第53話 偉大なるドラゴンのクトゥルーがいかにして悲劇を被ったかを想像してみよ

 穢れた怒りが充満し始めるのを感じた。空間が悲鳴を上げ、忌むべき悪影響がジョージに接触した。それはジョージを動けなくして、徐々に弱らせて、腐らせてから死なせるはずであったが、しかし彼の持つ猛毒によって逆に蝕まれ、毒素が広まってそれらの悪影響は死滅した。発生源である怨霊は毒素の伝染に気が付くまで少し間があったと言うべきか混乱があったと言うべきか、いずれにしても敵は対処が遅れたので、ある種の外縁部としても機能していたそれらの悪影響を通してジョージの猛毒を束の間浴びた。その痛みを感じた事で健康体の人間が熱湯を浴びて跳び退くかのごとく後退し、腐れ果てた悲鳴がこの場を著しく冒瀆した。

「惜しかったな。今ので私を好きなだけ拷問できると思ったか? それなら残念だ」

 ある種の擬似的な物質として存在していた部屋中の謎の血が蒸発し始めた。ジョージの背中を汚していたものも、シーツをぐっしょりと汚していたものも、急激に、まるで半狂乱の執行人が大罪人を大釜で煮え殺すかのようにしてそれが始まり、信じられないような不快極まる異音と共に見せ掛けの血液が霧散した。部屋の中は日中であるが薄暗く、天井や壁には不浄な結界じみたものが満ちていた。見たところ破るのには時間が掛かりそうに思われた。眼前の連続殺人犯からの攻撃を避けながら結界を破るよりは、当然ながら連続殺人犯自体を抹殺して結界を崩壊させる方がましに思われた。

 するうちジョージの心に、あの魔王の雰囲気が広がり始めた。

〘やはりお前は素晴らしいな。だが忘れるな、奴にお前の真実は効くまい、お前は知恵と経験と猛毒とで立ち向かわねばならない〙

「もちろんそれはわかっているが…どうすればいいだろうな」

 ジョージの方もどう仕掛けるべきか悩んでいた。相手の出方がわからない。相手はどのような〈否定〉を用いるのか? その形態を想像できなかった。ベッドの上には満足な埋葬を受けなかった事で墓から這い出てしまったかのごとき姿の、生者への憎悪及び嗜虐心に満ちた邪悪が渦巻いていた。恐らく元は人間の女であったと思われ、ジョージ・ヘンダーソンの言を借りれば『白人』――今考えてみると、もう一人のジョージが言ったその言葉の定義は実際に血筋上それが白人なのかそれとも黒人なのかアジア系なのかそれ以外なのかは関係無いように思われた、場合によってはインディアンであっても様々な混血であっても――らしかった。どこかのインディアンの魔術的実践を悪意的に転用し、それによってこの世に留まっている可能性はあった。もしかすると悠久の大魔道士ウィンペ辺りに何十もの昼夜の間頼み込んで、教えてもらった可能性もあった。いずれであれ、酷い濫用であった。この世に留まってまでする事が、見ず知らずの人々を物色して拷問した末に殺す事であれば、やはり殺す他あるまいが。

〘ふむ。お前は…そうだな。時間が無い、今から話す事をよく聞け〙

 不意に世界がスローモーションになった。まるで極度の集中や緊張の中にいるかのようであった。ベッドの周囲をゆっくりと円状に歩いていたジョージはその歩みも眼前の光景も、全てが鈍化した事に気が付いた。横に歩くために少し浮かせた足がごくゆっくりと動いていた。

〘ジョージ・ヘンダーソンの敗因がどうなのかはわからぬ。奴もまたシミュレートした上で、単純に競り負けてしまった可能性もある。ともあれ、お前は奴が何をこれから引き起こすのかを想像せねばなるまい。この手の、相手にルールを強いて、そこから逸脱すれば強烈な罰則――例えば死であるな――を発生させる類いの力は、それが作用するために周囲に影響力や侵食を発生させねばならない。それ故に推測する事も容易い、その手段を知ってさえいればな。奴を仔細に観察しろ。次に奴の周囲、この部屋のあちこちを。お前は己が見聞きしているものについて常にこう問い続ければよい、『これは一体なんだ?』『これは一体何をしようとしている?』『これは一体何ができる?』などとな。

〘そしてもう一つ聞け、殺す者よ、我がチャンピオンよ、我が全権大使よ。もしこれより始まる死闘にてお前の心が挫け、屈しそうになればこの故事を想像してみよ。今は海へと消えた太古の大陸の物語の、壮絶なる酷たらしい結末を。異星より飛来し、神聖なる窮極のドラゴンとして称えられた八腕類のクトゥルー、聖なるレレクスのトゥルーが、その同志共々守るべきものを守り切れなかったその時を、奴らの手を擦り抜けて、無数の命が殺戮によって潰えたその様を。民に試練と栄光を与える狩人のアイオドが結晶じみたその美貌を絶望に染めた様を想像せよ。蛇の父祖として敬われた大蛇のイグがその宝石じみた鱗を涙で濡らした様を想像せよ。悔悟を胸に歩む銀色のヴォーヴァドスがその精悍なる靄じみた肉体を強張らせて咽び泣く様を想像せよ。お前達人間の感覚で想像してみるがよい、失敗によって生じる死の大きさを、地獄絵図の規模を〙

 ジョージは魔王がまどろっこしい表現で何を言いたいのかがよくわかった――この悪霊に負ければ、もっと殺される。わかり切った事ではあるが、改めて心が奮い立った。例えそれが悪魔の言葉であろうと。

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