第12話 日常への帰還

『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。


登場人物

―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。

〈衆生の測量者〉サーベイヤー・オブ・モータルズ…強大な悪魔、リヴァイアサンの一柱。



【名状しがたいゾーン】

一九七五年九月、午前零時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟


 その時が訪れた――ジョージはほとんど忘れていたが、しかし倒して少ししてからその事を思い出した。すなわち彼は巣の持ち主を殺したのであり、その巣は持ち主である〈空を眺めスカイ・るものども〉ヴューワーズの実験体が残酷に死んだ事で崩壊を初めた。異常事象アノマリーの崩壊のごとく時間が限られており、そして時間内に出られなければ複数の要因によって彼は死ぬのだ。

 突然ぐらぐらと揺れ始め、原色じみたコントラストの位相にあるこの廃病院は急激に明るくなった。懐中電灯無しでもはっきりと見えるようにはなったが、あの空気の流れのようなものや壁等から生えるそれの類似物が異常な振る舞いを見せ始めた。つまりそう猶予があるわけでもあるまい。ジョージは考えるよりも早く走り始めた。背後で蒸発しゆく実験体の屍を振り返る事無く階段をだっと飛び越し、踊り場の壁にわざと側面からぶつかりながら減速、方向転換しつつ再び走って降り始めた。服に付着していたであろう実験体の分泌物が蒸気のように消える様には注意を一切向けず、とにかく生存を第一とした。息は上がったが安定しており、思考ははっきりしていた。しかしどうにも汗が滲み始め、それもまた『残酷』な事だなと先程までの討伐行と比較しながら考えた。

 二階に降りたタイミングでぐらつきが酷くなり、わざとこけて波が去るのを待とうとした。それが判断ミスでなければいいがと思いつつ長い数秒を待った。アメリカ西海岸人は多少の地震だと目が覚めてもまた寝るとの事だが、なるほどこれは目が一気に覚めそうな体験であった。立つのが困難なレベルで揺れ、早く終わってくれという願いが叶うか試した。天井がばきばきと音を立てて崩壊し始め、床も同様の悲鳴を上げていた。やがて長い長い数秒が終わり、揺れの波は一旦引いたらしかった。彼は一気に起き上がって一階へと降り始めた。地震の恐怖を体験できた事に皮肉めいた感謝を示しつつ階段の手摺りに腰掛けて滑り降り、踊り場からは普通に段飛ばしで降りた。ここは異常な場所であるというのはわかってたが、しかし地震自体はそう異常でも無さそうであるなと考えた。

〘それがそうでもなくてな、まあ気を付けろ〙

 それはどういう意味だと魔王に聞き返そうとしたが、その直後己の肉体が宙に浮くような感覚に襲われた。一体何が起きたのかと思ったが、とにかく危ないと思って階段の手摺りにしがみ付いた。

〘そちらに向けてある種の重力が発生しているとも言えるな。破損したこの間借り空間の穴に向けて中身が吸い出されているのだ。そちらは正規の出口ではないから間違っても落ちぬようにしろ〙

 魔王は食後の満腹感ある眠気の混じった声で呑気にそう言った。どうやら己の新規プライバシー侵害者には、致命的に危機感が足りないようだなと鼻で笑った。それをする事で余裕が生まれ、彼は己を上方向けて引き寄せようとするものに抗った。摂理に叛逆し、その邪悪さにはリヴァイアサンも爆笑させられた――それは甘い食後の噛み煙草であった。周囲の残骸や天井、その他の雑多なものが引っ張られて、見ればそちらの方向には信じられないような淵が広がっていた。見ているだけでぞっとするような深海のごときもの、土星の衛星タイタンの凍て付く海の奥底のごときもの。狂った潮汐力のようなものを感じながら、頭の中で物理学の授業の内容が思い出された。あの公式はどのようなものであったかと笑いながら彼は強引に足を地面に付け、そして一歩一歩無理矢理で歩き始めた。起きて然るべき現象を無視して行動するジョージは真実の亜種によってこの偽りの巣の崩壊に抗うと、やがて再び走り始めた。一階に降りると既にそこらが奇妙な爆発を開始しており、それはまさに名状しがたい現象であると言えた。腐り果てた有機物じみたものの残骸が渦巻いて蒸散しており、高熱を発するそれらの間を通り抜けた。火傷覚悟でジャンプして通り抜け、脚の辺りが燃えるような痛みを感じたが、しかしそれでも止まらなかった。塞がれていた入り口にはやはり言いようのない次元門のようなものが見え、それこそが脱出口であると確信した。背後で崩れゆく構造がすぐ傍まで迫っており、巻き込まれれば誰も彼を感知するまい。忘却との逃亡劇を終わらせるために加速し、汗がどっと吹き出すのも構わずに可能な限りの全速力で走り抜けた。門までもう少しというところで急激に温度が上がり、皮膚の露出した部分が凍えそうな痛みに襲われた。ああ、なんという冷たさかと思いながらも、急激に凍る汗を無視して彼は凍て付く炎の中を駆け抜けた。

 すぐ後ろ、それこそ踵にかするかも知れないぐらいまで崩壊が迫ったところで彼は門向けて飛び込み、完全に崩壊して閉じたそれを背景にして、彼は病院の外の打ち捨てられた空き地に転がった。草の匂いが濃密に感じられ、汗が土を含んで小さい泥粒として顔を汚した。膝立ちにまでなんとか立ち上がって息を整えつつ、今回の全てが終わった事に安堵した。どっと疲れるのを感じ、熱にうなされるような頭痛でぼんやりとした。なるほど、真実は強力な武器ではあるが、使っているとかなり疲れるな。今後の探索でも常用するのは大変であろうし、いざという時の切り札にするのがいいと思われた。

〘大変であったな〙

 魔王はあえてジョージの直前の思考には触れず、労いを掛けた。

「魔王に労われた男として、老後に伝記でも書いてやる」

 夜風は少し涼しく感じられた。ロングアイランドの無人の郊外にて、ジョージは夜空がここまで落ち着くものであったのかと考えた。下手すると二度と帰れないかも知れない異界へと足を踏み入れ、そしてこれまでの冒険と同じく踏み越えた。彼は征服者であり、殺す者であり、そして慈悲を掛けるべき三人の犠牲者に慈悲を見せた。忌むべき黒幕を強大な悪魔に引き渡したが、あの原色的コントラストの位相をもっとまともな形で観光できれば面白かったかも知れないなと考えた。しかし今回の探索とてそうつまらないものではなかった。畸形と化した元人間達、そしてそれらを己の側面として派遣する〈空を眺めスカイ・るものども〉ヴューワーズの実験体。それら尋常なざらるものどもとの死闘は手に汗握り、白熱し、そしてある種の人助けをしたという実感があった。彼ら三人はもうこれ以上愚弄される事も無いし、そしてこれ以上誰かがこの病院に潜むあの邪悪の餌食となる事も無い。己は未来の犠牲者達を救い、その運命を捻じ曲げたのだ。

 彼は起き上がって車の方へ、とぼとぼと歩いて行った。空はどこまでも澄んでおり、遠くに見える眠らぬビッグ・アップルの輝きとてここでは霞んでいた。九月の涼しい風によって吹き出した汗が冷え、疲労は酷かったが先程までの苦しみは既に消え失せた。しかしふとそこで気が付いて外傷が無いか調べ始めた。脱出時には高熱を感じたし、あるいは火傷した可能性もあった。腕や脚を露出させて調べてみた――もしかすると大火傷になっていないかという懸念、それに相反する『しかし痛みは無い』という冷静さとが入り混じり、そのような心境で彼は服を捲った。しかし手足も胴も特に何も無かった。触って痛みが走るでもなく、特に影響は無かった。やはり無事であったのかと考え、まあ今後何か無いか経過を見ればいいかと納得した。軽くストレッチをしてみて確認を取ったが、関節痛や筋肉痛の類いも感じられなかった。至って健康であり、それもまたどこまでも残酷な話に思えた。すなわち己は一方的に困難を踏み越え、そして特にどこも負傷していない。相手はそれだけ弱く、そして今は魔王に食されたのだ。これは実に残酷であるものの、その研ぎ澄まされた美しさには満足していた。このような真実であれば、これからも時折武器として使っていく事も可能であった。

 再び車へと歩き初め、犠牲者をどうするか考えた。彼らの身元は既に調べており、それら三人の行方不明者――最新情報では死亡――をどうすべきか思案した。今までも何度かそうした犠牲者の問題はあった。特定できた犠牲者については差出人不明の手紙を遺族の家に忍ばせた。だが彼らがどう受け止めているのかはわからない。それらの内容はその時々で試行錯誤してぼかしたりそうしなかったりした。結局何が正解かはわならないのだ。というのも、第一『あなた方の誰々は怪物に殺されました』で納得するのであろうか。確かに異星人だの異星神だの、その他様々な不思議な実体がいる事を世界は認知した。しかし現実にはまだ日が浅い。少し前まではヴァリアントとエクステンデッド、及び例の自称未来人ぐらいしか、そうした不思議は知られていなかった。なのに幽霊に殺されただの、異形の落とし仔に殺されただの、そのような事を差出人不明の手紙で言われたところで、納得するのかどうか。

 警察に通報できる場合ならまあいい。つまり死体やその残骸が残っている場合は警察に知らせて、それでなんとかなる。だがそうでない場合もあった。今回もそうなのだ。やがて車に着き、彼はドアを開けて、そのまま着替え始めた。汗をタオルで拭いて服を取り替え、少しさっぱりした。重苦しい異界は既に遠い彼方に思え、彼はそのようにして己が既知へと帰還した事を強く感じた。あの間一髪の脱出劇とてもう現実味が薄れる程以前の事に思えた。車のエンジンを掛けて立ち去りながら、空けた窓から感じる風に身を任せ、これからどうするかを考えた。

 己は真実を得たが、遺族もまた真実を得るべきではないか。ならそうする他あるまい。

 ジョージのそうした善良な様は魔王にとっては信じられない程に辛い香辛料の粉末を浴びたかのような感覚であり、異形の麗人はその辛さ故に噎せ返り、それを察知したジョージは鼻で笑った――プライバシー侵害も楽しい事ばかりじゃないだろう。

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