第58話 新たな旅立ち
登場人物
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
―プリンセス…犠牲者の一人ケンダルの親友。
一九七五年、九月下旬:ニューヨーク州、マンハッタン、セントラル・パーク
ケンダル・ジョセフ・ジェファーソンは今回の一連の悲劇の犠牲者に名を連ねていた。自認としては男性で、しかし女装すると女性に見えた。
恋愛、ないしはどのような『性』の人物に性的魅力を感じるかを明かす事は無かったが、しかし彼は同性愛者ら性的マイノリティのための活動にも積極的に参加してきたという。
少なくとも、ケンダルはそれらの人々のコミュニティとも連帯意識は強く持っていたという事であろう。そしてその気高い黒い肌のアメリカ人は、予想外の暴力と欲望によって理不尽に殺されたのだ。
単にプリンセス――仲間内でそう呼ばれており、それを気に入っているとの事であった――と名乗るゲイの黒人男性とジョージはセントラル・パークで会った。
プリンセスはケンダルととても仲がよかったとの事で、その死を深く悲しみ、受け止めるのに苦労しているように見えた。プリンセスは体格がよく、もしかすると学生の頃フットボールをやっていたのかも知れなかった。
やや大きめのアフロ・ヘア、右耳のみのピアス、精悍寄りの端正な顔立ち。恐らくプリンセスは、笑う事があれば素敵な笑顔を見せるはずだ――今それを求めるのは、酷というものであろう。
防寒を意識したジャケットを羽織った彼の姿は、立派な体格のはずでありながらどこまでもか細く、あるいは儚く、何かの拍子に消えそうにさえ見えた。
繊細な事はいい事だ。だが、人を繊細にさせ過ぎるような悲劇は、あってはならなかった。救えなかった人々にある種の責任感を感じ、また遺された人々に対しても色々考えてしまうジョージは軽く目を瞑ったりして半泣きになりそうなのを抑えた。
「プリンセス、その、本当に残念です」
ありきたりな事しか言えなかった。お悔やみ申し上げる事しか、この時点ではできなかった。
「ありがとうございます。彼とは本当に仲がよかったので…それに初対面のあなたに打ち明けるのも変ですが、僕は彼に恋をしていました」
ジョージはそれに驚きながらも、しかしこれもまた、愛情の形態なのだろうと考えた。
そしてその事実を受け止めてみると、己のような女性を恋愛や性愛の対象として見る男性と、プリンセスやケンダルの間には、社会的立場を除けば差がない、つまり同じであるように思えた。
彼らには彼らの物語があるのであろう。彼や彼女は、苦難という物語によって難しい局面に立ちつつ、しかしそれでも『我々』と同じような物語もあるのであろう。
誰かと友達になったり、あるいは喧嘩をしたり、恋をする事とてあろう。同じだ、そう思いたかった。
こうして実際に当事者達と接する事の大切さをジョージは改めて思い知った。接してみれば、彼らの考えが理解し易くなり、どのように世界が見えているかも見え易くなる。そうすれば共感もできる。
「私も息子を事故で、それとヴァリアントの女性の友人がいたのですが、彼女も春頃に起きたあの『リターン・トゥ・センダー事件』で亡くしてしまって。人生において重要な存在と死別するのを受け入れるのは慣れませんね」
思わず、ヴァリアントの友人がいた事も口走ってしまった。プリンセスはヴァリアントを快く思ってくれるだろうかと不安に思った。彼の目が驚いているのが見え、しかしそれは同情のそれに変わった。
「お互い、辛い時期ですね」とプリンセスは言い、少し俯きながらアフロ・ヘアの先端を指で軽く弄った。
彼らは二人で並んで歩き、秋の訪れを感じるニューヨークで、過ぎ去った日々、いなくなってしまった人々への想いを抱えながらなんとか立っていられた。
「ケンダルは、私が調べたところでは立派な方であるように見えました。彼はどのような人物でしたか?」
ジョージはプリンセスにある種の同情をしながら尋ねた。
「ええ、まあ。立派でしたね…」
プリンセスは悲しい眼差しを公園内の緑に向けた。そこで憩う人々はどこまでも明るく見えた。
彼は本当にショックを受けたままであり、心の整理が難しいのかも知れない。もしかするとこの取材は打ち切るべきかも知れなかった。だが、取材に応じてくれた事を思うと、経験上は『語りたい何か』があるように思われた。
ジョージは不意に見渡した。遊んでいる家族が見え、子供達も見えた。だが、何かの違和感があった。それが何であるのか考えた。プリンセスが立ち止まったのでジョージも自然と立ち止まり、それを幸いにあれこれ思案した。
やがて、認めるのがどうにも難しい、どう受け止めるべきかわからない、居心地の悪さを感じる事実に気が付いた。
まあ、それ自体はたまたまであったのかも知れない。他の日、他の時間帯であればそうでなかったかも知れない。そのはずだ。だが今この瞬間のセントラル・パークはそうではない。
ジョージは視界に入る人々が己、そしてかつての家族がいた頃の己と二重の意味で『同じ人々』である事に気が付いた。
同じ人々であるが故に、彼らも、離婚前のジョージも、男女による両親、単数または複数の子供で構成されていた。
そうであるが故に、彼らにも、そして離婚前のジョージにも、ジム・フォスターの苦闘も、近頃よく名前を聞くハーヴェイ・ミルクの理想も、あるいはストーンウォールの反乱も『必須』ではなかったのだ。
さて、もう一つの意味ではどうか。
もう一つの意味においても同じ人々であるが故に、彼らも、離婚前のジョージも、『アメリカン・ドリームやアメリカン・ウェイ・オブ・ライフや漂白された五〇年代的黄金時代』を享受したり懐かしんだりできる権利の所有者なのだ。
もう一つの意味においてもそうであるが故に、彼らにも、そして離婚前のジョージにも、ワシントン大行進とその夢も、セルマの『血の日曜日事件』におけるジョン・ルイスの不屈の命の炎も、あるいはローザ・パークスやシット・イン学生らの勇気も『必須』ではなかったのだ。
そしてフリーダム・ライドという名の共闘に参加する事もまた『必須』ではなかったのであろう。
その上でジョージは『強制』バス通学やマグネット・スクールについての議論に対する己の『アメリカの自由や権利の観点からの』批判的な眼差しについて考えた。
そうした立場の奥底で封印され、目を背けないようにしている事実、すなわち『まず第一に、未だに、そこまでして一緒にいる事を拒み、それについてのもっともらしい理由によって正当化を図るのか』という、決して己も避けて通れない問題に行き着いた。
それらの理由は本当に『本心』なのか。本当にそう言い切れるか? 神に誓ってそれこそ本筋だと宣誓できるか?
それについて考える際の居心地の悪さ、突如湧き出る『己が悪かったのか』という感情への戸惑い、それらを逃げずに凝視しようとした。心が痛い、痛くて結構。痛みを感じろ。
ジョージは、亡くなったケンダルやプリンセスとは完全に異なった位置にいるのだ。彼らが遭遇する困難、乗り越えるべき試練は、己には存在しないのだ。
存在しないが故に、例えば六四年と六五年の画期的な勝利の後に、その勝利を破壊しようとする人々が現在進行形で存在するという俄に信じがたい現状についても、己は当事者意識を持たず気楽に生きられるのだ。
上辺の同情を捨てろ。己は彼らと違う。正義を愛するなら、違うと理解した上で何かをしなければならない。
さて、これらの考えについて一つの大きな問題が存在した。
すなわち今の己や離婚前の己と『同じ人々』だと見做す眼前の人々、眼前の家族が、その実当事者ではない身でありながら、それらの諸問題について日々熟考し、問題解決のための活動に参加している可能性とてあるのだ。
彼らには可能性があった。だが、己はそうではない。存命の別れた、そして今でもある程度以上愛してはいる妻は、己とは違うかも知れない。今現在の彼女は、もしかすると社会の病巣に立ち向かう闘士かも知れなかった。
だが己は違う。ジャーナリズムを通して色々やってきたつもりだ。正義を愛してきたはずだ。
だが、本当のところは『ある不可視の境界線』の向こうまで遠征する事は、本当は一度も無かったのではないか。己の価値観やある種の政治観が許す範囲までしか、踏み込まなかったのではないか。
例えば、親しい友人であったヴァリアントの女性ベリンダを亡くしたわけだが、己はヴァリアントが日々直面する苦闘について真に考慮した事があるか?
同様に、ゲイの黒人が日々直面する二重三重の苦闘について真に考慮した事があるか?
「一つ理解した事があります」とジョージは切り出した。「それは私が
プリンセスと目を合わせた。すると彼が、とても優しく微笑んでいるのが見えた。美しい笑顔であった。
「なるほど、その反省のようなものはそういう自己満足ですか?」
プリンセスは辛辣にそう言っているわけでは無かった。彼はあくまで優しく問い掛けていた。
「見たくないものを直視し、己の弱さを認め、自己満足のその先へと進むのが、この街とアメリカを愛する私の責任だと思います」
お涙頂戴の、非当事者の特権階級による感動の物語では駄目なのだ。それで終わらせてはならないのだ。
改めて両者は心からの握手を交わした。そうする事ができた。
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