第5話 生存主義者
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
―
【名状しがたいゾーン】
一九七五年九月、午後十一時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟
己は殺戮を宿命付けられているのであろうかと考えた。実に暗澹たる考えであろうなとジョージは表情を暗くした。懐中電灯で照らすと、先程己が殺した相手の様子がよくわかった。己は怪異を殺すものであり、そして場合によっては容赦を知らなかった。確かに彼は名状しがたいものの眷属によって己の命を脅かされた。人間を悍ましくも戯画化したがごとき畸形の怪物が、その鼻持ちならない付属機関を振り回して、ジョージを新たな犠牲者に加えようとしたのであった。吐き気を催す程に悪趣味であり、自らの生存という観点からは許しがたい至高の悪逆であるように思われた。しかし残念ながら、その畸形の生物とて元は人間であったのだ。少なくとも、人間であった頃が存在したのだ。それを殺すしかなかったというのは、この非常事態においても色々考えさせられた。別に殺人そのものについては彼は割り切って考える事ができた。その実軍人であった頃は必要に応じて殺す事もあった。更には、特に悪人の類いに関しては殺したとて何も感じないと考えていた。であるが、この尋常ならざる過程を経て変形した元人間の犠牲者は別段悪人ではないように思われた。せいぜいが、幼い頃に悪戯で盗みを働いたとかそのようなものではないか――殺す程の悪ではあるまい。
それを己は殺してしまったのであるから、その事について考えないわけにはいかなかった。しかし彼はその上で、この不気味な廃墟の奥深くに潜む異界的な角度の実体と対峙し、それを滅ぼさねばならなかった。それこそが彼の歩む道であり、このような寂れた気味の悪い地こそが彼の暗い冒険におけるフロンティアであり、征服すべき開拓地であった。誰かを傷付けたりしない怪異であれば好きにするがいい。だが、そうでないのであれば私はそこに訪れてやるからな。
ジョージ・ウェイド・ランキンは怪我が無いかを確認し、装備の状態も確認し終えると、この原色的なコントラストで彩られた位相におけるジャーマンタウン病院を踏破するために歩み始めた。予想外の遭遇で心に暗いものが広がったが、しかし彼は踏み越える者でなければならなかった。彼に力を貸す魔王はげらげらと笑いたい気持ちを抑えるのに必死であったが、結局笑う他無かった。
〘お前は飽きさせないな。お前は俺の期待を超えるものを見せた。実に美しい様ではないか〙
殺すしか無い状況で元人間を殺してしまった事で喜びを見せる魔王に対して、ジョージは怒りが込み上げた。
「笑い事じゃないぞ。あれは人間だったんだ。まだ生きたったろうに、こんなふざけた場所で最悪の体験をして、その末に殺された。化け物に殺されて、その上私にも殺されたんだ」
ジョージは先程の幻視じみた体験を思い出した。アドレナリンによるスローになった主観世界のような体験の中で彼は犠牲者があの畸形の怪物になる前に何が起きたのかを、犠牲者自身の視点で体験した。悍ましいが、しかしほとんど何も感じなかった己の『恐怖への耐性』がその時は邪魔に思えた。いきなりこのような異界に取り込まれて、得体の知れないグロテスクな怪物に追いかけ回されて、その犠牲となった犠牲者の心境を考えた。
〘お前はそうした事を全て理解している。しかし、その上でそれしか道が無いと考えてそうしたのだ。お前はまた、俺の言う通りに殺し続けるしか、お前が憎む怪異どもを殺す術が己に無いと知っている。お前は生存主義者だ。お前が生きる衆生でお前らしく生きるために、すべき事をする意志及び覚悟を持っている。そのような才能は貴重だ、故に俺はお前に力を与えたのだ。
〘まあ、俺の事は好きに思うがよい。悪魔の本質は寄生虫、俺はお前やその他の何者かに寄生して益を得る者であり、それ以外の信じれないような者でもある。お前達人間から見れば俺はそのような類いであろうな、俺をあえて信仰する一部の例外を除けば。故に俺もまた寛大である。何せ、お前やその他の宿主は俺に極上の料理を提供してくれるからだ。無礼もまた食前の余興であるから、お前が俺をどう考えようともそれは別にどうでも構わぬ事だ。俺にとって重要なのはお前が殺す事だ。お前が極度の甘党であるこの俺に極上の甘み、すなわち悪の魂を捧げる事こそが全てであり、それ以外は流動的であろうとも構うまい。お前はお前が生き残るために殺せ、お前が信じる何かしらの価値観のために殺せ。それがお前の自然な在り方であるが故にな〙
ジョージはかっとなって何かを言い返そうとした。しかし相手は深く、そしてどこまでも広がる黯黒の大海に思えた。一部の貸し出し禁止書物に記述のある黒きハリ湖なる場所も、実際には大海原であるのかも知れなかった――具体的に言うとこの異界に住む
黯黒の遠大なる実体について考えるだけ、全くの無駄であるように思えた。蟻が人間の大国の構造を理解しようとしたところで、それに何か意味があろうか。少なくとも理解には莫大な時間が掛かろう。そして人間に蟻の考えなど理解できるはずがない。個々の小さき者の思考を理解できるほど、上位者は熱心でも無ければ人格者でも無い。目の前の魔王とてそうであろう。いや、一応会話できる以上ある程度理解はしているのではあろうが、しかし実際のところ実験室の汚れたガラス窓からその内側の観察対象を覗いているだけなのではないか。となれば、その名が示す通りの観測者ではあっても、理解者であるはずあるまい。どこに蟻の一個体の人生とその考えを慮る人間がいようか。そのような者は奇特として存在こそすれど、決して主流ではあり得ないのだ。
ジョージはそうした思考の果てに、この悪魔について深く考えるだけ己が敗北していくのみであると悟った。理解できない、あるいは理解の難しいものを無理に理解する必要は無い。この今のところは正直者である悪魔が嘘つきに転向――あるいは『帰還』とも言えようが――するか否かを警戒する必要はあるが、しかし深く理解するのはまたの機会にすればいい。今はとにかくこの悪魔に借りた力ですべき事をするだけであった。新聞記者はそのように考えて思考から離れ、急進的なオオマガツヒの信者が漠然とした幻視の中で時折目にする事もあるこうした異界などは早急に征服してしまおうと考えた。図書館の貸し出し禁止エリアに置かれている様々な書物の中でも特に忌むべき部類の幾つかは既に目を通しており、ジョージはある程度『こういう分野』にも慣れ始めていた。あとはこのまま経験を積むだけであろうと考えた。
階段に差し掛かるまでは特に何も無かった。この原色的コントラストの異界、所謂異位相に目が慣れ、厭わしいエネルギーか何かのゆったりとした流れを目にしても何も思わなくなった。ありきたりな気持ち悪さであるから、心が慣れた。まあ無警戒になる事を警戒する必要はあるが。暗闇ではあったが、一応海中電灯無しでもある程度の視認は可能ではあった。もしかするとこの大気中のエネルギーか何かの流れそのものがごく僅かな光源であるのかも知れなかったが、それらの確認は後で自宅のメモに残しておこうと考えた。実際ジョージは訪れた廃墟で遭遇する超常現象については、己が担当するホラースポット巡りの企画中でもほとんど何も書いていない。せいぜい、白々しく『ぞっとした』であるとか『嫌な気配がして汗が止まらなかった』であるとか、そのような実態には即していないただの仄めかしに留めた。というのも、このような尋常ならざるものを世間に発信する事の危険性を重々承知しているからだ。半信半疑や面白半分で禍々しいものどもが闊歩する領域――まあジョージが既に踏破済みの場所なら既に『討伐済み』であろうが――に出掛ける事があっては不味い。あくまで、既に彼が歩いた場所を誰かが歩く程度であって欲しかった。『とんでもない心霊現象に遭遇した』だのなんだのと書いて、それを真に受けた誰かが『自分もそういうものを見てみたい』とどこかの恐るべき廃墟に足を踏み入れるのはよくない。このような企画をしている時点で世間の注意を引いているとは言えたが、しかし最低限の予防は可能であると考えていた。
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