


「少しだけ休んだらすぐ、透くんは書けるようになります。それからはもう、一直線です。透くんはじきに、作家さんになれます」


 まるで、未来を見てきたかのような、確信に満ち溢れた言葉。

 俺はようやっと、口を開くことができた。


「そんなの……わからないじゃないか」

「わかりますよ」


 即答される。

 声を震わせる俺を、凛はもう一度、力を込めて抱き締めた。


 そして、どうしようもなく弱気になってしまった俺に、言葉を贈った。


「だって、私は……」


 ──幼馴染ですから。


 聞き慣れたフレーズが続くと思った。


 続かなかった。


「私は、透くんの」



 ──これ、あなたが書いたのですか?


 ──とっても、面白かったです。



「世界一の、ファンなんですから」


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