第34話 幼馴染の懇願

 夕方、自室のベッド。


 凛が唐突に、なんの前触れもなく、俺を抱き締めてきた。

 その事実に対する「なぜ?」は、凛の次の言葉で封じられる。


「……無理、してますよね?」


 耳元で囁かれる、憂いを帯びた声に心臓が飛び上がる。

 ただでさえ大きく高鳴る鼓動が、このままだと爆発してしまいそうだ。


「なんの、こと?」

「とぼけたって無駄です。今の透君は、慢性的な睡眠不足に陥った生活習慣バグり野郎です。不良さんたちがマシに見えるくらいです」

「バグり野郎って」

「バカ野郎、のほうが正しいですかね」


 いつもの毒舌ではない、ほのかに怒気を纏った声。

 思わず息を呑み込む。


「先日、膝枕をした時」


 ぽつりと、凛が溢すように言う。


「透君、ずっとこのままでいたいと言いましたよね」

「ああ……」


 言ったような気がする。

 てか、俺のことだから多分言った。


「今日もまだお疲れのようでしたので……こうしてゆっくり、癒して差し上げようと思いお邪魔したのですが」


 ぎゅうっと、凛が俺を抱き締める腕に力が篭る。


「そもそもの疲労の根源を、払拭しなければいけないと思いました」


 疲労の根源。

 それの意味するところは……。

 

「私は、透君が無理をしてまで頑張って欲しいとは思いません」


 ぽたりと、涙が溢れるような声。


「確かに透君は、私と約束してくれました。作家さんになって、一番初めに、私に本を読ませてくれると」


 蘇る、過去の記憶。


 中学1年の帰り道。

 絶賛中二病を拗らせていた俺は、今思えば顔を覆いたくなるような臭セリフを吐いた。


 だけど、


「それはとても嬉しく、いつかそうなってほしいと、心の底から思いました。今も、その気持ちは変わりません」


 当時の俺の言葉を凛はずっと、ずっと大事にしてくれていた。

 まるで、生まれて初めて買った電車の切符を宝物にするかのように。

 

 胸に、冬の日の暖炉のような温かさが灯る。


「ですが」


 くしゃりと、凛の手が、俺のワイシャツに皺を作る。


「それよりもなによりも、透くんが元気であることが重要です。もしこのまま無理をして、透君が倒れでもしたら私は……」


 そこで言葉は途切れた。

 まるで、その先を告げると言霊のように現実になってしまう、それを忌避するかのように。


 代わりに深く、深く、ワイシャツに皺が刻まれた。

 まるで縋るように、温もりを確かめるように、凛は一層強く俺を抱き締めた。


「だから、お願いですから」


 これが本当に伝えたいことだと、確かな意思を灯して、


「無理だけは、しないでください」


 悲痛に満ちた言葉に、頭をガツンと鉄筋コンクリートでぶん殴られたかのような衝撃が走る。


 ……ああ、なんて馬鹿なことを。


 噴き出して止まらない自責の念、申し訳なさ。

 もし分身の術が使えるなら、もう一人の自分に頭を思い切りぶん殴って欲しかった。


 それすら叶わない愚かな俺は、半ば衝動的に凛の背中へと腕を回した。


 凛との抱擁は、人生で4度目。

 今まで抱き締めてきた中で一番、凛の身体が華奢に感じた。


「ごめん、本当に……ごめん」


 謝罪の言葉しか、浮かばなかった。


「俺……凛の気持ち、全然考えてなかった。自分のことばっかりで……」


 焦っていた。

 余裕がなかった。

 周りが見えていなかった。


 そんなのは全部言い訳だ。


 世界で一番大好きな女の子を心配させてしまった。


 凛を、悲しませてしまった。


 俺の自分勝手が、そうさせた。

 

 その事実は変わらない。


 ぎりっと、血が出てしまうんじゃないかと思うほど下唇を噛みしめる。

 ぐぐっと、指が折れてしまうんじゃないかと思うほど拳を握りしめる。

 

 己に対する許せなさを、身体の節々にエネルギーを与えて放出した。


 しかしそれでもまだ足りず、確かな罪悪感は胃袋を裏返してしまいそうな作用をもたらした。


「そんなに、自分を責めないでください」


 先程とは一転、優しい声。


「透君が頑張り屋さんなのも、スイッチが入っちゃうと一直線になってしまうのも、私は知っています」


 穏やかな声に、自己嫌悪が増幅する。


「それに私も……頑張ってる透くんを見て、ちょっと嬉しいと、思ってしまいました。だから、おあいこです」


 この期に及んでも、俺を気遣う言葉。

 罪悪感が、夜風に吹かれた木の葉のようにざわざわする。


「でも俺は……凛を悲しませて……」

「私のことは、いいんです」


 自責の言葉がふわりと、凛の声によって遮られる。


「私は何年でも、何十年でも、おばあちゃんになったって……のんびり待ってますから」


 凛の手がそっと、俺の頭に伸びてくる。


「だから、私のことは気にしないでください」


 そのまま頭を、撫でられる。


「焦らないでください。ゆっくりで、いいんです」


 優しく、優しく、撫でられる。


「私のこと以前に、透君はまず……自分のために、夢を叶えてください」


 その言葉は、幼き頃の感覚を胸に呼び起こした。


 そもそも俺が小説家を目指したのは、佐藤めーぷる先生のようになりたいと思ったから。


 俺もめーぷる先生みたいに、ひとり机に向き合い淡々と物語を作る孤高の存在になりたい、本気でそう思ったから。


 その気持ちをまず大事にしてほしい。


 私のためじゃなく、自分の気持ちをまずは大事にしてほしいと、凛は言うのだ。


「……そうだな」


 凛の身体に、自分から身体を寄せる。

 

「その通りだ」


 凛の肩口に顔を埋める。


 甘くて優しくて懐かしい匂い。

 自分よりも高い体温、柔らかい感触。


「ちょっと、焦り過ぎてた」


 凛の温もりを、匂いを、全身で感じながら言葉を漏らす。


「このまま突っ走ってたら多分、身体、壊してたと思う」


 体調の異変は自分でも感じ取っていた。

 凛も心配してくれていた。


 それでも不規則な生活を続けたのは、凛の言う通りスイッチが入っていたからだろう。

 周りだけでなく、自分さえも見えなくなっていたのだろう。


「でもそれじゃあ本当に、本末転倒だよな」


 だから、と言い置いてから、思考が確かに変わったことを示す言葉をはっきりと告げる。


「これからは、自分のペースで書くよ」


 自分に言い聞かせるように、凛を安心させるように言うと、


「……はい」


 耳元で今日、凛がはじめて嬉しそうな声を弾かせた。

 ふっと安心したように、強張っていた凛の腕から力が抜ける。


 その分を補うかのように、今度は俺が凛の身体をぎゅっと抱きしめた。


「でも、あれだな」


 思いつき、軽い調子で口を開く。


「流石に成人するまでには、小説家になりたいな」


 凛に早く気持ちを伝えるために、という意味でも。


「なれますよ、透君なら」


 凛がまた、俺を勇気付ける事を言う。


「透君が頑張る姿を、一番間近で見てきた私が保証します。きっと近いうちに、なれますよ」


 まるで、俺の書いてきた小説を読んできたかのような口ぶり。


 俺の『小説で食おうぜ!』でのペンネームはもちろん、作品も、凛には教えていない。

 今俺が何を書いているのかを、凛は知らない。

 

 だから恐らく、何らかのフィーリングからきた言葉なのだろう。

 俺ならきっとやり遂げてくれるという、根拠のない自信。


 でも、それでも、嬉しいことには変わりなかった。


「ありがとう、凛」

「どういたしまして」


 再び、凛の身体をホールドし直す。


 そのまましばらくの間、俺と凛は無言で、お互いの体温を共有し合った。

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