第9話 ドラゴンの兵器

『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。


登場人物

―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。

〈衆生の測量者〉サーベイヤー・オブ・モータルズ…強大な悪魔、リヴァイアサンの一柱。



【名状しがたいゾーン】

一九七五年九月、午前零時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟


 ジョージは殺害の中に慈悲を見せたが、しかしいつまでもそこに留まっているわけにもいかなかった。感傷は後にするべきであり、今はこの下らない虫けらじみたゲームを終わらせる必要がある。今回は犠牲者がどのような末路を辿ってあのような獣に成り果てたかについての幻視は無かった。だがそれでいい、知りたいとも思わない。知るが知るまいが、やる事は変わらないからだ。

 ジョージはゲームを捻じ曲げる事を考えた。あの赤黒いグロテスクな壁を手袋越しに殴り、痛めつけた。蹴った時には凄まじい勢いで何かが蒸発していくのが見えた。あのゆらゆらと揺れる空気の流れのようなものが暴れ狂い、何やら断末魔じみていた。なるほど、これはある種の恐怖なのだ。これから向かう死に対する漠然とした怖れが噴出しているのだ。思うにこれらの肉塊やそれに準じた悪臭のものどももまた、黒幕である鼻持ちならない実験体の側面なのであろう。そこでふと思った――ここまで側面を多く持っているとなると、まだ見ぬ『こいつ』は神にでもなろうとしているのか。

〘殺害者よ、それはよい疑問だ。俺は幸いそれに答えられる、何せ上機嫌故にな〙

 いつになく嬉しそうな、あるいは何かに魅了されたかのような、やや上の空の声色で魔王は言った。地球人とは似ても似つかぬ触腕を備えた悪魔は己の契約者がしてくれた貢献に酔い痴れていた。

「ほう、それで? その異星人の玩具は何を考えているんだ? どうせ私の心を読んでいるんだろうが、奴は本当に神にでもなりたいのか?」

〘高潔なるドラゴンのクトゥルーや愚かなトリックスター気取りのMや傲った風のイサカのような神になりたいのか、それとも俺やけちのルリム・シャイコースやどこかをほっつき歩くオロバスのような悪魔になりたいのか。それは俺にもよくわからんな。そもそも俺は神も悪魔も、そう変わりはないと考えているし――とは言え、悪魔と呼ばれたり、そのように分類されるだけの事はやっているのであろうがな。なんであれ、ある種の高みに登りたいと考える愚か者はどこにでもいるものだ。高次のものどもと密約を交わす程度では足りず、自ら強大でありたいと願う身の程知らずの下等生物がな。俺にできる事はまあ、そういう連中に束の間の夢でも見せてやってから搾取し倒す程度というわけだ〙

 悦に入った声色で悪魔は説明した。未だに先程の光景に浸っている事がすぐにわかり、ジョージはややうんざりした。別にこいつのために殺したわけでもないが、一方的に気に入られたのであった。

「それで、殺していいのか? まあ駄目だと言われても脱出のために殺すがな」

 悪魔は大爆笑しながら退散した。そうだ、お前はそれでいい。お前が俺と作り上げた残酷極まる真実、その亜種だ。奴はお前の脱出のために、踏み躙られて殺される。永遠に続くと思われた上昇とその余興のゲーム、それは突然終わりを告げ、奴はお前に命乞いをしながら無残に死ぬ。これは実に美しい真実だ。俺達の真実はどこから見ても美しく、副産物ですら切れ味は鋭い。


 数の上ではあともう一人の犠牲者がいると思われた。恐らくはこれまでの二人と同様に、悍ましい末路を迎えた末に肉体も精神も捻じ曲げられ、実験体の外縁器官として変異させられたのであろう。実に悍ましいが、幸い殺す事で解放してやる事はできる。

 ジョージは肉の襞じみた名状しがたいものを叩き割り、壁として通路や階段を塞いでいたそれが取り除かれた事で次のエリアへと向かう足掛かりができた。思うに敵は最上階、少なくとも四階まであるこの廃墟の三階以降に潜んでいるのであろう。向こうから来ないのであればこちらから殺しに行くまでの事。ジョージはこのような吐き気を催す体験談をそのまま記事にするわけにはいかないなと内心苦笑していた。異なる位相へと連れ去られ、そこで悍ましい変異体やそのボスと対峙する。もし引退したら老後はこのような体験談を元にした小説でも書いてみるか。売れないにせよ胸に溜め込んだものを吐き出せてすっきりできるかも知れなかった。

 あるいはこの世の裏側に存在するものどもを何かしらの手段で察知して『創作』の体で世の中に送り出したニューイングランドの紳士作家のごとく、己の未来の作品もまた無駄に熱狂的な一大ジャンルになるのかも知れない。

 先程開けた穴から懐中電灯を照らして慎重に不意討ちを警戒し、壁の向こうのクリアリングが完全に終わった事を口に出して確認してから彼は肉の壁の向こうへと進んだ。次の階へ向かう階段までの近道ができた事で少し心が楽になった。遠回りして行くのは安全かも知れないが、しかし退屈であった。さっさとご対面して殺してやるとしよう。ジョージは階段を登り始め、二階と三階の間にある踊り場でまたも慎重に周囲の安全を確認した。ついでに周囲の壁や天井がどのようになっているかも見たが、あの脈動する藤壺か何かや、先程破壊した壁のお仲間が更に増えていた。やはり階を上がるごとに悍ましい腫瘍じみた肉塊の割合が増えるのか。普通に考えれば、つまりそれらのグロテスクかつ悪臭を放つ有機物じみたものの割合が最も高いエリアに実験体はおり、そこは四階のどこかであると思われた。

 だが周囲を窺って状況を整理していたところ、突如頭の中に何かが入って来た。


 その感覚はぐずぐずの腐った肉の浮かぶ液体が己の中に入り込もうとするような感じがした。ありもしない悪臭、周囲を満たす悍ましい腐敗の液体。匂いだけで咳き込み、鼻がじんじんと痛み、喉がからからに乾いてしまった。吐瀉物よりも遥かに気色の悪いそれらの液体が徐々に水位を上げて、逃げる事も立ち上がる事もできない己の周囲を満たし始めた。ズボンが濡れ、染み込んできた生暖かいそれの感触が込み上げ、目からは涙が流れた。それが指に触れ、手袋の中に入って来た。ズボンも上着も包まれ、服越しに入って来るそれらに包囲され、胸の辺りまで浸かった。荒い息を吐いて可能な限り上を向いて先延ばしにしようとしたが、首や顎や耳の裏があの悍ましい腐敗のスープによってぞわぞわと蹂躙され、悪臭が臓腑に満ちた。そして更なる水位上昇によって理不尽にも口や鼻、目がそれに触れて、体内があり得ない程に不味い糜爛した肉の浮かぶ液体による侵略を受けた。舌に触れた時の感覚、歯や喉、さらには鼻の奥すらも蹂躙するそれによってジョージは苛め抜かれた。吐いても吐いてもどうにもならない、そして何故か窒息はしない水攻め拷問。永遠に続くとさえ思われる、胸のむかつくような異次元的体験。

 だがそれは、既に真実を作り上げたジョージにとっては大した事ではなかった。

「バカバカしいな、それが真実から逃げ続けたお前にできる最善か?」

 ジョージは階段の踊り場で手を広げて軽くその場を回りながら、そのように堂々と言い放った。舞台俳優のようで気分がよく、真実の味がいい口直しとなった。彼は悍ましい幻覚だかなんだかの影響下ではなく現実の中におり、攻防一体の武器として成立していた。故にそれが真実の鋭さを物語った。残酷さの総体に典拠せず単独で存在する残酷さという、とある〈人間〉マン〈悪魔〉デビルが作り上げた共同作品の真実。そのようなものに対して、現実の裏側である幻影などはなんの意味も持たなかった。

 空間が震えて何かを言っているのが聞こえてきた。意味の無い言葉の羅列、現実逃避の輩がやるような類いの事象。だからどうした、どうでもいい。

 殺す、死ね、殺してやる、馬鹿にするなよ、お前なんぞに――下らない、そのような呪詛に何か意味があるか?

「お前は必死に拒否しながら爪を剥がれた事があるか? 縛られて身動きできないんだ、頼んでもやめてはくれない、頭の中が爆爆発したような痛みでいっぱいになる。吊るされて背中をバーナーで炙られ、その激痛が続く夜を一睡もできずに過ごした事はあるか? 終わってくれと願い続けても終わりはしない、決してな。その一瞬一瞬を終わるまで過ごし続けるしかない。まあなんでもいいが、お前は私と似たような経験をしたのだろう。だがお前はその苦痛と屈辱から逃げた。私か? 私は今でも忘れない。今でもその時の経験が忘れられないが、決して逃げない。だから私はこうして普通に生きていける。現実に根差して、しっかりと楔を打ち込んでな。私はお前のように真実を捨てて現実から離れちゃいない。お前は弱者で、適者生存やその他の法則によって私に殺されるんだ。残酷だろう? 私もそう思うし、実際最高の気分だ」

 言い放ってやった事で気が付いた――真実を口にすると気分爽快である。例え、このような歪められた廃墟の中の、天井や壁や床を覆うグロテスクな有機物に彩られた巣の中であろうと、南国のリゾートにいる時と同じ気分のように思えた。

 厳密には行った事は無いが、と彼は内心笑って、それらの様子が再び魔王を魅了した。しかし魔王はこうも考えた――先程の兵器は・・・・・・一体なんなのだ・・・・・・・

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