第4話 殺す者の慈悲あるやり方
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
―
【名状しがたいゾーン】
一九七五年九月、午後十一時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟
ジョージ・ウェイド・ランキンはある種の悍ましいものと対峙していた。かつてであれば己の根本をも揺るがすような、それこそロキの狂信者の最も奔放な妄想にすら登場しないであろう、あと少しで異次元じみた角度を備えると推測される異形の元人間であった。下半身に向かうにつれて人間の面影、すなわち元の衣服が残っているその畸形の怪物は胸のむかつくような厭わしい声を上げ、その吐息は腐敗臭がして、糜爛しているように見える頭部に当たる器官の外皮はぬらぬらとしていた。触る事すら躊躇われたが、しかしジョージ・ランキンは己を侵害する者に対する断固たる態度を取る事を己の在り方としていた。彼は現代の不本意な除霊師であり、真実を追う者であり、それ以外の者であり、そして何より悪逆を憎んだ。無差別殺人を働く怪異を憎み、それの排除を使命と思っていた。
しかし今回、彼は冷静になって目の前で壁に攀じ登った異形を見据えた――この元人間を救う事はできないのか? すると彼の心の中で異界じみた魔王の気配が広がった。あの悪魔は何かを喋るつもりらしかった。
〘なるほど、大した博愛主義であるな。お前はこう考えているな、目の前の怪物を元に戻せないか、とかそのような類いの事を。それは確かにいい疑問であると言える〙
この世のものならざる美しい声で喋る触腕を有する異形の魔王はそのように新聞記者の心に語り掛け、その存在感がやや周囲に漏れて、目の前で壁の上部に蜘蛛のごとく張り付く異形をやや警戒させた。異位相の光景は相変わらずであり、得体の知れない空気かエネルギーの流れのようなものがゆっったりと動いているのが見え、ものの輪郭が奇妙に見えた。全ての光景は原色じみた色合いであり、正直鬱陶しく思えた。しかし己及び目の前の異形のみはこの場の例外として通常の彩色であり、異物である事が際立っていた。ジョージは慄然たるリヴァイアサンの個体である
「待て、じゃあこいつは元に戻せるのか?」
やや期待の混じった問いであった。しかし魔王は厭わしい声色を作って笑った。妖艶なる白蛆の魔王ルリム・シャイコースのごとき冷たい嘲笑が病院に満ち、人ならざる超常の実体が作り上げた空間でありながら、次元違いの実体の気配を感じて万物が恐怖した。
〘不可能であるな。既にあれはお前や、その文明にどうにかできる範囲ではない。あれはこの宇宙で最も進歩した種族の一つがそのように望んで捻じ曲げた怪物の副産物か、あるいは仔であるか。ともあれ、お前に
それを聞き終わるが早いか、天井近くまでじりじりと登った異形は己を支える頭部から生えた腕だか脚だかに力を込めて彼の方へと飛び掛かって来た。ジョージはすうっと横にずれてそれを回避し、左手の裏拳で一発牽制をお見舞いした。尋常ならざるものの腕か脚か判別のつかぬ、関節の配置の狂ったそれらの内一本を殴り、短い悲鳴が響いた。しかし相手もまた聞くに堪えないような声を上げてそれらの器官を振り回した。ところでジョージはある種の確信を経験の中で作り上げていた。というのも、この手の超自然的なものどもに、ある種の武術的なものがあった試しが無かったのだ。それらは本能的か、あるいは悪意に任せて己の名状しがたい付属器官を振り回し、そして狂った生体機能を利用して攻撃した――簡単な例であれば口から冷たい熱砂を放つような類いである。つまり予測が難しいと言え、そういう意味では神話時代の英雄達の怪物退治とて思った以上に偉大かつ難解な行為であるのかも知れなかった。
「何か手段は無いのか!?」
ジョージは攻防を続けながら叫んだ。恐らくは何も無いと悟ったままで。
〘無いな。お前が生き残りたいのであれば、お前は残酷である事を示さねばならない。それこそエッジレス・ノヴァのような輩を喜ばせるやり方で立っていろ。そうすれば最後に立っているのはお前だ〙
このリヴァイアサンは時折ジョージに理解しにくい事を口にする。しかし今回は魔道書を読み漁った事による知識で何が言いたいのかはよくわかったし、それに最終的にはそれしか道が無い事をジョージは理解していた。三流の怪奇小説の主人公のように恐怖に打ち震えるのではなく、反撃しろという事が生存の道であった。幸い彼の肉体そのものが怪異への猛毒であり、退魔の剣でもあった。
〘お前はシヴァが己の対等者との議論で口にするような征服者となれ。オーディンが危惧した最終戦争を笑い飛ばす者となれ。ソハノエイが好むと好まざるとに関わらずそうせざるを得なかった、己の異星の親族の末路と同様のものをお前の敵対者に投げ付けろ。そうすれば、お前はいつも勝つ〙
このリヴァイアサンの個体に今更言われるまでも無かった。ジョージは殺す者となった、これまでと同様の。確かに目の前の犠牲者とてこのような姿にはなりたくなかったはずだ。しかし、話し合いが通じるような事も無かった。
〘気にするな。既にお前の目の前の者は、お前達の種族としては死んでいる。別の観点からは生きているが、しかしそれはかなり穿った見方に過ぎぬし、意味が無い。端的に言う、殺せ。俺を失望させるな、お前のためにな〙
皮肉であると言えた。この魔王を満足させるやり方こそ、生存の道であるとは。実際のところこの悪魔は正直者であった――今後は知らないが。
ジョージは悍ましい何かの振り下ろしを回避し、その後の乱雑な振り回しを防いだり避けたりした。相手の方がリーチで優れるようであったから、こちらからもハイキックを織り交ぜたりして反撃した。異形の怪物を殴った時の感触は手袋越しでも地獄めいた最悪なものに感じられ、吐き気を催すそれを内心で笑い飛ばした――だからどうした、そっちは苦しんでいるぞ。ジョージは長年の軍人時代の訓練が染み付いており、今でも格闘訓練や基礎トレーニングを欠かさず、それ故に研ぎ澄まされていた。そしてこの数カ月間の経験で霊体であるとか異形の怪物であるとか、そのようなものどもとの闘争を学んだ。ふと背後に壊れた暖房設備が見え、それの金属パーツが外れ掛けているのが見えた。ジョージはあえて相手の振り回しをガードで受け、大袈裟に呻いて壁の方へと弾かれた。壁に手を衝いた様子でいたが、それを見て追撃しようと距離を詰めた相手目掛けて奇襲した。
「これはどうだ?」
彼は咄嗟に暖房の外れかけた金属パーツを引き抜き、錆びたそれで敵の襲い掛かる腕だか脚だかを強打した。隙を与えず次々と殴り、追い詰めた。壁に追い詰められたそれの頭部にハイキックを見舞って悶絶させ、その隙に腕だか脚だかをぐっと引っ張りつつ態勢を崩させた。転倒したそれの頭部を床に叩き付け、ランダム状に配置された目の一つに金属パーツを突き刺し、その上で彼は先程入って来た、あの壁の下部の穴の方へと弱った怪物の頭部を持って行った。彼はその穴の上部と下部――すなわち壁の断面と床側の断面――にそれの頭を両手で掴んで上下交互に何度も打ち付けた。手放した懐中電灯の光の外で処刑が実施された。闇の中で煉獄の虫けらどもとて上げぬであろう凄まじい絶叫があり、元が人間であったかが本格的に疑わしいその断末魔及び最期の苦しみを見ていると、ジョージは視界の片隅に何かが見え始めた――ああ、またか。
その光景は激しく揺れていた――もし揺れずに動いていれば視界の持ち主は車椅子なのであろうか。ともあれその必死さは呼吸音の激しさが雄弁に物語っていた。苦しい事すら我慢して一歩でも先に逃げようというその必死さは他人事ながら胸のむかつくような感覚をジョージに与えた。まるで己の喉も乾いて痛み始めたかのような気分になりながら、彼はある種のスローになった主観世界で何かしらの追体験をしていた。
犠牲者と思わしき視界の持ち主は厭わしい何かの流れが見えるこの原色じみた異界――あの悪魔によれば異なる位相――の暗い中で必死に逃げており、まともな照明も無しによくここまでと思った。実際のところ視界はほとんど利かず、無闇やたらにぶつかりながら逃げていた。その声はぼんやりとしてよく聞こえなかったが、ペースが速まったりする呼吸音が緊張感を与え、視界に入って来ない背後の何かからの逃亡を遠回しに示唆していた。するうちングウォレカラの側面の一つに邪悪な祭祀を捧げる異次元の磯巾着が歩行時に立てるような、得体の知れない音が背後から聞こえるようになった――ジョージは貸し出し禁止の書物からそのような未知の種族についてある程度の知識を得ていた。
急に暗い視界が傾き、ジョージは視界の持ち主が転倒させられた事を悟った。暗い中でどうなっているのか今ひとつ判別が付かないが、しかしどうやら倒れた後で背後を向いたように思われた。その一連の流れは先程の異形との邂逅を思わせ、嫌な親近感を覚えた。しかし一つ違うのは、視界の持ち主のぼやけた絶叫が聞こえ、ジョージと違ってこれから仄暗い運命が待ち受けているという無慈悲極まる悪趣味さであった。
何かが脚に巻き付いているのが見え、そして何かの輪郭が闇の帳の中でぼんやりと見え始め、そしてそれは思っていた以上の速度で犠牲者に接近し、その視界を大きく遮った。その何かの細部がやや控え目に見え始め、そして高まる犠牲者の恐慌は止まらず、激しく視界が揺れたので必死に抵抗しているのがわかった。呼吸音はもはや憐れみすら覚える程に悲痛であり、生きたままリヴァイアサンの犠牲となる怪異どものそれとも似ていた。すなわち己を侵害する悍ましい何かの存在がすぐ眼前にあって、それに抵抗する事叶わず、グロテスクな重量感が己に伸し掛かり、そして遂にそれが犠牲者の顔面を覆い尽くした。信じられないようなくぐもった絶叫が、喉が張り裂けるかのごとき勢いで響き渡り、そして一瞬だけ見えたその他の風景に、犠牲者の脚がぼんやりと暗闇の中で映った。
ジョージはその一瞬の中の体験で先程見た犠牲者と眼前の畸形とが同一であると理解した。ズボンが同じであり、そのあまりに無残で露悪的な最期に同情し、しかし他に手段が無い事を悟った。
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