第6話 第二の刺客
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
―
【名状しがたいゾーン】
一九七五年九月、午後十一時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟
まあ実際のところ、現実問題として考えているだけでは何も解決しないというものがあった。これは大問題であった。解決せねば己は恐らくこの名状しがたいものが作り上げた異界、異なる位相の間借りされた領域から抜け出す事は不可能であろうから。というわけで現実問題としてそれらを取り除かなければ何も変わりはしないであろう。そのため彼は階段を登りながら思考を戦闘のそれに切り替えた。ぼんやりと見渡せる階段のエリアで立ち止まり、全方位を見渡して不意を突かれぬよう警戒した。先程は実際そのような次第となったから、今後は同じ事を繰り返されるわけにはいかない。次に待ち受ける何かが先程の個体よりも強ければ今度こそ殺されてしまう可能性もある。最悪のシナリオとしては、猛獣に襲われて死亡した事例が浮かんだ。そのような犠牲者の内の何人かは生きたまま己の肉が剥ぎ取られ、引き裂かれ、喰らわれるのを体験しながら最悪な死に方をした。それが己に及ぶのであればまさに地獄めいており、悪趣味な露悪小説や映画そのものの悪夢と言えた。
懐中電灯で何者かが発見できないか探り、しかし何も見えない事を確認して軽く唸った。死角に注意しつつ状況を窺い、己に対して発見できない場所から悪意を向ける者がいない事を確定させようとした。階段を登り始めると、上に行くにつれてあのグロテスクな得体の知れない有機物のような何かを見る頻度が増えた事を悟った。それが嘘であればとぼんやりと考えたが、しかし現実には何も変わらなかった。それらが放つ悪臭からも、増加傾向が嘘ではない事の証明となっていた。そのような未知の、下手すればいずこかの異次元や異星の産物かも知れないものが繁茂する場所がNYC近郊――一応異なる位相ではあるが――に存在する事の恐ろしさを知り、気が滅入った。正気の世界で暮らす大勢が存在している世界都市からほんの数十キロ離れた郊外に、かような吐き気を催す何かが存在し、そしてそれを作り上げた何者かが犠牲者を出している。やはり殺す他無いのであろう、これまでの悍ましいものどもと同様に。
ふとそこで彼は気が付いた。全ての元凶である名状しがたいいずこかの領域の実験体に関してはともかく、それの犠牲となって変異させられた先程の元人間、ここを調査しに来て行方不明となっていた犠牲者が、今度は無慈悲にも
〘ああ、お前はそのような事を危惧しているのか〙
やはりこの魔王はプライバシーの侵害を本格的に始めている。思考が読み取られるというのは何もかも丸裸にされている感覚がして、猛烈な嫌悪感に襲われた。
〘気にするな。俺が言った事を忘れたか? 俺が甘党であるという事を。あの実験体の犠牲となったものどもはあくまで善寄りの魂。俺は甘党であるから、そのような辛い魂を喰らうのは性に合わぬ。まあそうだな、それらは自然の摂理に従って向かうべき領域に向かうのではないか。俺はその行方には興味が無いし、万人に平等な結果であると思うぞ。死後どうなるか、『奴ら』に関しては少なくとも俺はその末路に介入せぬよ〙
もっともらしい事を言っているようにも思えた。要は『どうなるかは知らないが悪魔によって理不尽に蝕まれる事は無い』という事であろう。あとは、それら犠牲者がオカルト等にはまっていずこかの実体と契約でも結んでいない事を祈るのみであった。
吐き気を催す猛烈な悪臭は益々強まり、気が滅入り、頭痛すらしてきた――上等であった。殺すしかないのであれば殺してやる。これまでの気味の悪い怪異どもと同じように、地獄の魔王の元に送ってそこで苦しませてやる。まあ、さすがにこの元凶の犠牲となった人々には容赦をしてやるにしても、元凶の実験体とやらは明らかに名状しがたい異次元的な悪意を備え、それはこの趣味の悪い追加の『内装』を見れば明らかな事であった。かようにグロテスクな肉腫じみたものが繁茂しているのであれば、上階は更に酷いものであると思われた。階段を登るにつれて悪臭が強まり、あの得体の知れない脈動する有機体の割合も増え、余計に気持ちが悪くなった。さすがにここまで来ると仮眠前に食べたものが口から出て来ないかの心配もせねばなるまいが、それはここを踏み越えた後で考えよう。
ジョージは己に襲い掛かるものが無いかを確認しながら進み、そして階段を登り切った。廃墟の傷んだ壁から剥がれた塗料があの得体の知れないものに侵食され、意味不明な黒色の突起が繁茂していた。それらは呼吸でもするかのように揺れており、そうしたものが床から壁に掛けてびっしりと生えていた。その悪臭は暴かれた納骨堂のものよりも更に酷く、以前軍にいた頃に嗅いだ事のあるとある匂いに似ていた――特殊な薬品で処分しようとしていた『処分途中の人間の死体』のそれであった。なるほど、どうやらここの主はジョージを否が応でも吐かせようとしているものと思われた。ジョージはその悪意を感じて笑ってやった。地獄めいたグロテスクな異界の怪物を想像し、それをどうやって殺してやろうかと考えた。というのも、実際問題として殺す事こそこの場から逃れる唯一の道であるから。彼はそれ故に人中のインドラとして振る舞わねばならなかった。
ところで一つ面倒な事があった。次の階へ直接向かう事ができない――得体の知れない肉の襞が、先程登って来た一階へ降りる階段と三階へ登る階段とを区切るように、その中央から二階のエリア向けて形成され、通行できなくなっていた。床から天井まで塞がれ、そして二階の通行可能なルートも少なくなっていた。恐らくは大きく回り道すれば三階への階段へ向かうルートになるかも知れなかったが。まあとは言え、どの道じっくりクリアリングしていくつもりであったから、そう悪い話でもない。己の好きに捜索できないのは苛立ちを覚えるが。
不意に死が追いついて来たのかと思ったが、しかし今のところはそうでもないらしかった。元の位相にあってこちらの位相に無い物――あるいはある物――をそれとなく探った。これらの名状しがたい肉塊の類いは一旦無視した。それらはこちらにしか無くて当然であるから。そうではなく、ジョージ自身にとって有利不利になる要素が無いかを確認した。場合によってはここまで、あるいは階段を下ってその下まで後退しないといけない可能性もあった。そのような時に些細なミスをして追い詰められたくはない。脈動している物体は恐らく逃走に際して妨害とはならないと考えた。床は綺麗であり、グロテスクな物体に足を滑らせる心配は無いと思われた。しかしよく見れば、階段から二階へと登り切ってすぐの床には塗料片が大量に落ちていた。それらは恐らく床から剥がれ、各々の乱雑な大きさと形の塗料片は縁が上向けて丸まっていた。さて、と一瞬考えた。そうした床の様子をしゃがんで確認し、靴で蹴飛ばして払うべきか。そうすれば、万が一走って踏んだ時に滑る可能性は減ると思われた。しかし、もしかすれば罠にでもなるか。まあなるかも知れないし、ならないかも知れない。
悪意ある何かがいるのは明らかであるから、少しでも手札が多い方がいいかも知れないと思い、彼は塗料片をそのままにした。手摺りを見て、その表面の状態を確認した――この上を滑って降りられるかどうか。触って確認したが、錆の状態はそこまで酷くは無かった。引っ掛かって大きな摩擦が発生し、滑っている途中に服の表面がざらざらとなって何かしらの問題になる事は無さそうであった。昔小学校の手摺りに腰掛けて滑っている現場を見られて教員に大目玉を喰らった友人の事をふと思い出した。若くして癌に冒されたが、奇蹟的に生還した。では私もその幸運に預かるとしよう。
ジョージは一歩ずつ歩みを進めた。敵はこちらに気付いているはずだ。どこか有利なポジションで待ち伏せているかも知れなかった。左手側の通路が通行できそうなのでそちらを歩み、何か変化が無いか確認した。あの空気の流れのようなものが相変わらず見え、そして懐中電灯で照らされた風景はこれも相変わらず原色じみたきついコントラストであった。
〘一つ言っておきたい事がある、まあそのままで聞け。というのもな、俺はお前という万能の余興者が与える未知を全て消すわけにもいかぬ。お前が俺を愉しませるものであるからな。だが、そうだな。お前そのものが終わる事までは望んではいない。故にお前に忠告せねばな、気を付け過ぎるという事は決して無いからだ。お前が先程心に浮かべた情景、生きたまま獣に喰い殺される犠牲者の境遇を思え、お前をそこまで脅かせる者が潜んでいるからな〙
やはりこの魔王は思考を読んでいるのかと今更だが嫌に思いつつ、しかし生き残るためにその苛々を抑えねばならなかった。苛立ちを追い出そうと周囲の空気の静まり返った冷たさを意識し、心を冷却した。かっと血が上りそうになるのを抑制し、何を警告されたのかを考え直した――警戒し過ぎろ、そして著しく危険な怪物がこの先にいる。悪魔のための前菜として死闘を演じるのも癪だが、しかし生き残るべきだ。ならばやはりあの境地なのであろう、すなわち殺す者として振る舞うべきであると。侵害する者がいるならば迎え撃ち、殺すまでの事。
ジョージは不意を突かれる事は避けたかった。何か敵を炙り出す手段は無いかと考え、暗い廊下を懐中電灯で照らした。あの厭わしい空気の流れのようなものに紛れて、床に金属片が転がっているのが見えた。錆び付いて緑色になっているが、しかし手袋をしているのでどうでもよかった。彼は歩みを止め、それをゆっくりと音を立てずに拾った。別に何かがこれに引っ掛かる保証など無い。しかし試しても害はあるまいと考えて、仄暗い前方の闇へとやや強めに右手で投げ放った。彼は廊下を既に半分の辺りまで渡っており、その位置から向こうの曲がり角まではおよそ十五ヤード。どこかに落下するまでがとても長く感じられ、結果が出るのが待ち遠しいような、あるいは忌むべきであるような気がした。やがてそれは落下して静寂を引き裂き、思った以上に大きな落下音が響いた。さて、どうなるか――。
途端に何かが曲がり角の向こうから現れた。悍ましい唸り声と共に結構な質量のある何者かが飛び掛かったらしく、作戦成功を喜ぶべきなのか迷った。反射的にそちらに光を向け、それによって名状しがたい何者かの正体が浮かび上がった。地獄めいたその生物は元々は、二足歩行の人間なのではないかとすぐに察知できた。というのも人間の行方不明者が三人いて、そして先程殺した犠牲者も元人間であったから。しかしこれが元人間であるというのであれば、その変異の過程がいかに苦痛に満ちていたかは容易に想像できるものであった。その四足歩行の猛獣は内側に沿った太く長い棘が背中を突き破るようにして二列ずつ何本も生えており、その正体が肋骨である事が嫌でも理解できた。不規則に動く牙じみた肋骨の並木道の内側では隆々と腫れ上がった何か、恐らく肥大化した内臓器官のようなものが蠢き、それは科学実験の授業で発生した大量の泡のように、膨らんだ小さな球形の組織が不規則に群れを成し、その露出した臓器じみた器官の表面が山あり谷ありの様相となっていた。つんと匂う悪臭が一瞬で到達して思わずジョージは咳き込みそうになり、左手で口元を庇わなければならなかった。全長は恐らく成獣の雄ライオン並みであり、地獄の執行者どものごとき太い手足は肉体の背腹逆転に際して関節構造も変化したものと考えられた。そしてそれは己が光に照らされている事を察知してジョージの方を向き、ぎらぎらと光る奇妙な眼球と涎の洪水が溢れる口、そしてそこを悍ましくも武装している不揃いな牙が照らされた。あと数秒もしない内にそれがこちらへと全力疾走して来る事は明白であり、ジョージは『こんな事ならワイオミング州辺りの友達を作っておくべきだったな』と考えた。
「確かにお前の言う通りだな、あれは血に飢えたグリズリーみたいだ」
〘お前も聞いた事ぐらいはあろう、人の肉の味を覚えた獣の凶暴さについては。まああれも似たようなものだ。さて、お前はどのようなものを見せるか?〙
そしてその途端それは走り出し、それを予想していたジョージは既に振り返って廊下を全速で引き返していた。そしてあの罠が上手く作動するのかを少しだけ期待していた。まあ時間稼ぎにはなろう。
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