はまじのその後二

のりたか

ビートたけしファン

ビートたけしは漫才師だった。今では映画監督やテレビの司会をしているが、昔はツービートという名の毒舌漫才師であった。

ツービートをテレビで観だしたのが中三の時で、漫才の会話が毒っぽいなと感じ、こんな漫才師もいるんだと思っていた。

当時、日曜の夕方に大阪から放送していた番組『ヤングオーオー』をよく観ていた。漫才師や芸人が多数出演していて、明石家さんま、紳助・竜助、のりお・よしお、オール阪神・巨人、ザ・ぼんちなど今ではビックな人達が出演していた。ツービートはその番組には出ていない。

そんなころ、花王名人劇場という番組で大阪と東京の漫才師が漫才対決をやっていた。

それにツービートが出ていた。

僕はそのテレビを観た時、ツービートのビートたけしの毒舌がとても気に入ってしまった。

「すごい、こわい者なしなんだ」

という感動があった。たけしのファンになった瞬間だった。

それからというものツービートが出演してるテレビ番組をじっくりと観つくした。

高校へ入ったころ、土曜の夜八時に『オレたちひょうきん族』という番組が始まった。

この番組は大阪の芸人、ツービート、B&Bなどがレギュラー出演してるバラエティーで僕にとってまさに特番であった。

今まで、ドリフターズの『8時だよ、全員集合!』を観ていたが、ひょうきん族が始まってからは観なくなった。

『オレたちひょうきん族』は毎週、毎週虜にさせてくれ、『タケちゃんマン』は一番のお気に入りだった。なんたって、ビートたけしが主役だからだ。

ウィークデーの昼に『笑っていいとも!』の前身、『笑ってる場合ですよ!』という番組も始まった。B&Bの司会で漫才師やコメディアンの人達が日変わりでレギュラー出演した。ツービートは火曜日が出演日でのりお・よしおは木曜日が出演日だった。ただ学校へ行き見れない。当時ビデオデッキはなく火、木曜日は特に観たかった。

ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』も中三の終わりころ始まった。

放送は木曜夜中の一時から三時までで、当時起きていれない方が多かった。起きていても最初の三十分位聴いて寝てしまう。

たけしのラジオは、始まりのトークが好きだった。週の出来事や失敗談、芸人達のマル秘話しなど聴けておかしかった。毎週木曜は楽しみにしていたのだが、睡魔に負け聴けなく残念だ。

高一の夏休みに、初めてたけしのラジオを二時間聴けて内容のすさまじさを知った。たけしのラジオは病み付きになっていく。

僕と弟の部屋にはテレビがなく、一家一台のテレビでのチャンネル争いがあった。そんなころ義父が中古テレビをもらい、それを部屋へ設置したのでツービートのレギュラー番組は欠かさず観れるようになった。ちなみに、弟が寝静まったころイレブンPMなど深夜番組で自家発電もしていた。

高校を辞めたころ、十二月三十一日の大晦日に友人のカニエイと『ザ・マンザイ』を新宿コマ劇場まで観に行った。初めてツービートを生で観た記念すべき日である。

僕らが会場に入るとテレビの生放送もあるため、リハーサルが行われていた。その時、いきなりビートたけしを観てしまった。僕らは神様を観ている感じで直立不動になった。

たけしはボーっと物静かに立っていた。他にもひょうきん族に出ている芸人達がたくさんいたが、ビートたけしを目で追っていた。そして僕達はコマ劇場での漫才を楽しみ、感動もありで会場を急いで去った。なぜなら日本青年館で行う九時から生番組の漫才を観に行くためだ。この番組の券は抽選で当て持っている。それで急いで千駄ケ谷へ向かった。

日本青年館での出演芸人はコマ劇場の出演者とほぼ同じで当然ツービートもいる。

観覧すると漫才のネタはコマ劇場と違った。世間は漫才ブームで芸人達はとても急がしい。一日に二回もツービートや大阪の漫才師を観れて思い出に残る大晦日になった。

山手線で一夜を明かし、元旦は東京見物をして帰った。当時二人ともお金が少々で煙草を吸う年ごろでもあった。煙草代がもったいなく、シケモク(煙草の吸い殻)を拾って東京をブラブラしていた。そのシケモクはまずかった。

たけしファンはエスカレートしていく一方だ。高校を辞めたことで髪の毛が伸ばせるから、自称たけしカットにしたり、ダボダボのズボンを履いたりもした。静岡は文化放送のラジオ局が入らないが、ツービートが出演の時は、周波数を合わせ微量で聴いたりしていた。

『笑っていいとも』の前身、『笑ってる場合ですよ!』の観覧券を当て、カニエイと四回位、観にいったこともある。

いずれも人気のあるツービートの日ではない。この会場は新宿アルタの七階にあり、初めて入った時とても狭いと驚いた。ここから全国放送しているのかと不思議に思っていた。その後、新宿区若葉町に上京。清水から微量で聴いていた文化放送の近くに住んでいた。

ニッポン放送だったら毎週たけしのラジオが終わったころ、顔を見に行ったり、弟子志願の行動をとっただろう。『オレたちひょうきん族』の収録を水曜日にやっていると、たけしがラジオで言った。僕は確かめに河田町時代のフジテレビに行き、たけしの大阪ナンバーの赤いポルシェをチェックすると胸が躍った。自分が東京に住んでいる実感があった。たけしのレギュラー番組の中で一番好きなのは、オールナイトで次にひょうきん族だった。

たけしのラジオには何度もコーナーへハガキを出していたが、ネタがだめで読まれなかった。ただラジオ内の片岡鶴太郎のワンコーナーにハガキを出したら読まれた。一応たけしのラジオ内だったのでかなり喜んだ。宗教ではないがまるで『たけし教』の信者である。

その後、ラジオでバンドメンバーを募集した。これは応募しようと、ピアニカでキラキラ星をカセットに録音して送った。数週間後、たけしのラジオでバンドメンバーを募ったカセットを紹介している。僕は期待して聴いていた。そしたら、『次は新宿ののりた、こいつピアニカだぜ!』とキラキラ星が流れ出た。

「流れた!」

とガッツポーズをした。ビートたけしから毒舌紹介され、超ビックリで感無量だった。

何人も紹介した一人だが嬉しくて、とうとう一睡もしないでバイトに行った。

それから、たけしのアパートらしきを見つけた。ラジオで四ッ谷三丁目の焼き肉屋の名がよく出てきた。弟子やスタッフとよく行くらしいのだ。僕は一人ローラー作戦でその焼き肉屋を見つけ出した。三丁目交差点の近くだった。自分のアパートとあまりの近さに驚愕した。

そのころ、ラジオでたけしはつい『おいらのアパート下の焼き肉屋で……』と言った。『えっ!』と思い、そういえば焼き肉屋の上がハイツだった。

「あそこに住んでいたのか」

と自分のアパートから近くて気落ちした。

その後、確かめるためアパートを観察しに行く。たけしのラジオが終わって見に行ったり、焼き肉屋をのぞいたりとストーカーだ。十七歳の自分はたけしをアパートで見たかった。だが一回もたけしを見ない。実はアパートが違っていたかもしれないと思った。それで、たけしのアパートらしきとなったのだ。

有楽町にニッポン放送ラジオ局があった時、たけしのオールナイトが終わるのを帝国ホテルの柱で待ってたときもあった。だがウトウトと寝てしまい、起きると朝方になっていて、また見れなかった。

火曜日の『笑ってる場合ですよ!』はツービートがレギュラー。観覧券は何度もはずれていた。アルタの入口でたけしの出て来るのを待っていたこともある。でも火曜日はたけし待ちが大勢いた。一回ニセモノのたけしがエレベーターで降りてきた。結構そっくりで大衆が集まったがニセモノと判ると散っていく。その隙に帰ったのだろうか。スタッフもなかなかやるもんだ。

東京にいるのにビートたけしと滅多に会えない。たけし関係の本は結構持っていたし、雑誌もチェックしてるが思いは通じない。

ラジオで『たけしと騒ごう札幌の夜』というツアーの募集があった。が五万円掛かるのであきらめた。東京で騒ごうでいいのにと思った。

これまた、たけしのラジオで横浜大洋ホエールズ・ファン感謝デーの日にたけし野球チームと対戦をすると言っていた。

日曜にやるので土、日を利用して友人のカニエイも来てくれた。

当日になり、僕らは四ッ谷から横浜スタジアムに向かう。自分は大洋のファンなのに初めて行くが、カニエイは今回で二回目になる。一回目は『高中正義・ギターファンタジアIN横浜スタジアム』であった。

着いて見ると、でかいなーと声を出していた。入場は無料で、三塁側スタンドに行きグランドをよく見ると、たけしチームが練習をしていた。たけしは軽くキャッチボールをしている。僕達はその様子を静かに見守っていた。

ホエールズの軽い練習が終わると試合は始まった。

たけしチームは弟子のそのまんま東や大森うたえもん、ダンカン、松尾伴内、ラッシャー板前、ポップコーン、知らない人、などいてピッチャーがたけしだった。静かだった僕らも応援しだす。

双子のポップコーンは、二人とも守備が上手いのが印象的で、たけしもよく長く投げていた。お笑い時の顔は見せていなかった。

勝算はやはりプロ側だ。しかし、たけしチームはそれなりに上手く、草野球チームでは強豪チームと感じられた。

感謝デーも終え、僕らはたけしを待ち伏せしようと、球場下の駐車場を金網ごしから観察していた。そしたら赤いポルシェにエンジンが掛かった。だれが運転しているのかと見れば、当時マネージャーの菊地さんだった。僕らはポルシェに向けて、

「菊地さーん」

と声を掛けるとキョロキョロしている。もう一回、

「菊地さーん!」

僕らに気づき笑っていた。だが奥の方へ行ってしまい見失った。仕方がなく帰ろうと駅までたらたらと歩いていると驚いた。前方に弟子のそのまんま東、ダンカン、松尾伴内、ラッシャー板前が歩いているではないか。僕達はとっさに向かってラッシャー板前に話しかけた。

「ラッシャーさんの名字はスズキですよね」

とか、

「ラッシャーさん、煙草はマイルドセブンを吸うのですか?」

など観察しながら話していた。

当時、ラッシャー板前は弟子になったばかりで、たけしラジオでラッシャーのことを話していて情報を知っていた。僕らにとって弟子もタレントなので感動していた。

そして、あまりにもラッシャーばかりと話していたのでダンカンに、

「なんでお前がファンに囲まれるんだ」

と、叩かれていた。

弟子としての縦社会は厳しいことを現実に知る。松尾伴内やダンカン達を『松尾兄さん』、『ダンカン兄さん』と呼んでいた。

そんな感じを関内駅まで会話をしてもらいながら歩いた。だが駅まですぐだった。

それから月日が経ち、静岡市と清水の中間の山、日本平に何かのチャリティーで『ビートたけし&足立区バンド』が来ることをカニエイから知った。二人で行くことになる。

当日、僕らはチャリティーに券が必要なのかわからないが、とりあえずバスで向かった。

着いてみると券が必要である。どうしようか二人で考える。タダで入れる透きはないか探した。結局そんなところはなく、入口のもぎりのオバさんへどうにか入れてくれと交渉をするが、なかなかオッケーの返事をくれない。面白いことを言ったり、モノマネや顔芸もやった。オバさんはウケていたが入れてくれない。

そんなオバさんと話していたら、主催者ぽい人が来て、その人へ東京から来たたけしの大ファンのことを申し出た。その人は『東京から来たのかね』と関心してくれて、

「では、入っていいですよ」

と言ってくれた。僕達は大変お礼を言って喜びながら入った。オバさんは『よかったネ』と言っていた。

野外ステージなので中に入らなくても遠くからなら観れるが、一番前に座り声援したいために、どおしても会場に入りたかった。僕らの熱意が勝った。

中に入り、走ってセンターステージ位置に行ったがどこもいっぱいで座れない。一番前は右か左の端しか空いてなく、テント楽屋がある右端の一番前に陣取った。ステージではチャリティーオークションが行われていた。

そして、夕方になりオークションも終わって休憩になる。ステージではバンドのセッティングに入っていた。ビールを売っていた。ハイになろうと二人共買って飲んだ。その後始まった。

「タケシー、タケシー!」

僕らはいきなり騒ぎ出したので、横の客人達は驚いていた。たけしだけではなく足立区バンドメンバーの名も声援していたので、隣の人が『三原ってどの楽器?』と言ってきたり、『ギターは南』など自慢げにまわりの人達に言った。

中座して花火が上がった。とてもビックで頭上近くに感じられた。テント楽屋の前では足立区バンドでギターの南とドラムの三原が花火を観ていた。

まわりが花火に夢中の時、僕らは正面すぐにあるテント楽屋に行き三原としゃべる。

たけしラジオで三原は自分の男性自身を出し、『粗松たけ』という一発芸をやりたけしに爆笑を得ていた。それで知っていたので三原のところに行った。そのネタで三原をイジった。彼は僕らとしゃべってくれて嬉しかった。まるで足立区バンドの仲間になった感じだ。

そしてコンサートも終了し、大満足のたけしと足立区バンドコンサートだった。

その後、たけしがまた清水に来た。それは僕が十八歳の一月に清水市民会館で行なわれた。これも何かのチャリティーでの漫才ショー。出演者はツービート、B&B、おぼん・こぼん、カージナルスという豪華な方々である。

この漫才ショーは券が必要だったが、既に入場券を持っていた。母が仕事先から二枚もらっていた。友人と行って来いと自分にくれた。当然カニエイだ。

そして当日、僕達は早く行き、裏口でたけしが来るのを待った。待っているのは僕らだけで、手には色紙を持っている。たぶんポルシェで来るだろうと予想した。

一時間半位待った時、ついに赤いポルシェが現れた。僕達は興奮した。

「来た!」

車を駐車して出てきたところを、僕らは握手とサインをもらい感激していた。そのあとに、B&Bの洋七がベンツで登場して来た。洋七独特の声がテレビの時と変わらなく印象的だった。そして、握手をしてもらい今日の漫才と明日の『笑ってる場合ですよ』のエールを送った。

開演の時間になり始まった。

漫才歴の浅い自分はカージナルスのコントを初めて観た。西部劇風のコントで大笑いしていた。今でいう、カダルカナルタカとつまみ枝豆だ。

そして舞台も佳境になり、B&Bからツービートにバトンがつながれ、大声援で幕を閉じた。

この漫才ショーは昼の部と夜の部の二回公演であった。何と僕らは、夜の部も観れたのだ。夜の部は券がなかったが、開演ギリギリに半券を見せたら入れてくれた。二人でお礼を言って入った。

僕達はよく図々しいので、あらゆるところで得をしていた。反面嫌われることも多い。

終演後裏口に行き、帰るたけしを見にいく。昼より人がいたが東京程ではない。たけしは人をかき分け車まで行き、自分で赤いポルシェを運転して帰った。僕はカッコイイなと感動した。

そして、生でビートたけしを見たのは、この時が最後になった。

ビートたけしの弟子にツーツーレロレロという漫才コンビがいた。一番弟子で人気のある、そのまんま東と大森ウタエモンである。

なんとツーツーレロレロが静岡のローカル番組『ジャンジャン・サタデー』に出演することになった。

早速、カニエイと連絡をとりアポなしでテレビ局のスタジオへ行くことになった。

当日、自転車で静岡第一テレビまで行き、受付のお姉さんに『ジャンサタ』を見学させて下さい、と言った。電話でだれかと確認をとっている。数分でOKになり受付の案内でスタジオに行く。途中、控室にいた司会の三上寛にあいさつをしてスタジオへ入った。

僕はカニエイに小声で一言。

「バッカせめえスタジオだ」

カニエイはツーレロたちがどこにいるのだとキョロキョロしていた。

確かに楽屋らしきところに見当たらず、他の控室にいるのかと、暗中模索といった感じだった。僕らはイスも用意されず、立ち見でツーレロを探した。

僕はカニエイに小声で、

「たぶん、オンエアーになれば突然、乱入の様に現れるのではないか」

と言った。カニエイも、

「そうかもな」

と少し希望がある返事だった。

すると番組が始まった。オープニングに『今日は中継があります』と三上寛が言った。

僕達は予想してたツーレロの乱入が一挙に崩れ、嫌な予感がした。CM中、僕らは目を合わせると中継という言葉が頭から離れなかった。

CMが終わり三上寛が、

「それでは中継です。パルシェのツーツーレロレロさん!」

僕らはお互い目を合わせガックリした。

パルシェとは静岡駅ビルで、ジヤンサタがよく中継する場所だった。僕らは、

「何それぇ」

と言っていた。わざわざ断ってテレビ局に入ったのにと落ち込んだ。中継中モニターも一切観れず、パルシェに行こうかとしたが、番組中抜け出すのもスタッフに悪いと思い、ツーレロのモニターも観れず番組が終わるまでスタジオにいた。

「これじゃ家でテレビ観てればよかったな」

と二人小声で野次った。

スタジオを出るとき一応、三上寛とスタッフに『有り難うございました』と礼を言い、ダサく清水まで自転車で暗く帰った。

総評は、図々しいのも程がある感じで、いいことが有れば反面もあるということ。そんなことが人生かもしれない。



今までビートたけしさんや、お弟子さん達や関係した方々に、自分の幼年心で呼び捨てにしてしまい、大変申し訳ございませんでした。自分も元はと言えば、漫才師を目指していたのです。自分の憧れと夢から、ビートたけしさんのことを載せてしまいありがとうございます。

今でも僕にとって、たけしさんは夢の人で、たけし監督の映画を良く観ます。映画は意表を突く迫力があり、別の意味での尊敬さを感じています。たけしさんは感性がすごく高くまわりのことを考え、常に神経を張っている方だと感じる。僕はやはり、たけしさんの真剣さが好きです。失礼ですが、自分のキーはビートたけしさんです。


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