第3話 犠牲者との遭遇
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
―
【名状しがたいゾーン】
一九七五年九月、午後十一時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟
周囲の光景は地獄めいたものに見え始めた。尋常ならざる異界へと取り込まれたらしく、コントラストの狂った原色的な風景の中で己の肉体のみは通常の色合いで見えるものであるから、己が異物であるという事実を強く認識させられた。ジョージ・ランキンは今までに何度も廃墟とそこに潜む邪悪を目にし、その度本人なりの天誅を下したものであった。しかしこれはなんであるのか? このような異界じみた場所に入り込むのは初めてであった。四月に侵入した廃校も時間の流れがおかしかったものの、しかしここはそのような理解し易い部類ではあるまい。よく見れば床やドアや天井などの角から奇妙な半透明の『何か』がゆらゆらと揺れており、沈没船に繁茂する海藻が海流によって揺れるかのような様であった。そして空気の流れのようなものが視覚化されたかのように、同じく半透明のものが空気中でゆったりと流れているのが見え、ここが一体なんであるのかは検討も付かなかった。
一旦撤退すべきであろうかと振り向いたが、しかし背後にあるはずの玄関口は得体の知れない脈動する赤黒い何かによって塞がれていた。彼はそれに触ろうかと思ったが、しかし悪しき影響が出るかも知れないと思って手袋に覆われた手を止めた。しかしふと彼は、己があらゆる超自然的なものに対する猛毒である事を思い出した。彼は床に落ちていた金属片を拾うと、それを右手で全力投球した。塞いでいる悍ましい物体に激突し、それは確かに厭わしい音を立てて湯気が生じた。しかしそこで思った――このままだと日が登ってまた日が暮れそうだ。
〘お前は今、あれの巣に掛かったのだ〙
楽しそうな声色で慄然たるリヴァイアサンの声が脳内に鳴り響いた。ああ、この悪魔はその気になればプライバシーの侵害も可能なのか。今後はもう、一人で性欲を処理しようという気力すら無くなりそうだ。
「じゃあお前は、この状況を作った相手がどんな奴がわかるのか?」
ジョージは突破を諦めた様子で尋ねた。どうせこのような展開であれば、名状しがたい何者かを討伐して初めて退路が拓けるのであろう。それまでは、この吐き気を催す空間にて地獄めいたピクニックをせねばならないと思われた。妖艶なる白蛆の魔王ルリム・シャイコースの小間使いどもが存在していたかのごとき悪臭が漂い始め、ジョージは己がやはり何かと対峙する運命にある事を悟った――いいだろう、そのために来たんだ。
非ユークリッド幾何学的な角度を備える異次元に棲まう魔王はそうしたジョージの思案をある程度見透かした様子で、異形の美貌に愉悦を湛えた様子で答えた。
〘お前を連れ去ったのは
ジョージは魔王の言う事を話半分で聞いて理解した。まあ六割ぐらい、重要な部分だけ理解して後の事は後で考えよう。とにかく己と契約しているリヴァイアサン個体の言う通り、今は得体の知れないどこかの異界に連れ去られたという事になる。
「そうか、大体わかったかもな。私はどうすればここから出られる?」
〘お前も既に悟ってはいるだろうが、その実験体を殺せばこの餌場は崩壊する。餌場は本来こちらの位相にお前が元いた位相の空間を部分的に引っ張ってきたような形となっている。まあそうだな、お前にわかり易く言えばこの異位相が二という部屋であるとすれば、元の位相という一の部屋に穴を開けて、一の部屋側からビニール袋を穴へと突っ込んで、二の部屋側でそのビニール袋を膨らませたような形だ〙
魔王が『ビニール袋』という言葉を使った事に内心苦笑しつつ続けた。
「崩壊するとどうなる?」
〘お前が巻き込まれたらどうなるかという意味であれば、お前は当然死ぬな。窒息死とも言えるし、圧死でもあるし、あるいは凍死でもある。俺や俺の同族が巻き込まれた場合はまあ、肉体にべったりと被膜がくっついて鬱陶しいという塩梅になる〙
ともあれ、普通の人間なら即死しそうに聞こえた。
「それならどうすれば?」
〘袋が潰れる前にお前が元の位相に繋がる門を潜れば助かる。あの実験体はいかなる再生能力を用いたところで、所詮は空間の圧縮崩壊に耐えられるよう設計されていないが故、どうあっても残骸すら残らぬ。故にあの実験体が一度でも死ねば、仮にそれが蘇生できようとも無駄という事だ〙
制限時間のある脱出、映画や小説で目にしたような気がする。天井から砂が落ちてくるのかどうかは、
「そうか、助言ありがとうな。私はいつも通りにすればいいわけだ」
〘忘れるな、お前の『いつも通り』は千差万別、よってお前の戦いの一つ一つが食事を前にしたこの俺を楽しませるという事をな〙
蛸じみた力強い触腕を備えた異形の魔王はこれから起こるであろう闘争に向けて期待を膨らませているらしかった。それから、その存在感が急に感じられなくなった。では、始めよう。
ジョージは暗い室内を移動し始めた。室内の間取りは最悪の場合リュックに入れている間取り図で確認できるし、昼間の調査で大体は覚えたという自信があったため、出たとこ勝負で問題無かった。しかし玄関口から受け付け等を横切って抜けていく通路が使用不能である事にすぐ気が付いた。またあの面倒臭い、気味の悪いものが通路を塞いでいた。なるほど、これはなかなか面白いお化け屋敷というわけだ。
ジョージは近くのドアを幾つか開けて、そこから移動可能かどうかを確認した。向かって左側のドアを開けたところ、その内側を覗くと壁の下にしゃがめば通れるであろう穴が空いているのが見えた。となるとここを通るのが賢明であろう。ジョージは懐中電灯で中を照らし、危険が無いかを確認した。足元はぱらぱらと剥がれた黒く変色した塗料片に覆われ、机や椅子が乱雑に積み上げられ、窓はまたあの得体の知れないグロテスクな物体に覆われていた。ジョージは悪臭の正体がそれではないかと考えた。今この瞬間も気分が悪くなるような、名状しがたい未知の悪臭に鼻孔と喉元を蝕まれ、今すぐ香水を振り掛けたかった。にちゃにちゃと脈動するそれの表面からは粘液が滴り落ち、恐らく以前であれば見ているだけで背筋がぞわぞわとしたものと思われた。それら生理的嫌悪感を催すアトラクションに満足し、ジョージは部屋の中に足を踏み入れた。
何か起きるのかと思ったが特に何も無く、今のところその心が捻じ曲がった怪物とやらは大人しいものと思われた。そして進行方向上の壁へと近付き、体勢を低くして向こう側を照らして確認し、特に何も無さそうなので彼はそこを潜り始めた。できるだけ廃墟の汚らしい壁には触れたくないなと思いつつ潜っていると、途端に何かの気配を察知した。彼は考えるよりも早く前転しようとしたが、何かが落下してきて不完全な状態で倒れた。右脚に何かが伸し掛かった感じがしたので上半身を捻ってそちらに懐中電灯を向けると、全くもって当惑させられる光景が広がっていた。
それは恐らく元は人であったと思われた。というのも、下半身に向かうにつれて人間らしさ、具体的に言うと衣服が残っていたものであるから。しかしそれの上半身は醜く左右非対称に膨張し、肉は赤く充血したかのように変色し、腕であったものは水膨れと腫瘍じみた何かに覆われていた。胸から頭部にかけては特に変形が酷く、哀れさすら感じられるその悍ましい姿は強い光に照らされてぬらぬらと輝いて見えた。正常な頭部があった場所はよくわからないような肉の無秩序な塊となって直径四フィート以上に肥大化しており、不自然かつ方向もばらばらな目があちこちに配置されており、そしてその悪意的な戯画じみた頭部からは五本の腕だか脚だかが生え、関節の配置は畸形的な規則の無さと実用性の低さによってこの生物の異常さを物語っていた。
ジョージはほとんど本能でそれの顔面らしきと箇所を手袋をした右手で一発殴った。すると信じられないような悲鳴が響き渡り、思わず耳を塞いだ。悲鳴と共に、その元人間らしき謎の生物はさっと後退って壁を這い登り、脚が自由になったジョージは仰向けになると己の脚をぐっと振り上げるようにして後転して立ち上がり、リュックを背負った状態で様々に行動するための訓練を積んでいて助かったと考えつつ、一旦距離を置いたその生物を狩人のイオドのごとき眼力で睨め付けた。途端頭の中でリヴァイアサンの笑い声が聞こえた。ああ、なるほど。今までの探索とは違い、これから本格的にあの悪魔は私の『サポート』をしてくれるようになったわけだ。リアルタイムで実況解説をしつつ、私のプライバシーを侵害してくれるわけだ。
実際のところ
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