我が狩り場はこの街全て
第14話 狩られし者
登場人物
―白人男性…近頃何か異様な気配を感じる社会人。
一九七五年九月:ニューヨーク州、マンハッタン、チェルシー
悪意あるものはこの世に確かに存在している。文字通りそのような隣人がいる場合もあるし、あるいはテレビやラジオの向こうの世界でそのような輩の存在を知る事もある。
時に信じられないような悪意を湛えた架空の存在を目にする事もあり、そのような時は人間の作家の想像力の豊かさにただただ圧倒されるものだ。
今日もまた、偉大なホラー作品の類いが生み出されている。
しかし、そのような悪意あるものが身近にいるとなるとそれは話が異なってくる。身近にいて、その害を己が被る場合は前提条件からして異なってくるのだ。物好きを除けばそのようなものに関わりたくなど無いのが世の常だ。
だが時折、運が悪いとかの理由でそれらに関わらされてしまう不幸者がいるものだ。悲しい事にそうした人々の末路は確率的に言ってあまり芳しくない。
忌むべき事実だが、大抵の人は理不尽な悪意に抗うのがあまり得意ではない。
そしてそうした人の弱さにつけ込んで、己の邪悪な行ないへの渇望を満たす者もいる。それは多くの場合同じ人間だが、そうでない場合もある。悪意を持つのは何も人間に限られた話ではなく、そのいい例が先日ロングアイランドで滅ぼされた廃病院の怪物であろう。
想像を絶する邪悪を目にした事はあるか? 彼はそのような問いが頭の中で先程から何度も行き来している。
むしろ、そう考える事で正気を保ち精神が崩れるのを防いでるのかも知れなかった。そうでもしないと狂いそうに思えた。
視線を感じる事が増えた。それはどこにいても、誰もいなかろうと大勢いようと、消える事が無い。錯覚だと思いたいが、しかし否定できない漠然とした感覚。
夢や寝惚けであって欲しかったが、実際にはそうでもなかった。
ここ数日は家にいてもそれを感じ、思い切ってクローゼットを開け、
何もいなかった。ちりちりと胸の奥、そして胃の辺りで燻る何か。
その何かは徐々に痛みに変わっていた。緊張感が抜けず、嫌な汗が止まらず、寝ても醒めても目が寝不足のように痛んだ。
かさかさになった唇の皮を苛立ち紛れに噛んで余計に荒れされ、ひりひりしていた。
誰もいない部屋の中を見渡した。何も異常なものは見えなかったが、それが余計に不安を煽った。それは『気のせいだ』という期待混じりの不安であり、最悪の同居人に思えた。
一方の辺の壁にのみ仏教の曼荼羅の一部を塗り潰したかのようなよくわからない地味な色合いの模様が斜めに並んで敷き詰められた部屋の中で、それらの模様をそれとなく凝視した。
何かがぼんやりと見え始めるのを期待した。そうすれば大声を出して部屋を飛び出せそうな気がしたからだ。しかし何も起きなかった。
締め切った窓のカーテンからは夜の街明かりが漏れており、眠らぬ世界都市の喧騒がガラス越しに聴こえていた。
つまり己は世間と切り離されていはいないはずなのだ。だというのに、どうしてここまで不安に思えるのか。
それが嫌でたまらなかった。明日思い切って同僚達に話そうか。外装が煉瓦造りのアパートの九階で彼は孤独に震えた。
椅子から立ち上がって、黄変した緑色の電話から受話器を取った。
もういっそ、今誰かに電話しようか。気が付くと彼は電話の呼び出し音が鳴っている事に気が付いた。だが結局相手が出る前に彼は電話を切った。
急に自信が無くなった――どのように説明すればいい? 『一切証拠は無いけど誰かにずっと見られてる気がする』と説明するか?
そんな事を言って明日どうすればいい? どんな顔をされる? これまで通りに付き合いが続くか?
彼は必要な要件と現実的な問題の中で揺れていた。もどかしかったのだ。著しい脅威を感じているのに、それを人に話してイカれていると思われる事が嫌であった。
人間が生きていく上で直面するそうしたもどかしい板挟みが、今となっては今まで以上に厭わしく思えてならなかった。彼は結局電話に背を向けた。
椅子に腰掛け、ナイトテーブルの上に乗った皿から湿気たナッツ類を口に含んだ。シャブリの瓶を掴んだところで考え直し、カーテンから漏れる薄明かりの中でブランデーをグラスに注いだ。
少し零れたのも気にせずそれを呷り、じわりと広がる強烈な感覚に身を委ねた。
このまま寝た方が、何も考えずに済むような気がした。ふらふらしたが、なんとかベッドに腰掛け、そのまま横になって布団を被った。壁の方を向いて目を閉じて暗闇を作った。
しかしやがて、暗い部屋の中で目を閉じて作った黯黒と言えども、その色合いはやや白が掛かっている事に気が付いた。
それがどこまでも不安に思えたが、やがて彼は意識を手放していた。
九月の晴れた日であり、彼は太陽の下でビル街を歩いていた。しかし不安が拭えなかった。何故か。定期的に立ち止まって前後左右を確認した。
往来の人々は一瞬その様子に目を向けては、彼を避けて去っていく。
誰もが見ているとも言えるし、しかしそれらは雑多な視線であるとも言える。つまり関係無いのだ。
ならば、午前のミッドタウンの人通りの中でも感じるこの視線はなんだ? 漠然とした不安が胃を痛め付け、気分が悪かった。
急に吐き気がして、近くの塵芥箱を見付けてそれに吐いた。
人前、それも無数の視線の中で吐くという行為の羞恥心でかっと熱くなり、汗が流れた。スーツの下のシャツが濡れ、顔及び脇がじんわりと発汗で痛んだ。
なんと惨めな気分なのかと思った。そうこうしているとぶっきらぼうに声を掛けられ、なんでも塵芥箱を管理している業者の人らしい。
痩せ気味の四〇代ぐらいの白人男性――彼と同じアイルランド系に見えた――に『そういうのはちょっと…困るんだが』と最大限遠慮してそう言われた。
こうやって苦しんでいると、己は一体なんのために生きているのかと嫌になった。
事態は更に悪化していた。どこでも感じる謎の視線に留まらず、遂に明らかな怪奇現象が起きていた。冷蔵庫を開けると異様な匂いがした。
まだ数日保つはずの食品が腐敗臭を発していた。冷蔵庫は機能しており、理由がわからなかった。
彼は洗面所の蛇口を捻ったが、その際いきなり錆混じりの汚らしい水が流れた事に驚いて声を上げた。そんな馬鹿な。
気のせいなのか未だにわからないこの視線と違って、これらは紛れも無い現実だ。彼は声を上げて頭を掻き毟った。
隣からどんと壁を叩く音が聴こえて怒鳴り返し、それからシャワーを浴びようと考えた。しかしバスルームの電気が点かなかった。
彼はここ一週間以上の憔悴ですっかり弱り、まともな思考も阻害された。
それでもなんとか外の部屋の明かりでバスルームを照らす事を思い付いた。裸になって冷たい水が湯に変わるのを待った。
しかし湯は一向に出なかった。二分三分と待ったが、何も起きなかった。彼は心底うんざりしつつ、水の冷たさに悪態を浴びせ掛けて全身を清めた。
冷えた肉体のまま味が感じられない食事をしたが、視線は今でも感じれた。なんなのか。これらは現実の脅威なのか。
これら全てが偶然ではなく必然なら、これから一体何が起きるのか。不安が次の不安を作り上げた。
すっかり弱り切った彼は、導火線に火が注いたダイナマイトのようですらあった。何かの些細なきっかけで決壊するミシシッピの河口デルタの堤防のようでもあった。
そして彼は、前日はそうでもなかったベッドのぐっしょりと湿っている感触から飛び退いた勢いのまま、最低限の荷物だけを手にして何かの強迫観念に駆られた様子で部屋を飛び出した。
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