第52話 『恐怖せよ』

 ジョージは心の奥底、見えない裏側にある安全地帯で状況を静観していた。精神と肉体に対して『何かに追われていると感じて、焦って走る哀れな犠牲者候補』となる事を命令した。全てそれでよかったのだ。聞こえないはずの笑い声がした。聴覚で感じられる現実の音。故にそれに対して恐怖しているように振る舞った。何度も何度も後ろを振り返って、鼻持ちならぬロキの狂信者に追われる様のように、安全だと思っている己の部屋へと一秒でも速く到達する事を望みながら、汗を浮かべて必死の形相で走った。脇が湿り、胸元がぐっしょりとしているように思った。汗が額に浮かび、髪はぐっしょりと濡れていた。

 不思議な感覚に思えた。己は明らかに恐怖に支配されて冷静さを失っていた。だが、彼はそれを第三者視点で冷静に観察しているような感覚があった。己の主観でありながら、そうでないかのような雰囲気があった。やがて名状しがたい何かを感じ取り、不気味な何かの腕が己の存在そのものに、形而上学的な手段で巻き付いてくるように思え始めた。目にも見えず耳でも聞き取れない、皮膚で感じる事もその悪臭を嗅ぐ事も、吐き気のする味を認識する事もできない何かが、ただたた言いようのない感覚を与えながらジョージをぐるぐる巻きにしていた。深海の化け物じみた巨大生物が、強壮な触腕を使って獲物を捕えている様とごく僅かに似ている気もしたし、それは恐らく理解するための粗雑なローカライズでしかなかった。

 吐き気を催す何かが、悍しい悪意を顕にして己を吟味しているのを意識した。物理的に違法な手段で生き永らえる邪悪が、嗤笑を浮かべて下劣極まる涎を垂らしては、犠牲者をどのように吟味して咀嚼するかを見定めているのだ。背筋に信じられないような不快感があった。同時に内臓の中で蜚蠊ごきぶりが這い回っては、下等な血肉の饗宴を繰り広げているかのごとき感触があった。そしてそれら幻の苦痛に苛まれる一方で、唾液まみれの気色の悪い怪物の口腔内にて、無数の寄生虫どもが動き回っているのを察知した。人殺しの邪霊は、今やある意味では人肉を喰らうようになったのかも知れなかった。比喩上というか、ある種のシミュレートされた実感としてそれを愉しみ、その上で犠牲者の苦悶を耳にしては、独りよがりの胸のむかつくような動作と共に恍惚する。なんと下劣で、なんと穢らわしい実体であろうか。ジョージがこれまでに遭遇してきた邪悪な霊体ども以上に悪辣で、容赦が無く、恐らくそれは生きとし生ける全てに対して、想像を絶する未曾有の憎悪を持っているのだ。全てを憎むが故に良心が存在せず、拷問を生き甲斐とする死すべき怨霊。この世の安寧のために決して存在してはならない忌むべき闇の落とし仔。ギリシャの神々が引き起こしたタイタノマキアに巻き込まれつつも強かに生き延びたシアエガの従者どものごとき、暗い情熱と共に存在し続ける何か。

 そしてこれは繰り返しになるが、絶対に存在してはならないのだ。そのようなものが、今まさにジョージを捉えた。その牙がしっかりと突き刺さり、容易には抜けないらしかった。

 ジョージは狂気に満ちた血走った目できょろきょろとあちこちを見ながら部屋のドアを開けた。どこかにいてはならない何かがいるのだ。それは己を恐怖によって拷問し、肉体自体が無意識にその生命を手放すように仕向けて遠回しに自殺させるつもりだ。そうする事で得られる何かしらの糧があるのだ。恐らくは人の恐怖が生み出すエネルギーをそのまま喰らうなり、何かしら調理するなり加工するなりして、飽きもせずご馳走とするのだ。今や笑い声は彼の頭の中で直接鳴り響いているような気すらした。それでいて、あちこちで物音もし始めた。

 ジョージは急いでドアを締めて、汗だくなのも気にせず鍵を掛け、何度も何度もそれが実施されたかを確認し、それから不意に部屋の中をどたどたと駆けて窓がしっかり閉まっているかを確認した。カーテンを締め切り、布団を被ってその中で汗かそれ以外か判別もつかない液体で顔を濡らした。不意にドアを叩く音が聞こえた。執拗で、狂った殺人犯がそうするようにドアノブをがちゃがちゃと回して押し入ろうとしているように思われた。

 ジョージはばっと起き上がって電話の方へと転びながらも向かった。自分の上着で滑って顔面を打ち付け、その痛みすら慰めにならぬ状況下で彼は受話器を持ち上げて電話を掛けようとした。しかし、電話は通じていない事に気が付いた。さっと血の気が引くのを感じた。窓の外で何かが聞こえた。ドアの向こうでは不気味な呼吸音のようなものが不規則に鳴り響いていた。壁を叩いて大声で助けを読んだが、しかし誰も反応しなかった。普段なら絶対に苦情が聞こえるはずの諸々の騒音は何ら、その向こう側にいるはずの人々の反応を寄越す事も無かった。

 完全に包囲され、逃げる事もできないように思われた。ドアに近付くと物音ががさがさと聞こえて、その向こう側でくぐもった笑い声が聞こえた。窓側もまた同様でありベランダが存在しない向こう側に何かがいた。カーテンを開ける気にはなれなかったが、日光を遮って何かが移動しているのがカーテン越しに視認できた。

 不気味で悪意に満ちた怨霊が、今か今かと何かを待っているように思われた。ジョージは大股で歩いて部屋を横断し、息を整えるために水を飲もうとした。ニューヨークの不味い水道水を飲みたかった。都会の水を濾過せずに飲んで、その消毒のために添加された諸々の成分に顔を顰め、気を紛らわせたかったのだ。しかし水道水が流れ出すや否や、台所のシンクに汚らしい錆がどっと溢れた。あり得ない事であった。まるでしばらく使っていない蛇口を捻った時のごとく、茶色い液体がどろどろと流れていた。しかも水には得体の知れない粘性があり、慌てて蛇口を捻って水を停止させた。体から力が抜けて、どっと腰から床に落ちて、それで背中を床に投げ出した。

 しかしその時更なる違和感が彼を襲い、ぬるぬるとした生暖かい、汗とは異なるものを感じた。見れば血が滲んでおり、それがワイシャツの背中と床とを汚していた。急いでベッドに向かうとそこはぐっしょりと血で湿っており、その匂いが充満していた。ジョージはベッドの傍らにへたり込み、そこでがたがたと震えた。

 次の瞬間部屋の床が軋み、そちらに目を向けたものの何も見えず、かと思えば上からぽたぽたと血が滴っていた。蛇口が勝手に回って水が流れ、しばらくして止まった。冷蔵庫が開いたり閉じたりして、テレビが自動で点いたかと思えば自動でチャンネルが変わっていった。カラーテレビから聞こえる音声が酷く遠い出来事に聴こえ、更に言えば映像は色合いがおかしかった。人物の顔が歪んではチャンネルが変わり続けた。箱型のその機器は今や、尋常ならざる何かによって侵害され、勝手にその機能を利用されていた。

 ジョージはベッド、つまり今では背を向けている方角に何かがいるのを感じた。決して振り返るまいと口をぐっと閉じて耐えている彼の首筋に、生暖かい不快な空気の流れが当たった。ああ、これは違法な手段でこの世に留まっている弊害であって、実体無き霊体の身であれども腐敗しているのには変わりないのだ。無臭の悪臭が漂い、悪意が部屋の中に充満していた。今や至近距離で笑い声がしていた。

 お願いだ、やめてくれ。そう願ったところで何も変わらないように思われた。悪意の持ち主はジョージが恐慌している様をさぞ歓び、これから更に心を拷問するつもりなのだ。不快な体験や恐ろしい体験を散々与えるつもりなのだ。

 やめろ、やめてくれ、頼むから出ていけ、お願いだ、私を一人にしてくれ、何をしたというんだ、頼むから、何でもするからやめてくれ、頼む――。

 その瞬間、部屋自体がびくりと震えたような現象が起きた。

「――捕えたぞ。やっとお前をな」

 その瞬間、全てが変化した。

 ジョージは震える必要性から開放されて清々していた。座ったままで髪を撫でつけて掻き上げ、汗を袖で拭い、それから前転して少し距離を離してから振り向いた。部屋は結構広めの所に住んでいた。以前は二人暮らしであったが、今ではこの部屋自体が死んだ息子との数少ない接点であった。

 これまで無意識に避けてきた息子への思案や思い出に浸り、それから『見ていてくれ』と告げた。ここで死ぬのであれ勝つのであれ、父はやるべき事をやるだけだから。お前のためにできなかった事をやるつもりだ。お前を傷付けようとする諸力から守るのには力不足で、思い上がっていた。

 だからせめて今はそうならないように努力している。

 ジョージは真っすぐ、悍しい何かを睨め付けた。忌むべき怪物はぼろぼろの汚らしい布で全身を覆い、長い部分を後ろに引き摺っていた。顔は見えず、白髪が伸び放題に伸びて、首は不自然に左へと傾き、口らしき穴の内側では何かが音を立てて蠢いていた。眼球と思われるものが白髪の間にどんよりとした色合いで存在しており、血走りつつも灰色に濁ったその目はしかし、予想外の自体に困惑していた。

「お前を殺す事をずっと考えていた。お前の狂った連続殺人事件を終わらせて、お前を恐ろしい魔王の餌にしてやる日をな。聞いた事はあるか? 〈衆生の測量者〉サーベイヤー・オブ・モータルズの名をな」

 その名を聞いた瞬間怒りの咆哮が響いた。恨みに満ちたその絶叫に恐怖が混じっているのは気に入った。そうだ、お前はまた騙されたのだ。ジョージ・ヘンダーソンに騙され、そして不注意故に二度目のその同類との遭遇を経験しているのだ。

「私の首を捻じ切って散々玩具にして気晴らしでもしたいか? そうだろうな。だが一つ言っておくぞ。我が狩り場はこの街全て、お前がどこかに存在している限り私は追い続ける。そして今こうして、追い付いたという事だ。残念だが、獲物なのはお前の方だぞ!」

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